2012-10-21

"フラクタル幾何学(上/下)" Benoit B. Mandelbrot 著

買ったはいいが、一年ぐらい積まれたまま、亡霊のように付き纏う奴らがいる。それは未読エリアと呼ばれ、退治に乗り出しても乗り出しても、部屋の一郭に代わる代わる陣取ってやがる。もはや、混沌とした知識の山が異次元空間に埋もれていくのを、指をくわえて見ているしかない。中でも、こいつは一際手強い。なにしろ数学界の怪物を相手取るのだから...

怪物たちは、非整数次元や非整数微積分という奇妙な空間に住んでやがる。非整数というからには離散性を否定する。しかし、だ。連続性を主張しながら、微分不可能とはどういうわけか?ユークリッド幾何学では、点、線、面...を、0次元、1次元、2次元...に対応させる。つまり、次元は整数で組み立てられる。非ユークリッド幾何学の立場にトポロジー(位相幾何学)があるが、位相においては連続性を保っても、次元の移行ではやはり離散性を示す。徹底的に連続性を崇めるならば、空間次元においても連続性を保ちたい。そこで登場するのがフラクタル次元だ。
フラクタル幾何学とは、ユークリッド幾何学やトポロジーで常識とされる離散的次元を連続的次元に拡張しようとするもの、とでも言っておこうか。尚、ライプニッツは、既に微積分を非整数で一般化していたそうな。その意味で、古典数学に隠された素顔を暴こうとする試みである。ユークリッド空間では、直線は1次元だが、海岸線は平面に拡がるので2次元ということになる。トポロジー空間では、直線も海岸線も同じ線だから、位相で抽象化されて1次元となる。ところが、フラクタル空間では、直線より海岸線の方がどう見たって複雑なのだから1次元より大きく、正方形のように面を埋め尽くすわけでもないのだから2次元より小さいとする。こうした視点は極めて感覚的ではあるが、合理性があるかもしれない。
議論する時、人は「思考の次元が違う」などと言い相手を蔑む。次元は認識空間において自己存在にかかわる重要な問題なのだ。そこで、3次元空間に肉体を置くと知りながら、精神という証明のしようのない空間に救いを求める。やはり次元の違う自我がどこかに存在するのだろうか?精神空間にはフラクタル次元のようなものが形成されているのだろうか?おそらくそうだろう。その証拠に、いつもフラフラよ!千鳥足になってどんなに複雑な軌道を描こうとも、俺は酔ってないぜ!と主張し、真っ直ぐ歩いているつもりでいるのだから。

フラクタル幾何学を実践面から眺めると、まだまだ未知数のようだ。とりあえず統計解析の分野で利用されるのだろう。おいらは、統計学と聞くと拒否反応を示す。というのも、分布モデルに当てはめることに執着し過ぎるように思えるからである。モデリングに失敗すれば、簡単にピント外れな議論に陥り、たちまち誤謬をばらまくことになる。その意味で、数学から程遠く、社会学に近い印象がある。なによりも、型に嵌めようとする考え方が嫌いなのだ。その代表と言えば、ガウス分布。正規分布とも言うが、何が正規なんだか?初等教育で学業成績の偏差を例に持ち出せば、学生は素直にうなずく。しかし、現実社会には非ガウス分布が溢れている。新たな問題が発生すると、とりあえずガウス分布に当て嵌めてみる。その考えが悪いとは思わないが、信仰化する傾向がある。株式市場ですら、ちょいと前までガウス過程を想定してきた。ド素人感覚で言えば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいものをと思うのだが、おそらく複雑系を相手取ると、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。
本書は、統計理論があまりにもガウス過程を信じこんできた弊害を指摘している。ガウス過程に着目して非定常性を想定するために、スケーリング則に持ち込めず、幾何学的な解析ができないと。逆に、定常性に着目して非ガウス過程を受け入れれば、安定した確率過程でモデリングできるという。スケーリングとは、拡大縮小や鏡映や回転などの幾何学的な変換操作とでもしておこうか。その重要な特性に自己相似性があるが、ここでは「自己アフィン性」という用語を持ち出している。
ところで、アフィン変換って、ユークリッド幾何学で言うところの第5公準を中心にした物の考え方じゃなかったっけ?つまり、ひたすら平行移動だけで変換系を説明しようするもので、その中心的概念は合同や相似ということになる。学術的な立場からすると、曲率を中心にしたトポロジーとは真逆な発想で、抽象レベルでは低い方向に映る。
そこで、例のごとく思考が勝手に暴走を始めるのであった...
相似性だけで複雑な現象に追従しようとすれば、拡大縮小、回転、鏡映、反転、ループ、カスケードなどの操作が必要になる。ただ、時間軸と空間軸で同じ相似比ではかなり制約を受けるので、各々の次元で独立した相似比に対応させることになる。連続性を保つならば、どこかに不動点が存在するかもしれない。不動点が存在しなければ単純な平行移動で、不動点が存在すれば逆変換と捉えることもできそうか?つまり、回転操作に対して不動点で簡略化できるということか?その意味では抽象レベルが高い方向なのか?また、スケーリングでは、対数スケールや指数スケールに留まらず、あらゆる関数的スケールまでも含まれるのであろう。ただ言えることは、その根底に対称性の原理があるということ、そして、手に負えない無秩序な現象に対して唯一秩序として引き止めてくれるのがスケーリングであるということ、ぐらいであろうか。
...などと勝手に解釈してみたものの、自分の理解力の乏しさを露呈する結果となってしまった。だが、なぜか心地良い。難解な書とは、M本能を呼び覚ますものなのか?

本書は、最初に多くの知見をまとめたエッセイであることが宣言され、フラクタル理論が完成にまだ遠いことも曝け出す。特定のケーススタディの形式で記述されるのは、まだ結論めいたものが打ち出せないからであろう。分布モデルの型に嵌めるというより型を模索するという意味では、統計学よりも解析学に近いか。抽象化のアプローチとは対立的で、現実からのアプローチという意味では、数学よりも科学に近いか。フラクタルにとって、スケーリングが重要な概念であることは分かる。幾何学的解析には欠かせない視点であろうから。しかし、非スケーリングなフラクタル集合も紹介されるから、訳が分からん。フラクタル次元が複雑度を示すのに有効であることは分かる。ただ、フラクタルかそうでないかの曖昧さは拭えない。一応、このように定義される。
「フラクタルとは、ハウスドルフ - ベシコビッチ次元が、トポロジカル(位相)次元よりも大きくなる集合である。...
非整数Dを持つすべての集合はフラクタルである。...」
次元の索引では、ペアノの平面充填曲線は、D = 2、カントールの悪魔の階段は、D = 1 で、いずれも「予想に反してフラクタルでない集合」に分類される。そうなると、カントールの悪魔の階段をフラクタルとするには、別の概念が必要になりそうだ。んー...フラクタルの定義そのものがぼやけてくる。また、割れたガラスの断面がフラクタルとは似つかないものに対して、石や金属の破砕(フラクチュア)面はフラクタルだという。フラクタル理論があらゆる複雑系を言い当てるほど万能でないことは、確かなようだ。フラクタル性は、純粋ランダム性とも違う次元にありそうか。

1. フラクタルの研究方針...ブラウン運動、非整数次元、くりこみ論
物理的なブラウン運動の幾何学モデルにウィーナー過程があるという。連続的な確率過程で、ランダムウォークを分析する時に重要な概念とされるそうな。意外にも、ブラウン運動は単純な現象だという。直線運動と衝突だけで説明できるのだから、単純と言えば単純か。そして、紹介される事例の多くは、ブラウン運動を修正したものである。
最も基本的な操作は、自己相似形のカスケードで生成される。ある次元 D において、自己相似形に支配されるということは、全体が相似比 r で N個の部分に分割できるということである。その関係は、次式のようになる。

  r = 1 / N1/D

変形すると、

  NrD = 1
  D = log N / log (1/r)

これがフラクタル次元である。ユークリッド次元を E とすると、0 ≦ D ≦ E の関係になる。具体的な事例がわんさと紹介されるが、気になるところをつまんでおこう。
(E: ユークリッド次元, D:フラクタル次元, DT: トポロジカル次元)

・海岸線(リチャードソンの指数)E = 2,D = 1.2,DT = 1
・カントール集合(カントールダスト)E = 1,D = log2/log3,DT = 0
・トリアディックなコッホ曲線E = 2,D = log4/log3,DT = 1
・アポロニウスのガスケットE = 2,D = 1.3058,DT = 1
(正確な上限と下限は、1.300197 < D < 1.314534)
・一様なフラクタル乱流E = 3,D = 2.5 ~ 2.6,DT = 2

しかしながら、フラクタル次元が整数の場合もあるようだ。

・E ≧ 2 における連続的なブラウン軌跡D = 2,DT = 1
・E = 2 における連続的なブラウン関数D = 3/2,DT = 1
・E > 2 における連続的なブラウン関数D = 1 + (E - 1)/2,DT = 1

連続なブラウン運動の軌跡と関数は同値にならないという。だから区別して記述される。尚、ブラウン運動という用語そのものが曖昧だという。確かに、時間的な軌跡と事象的な関数では、観点が違うような気がする。本書の話題は、このブラウン運動を基本に置きながら修正を加えていくことになる。
また、重要な概念に「くりこみ論」がある。くりこみ群の目的は、観測における粗視化の度合いを変えたときの物理量の変化を定量的に捉えることだという。その特徴は、逆変換をもたず、粗視化した状態を与えても一意的に元の状態に戻らないという。例えば、乱流は自己相似的ないくつかの渦に分解され、散逸に終わるという。エントロピーの法則に従うのだろうか?このようなモデリングには、ハミルトニアンを用いる方法があるそうな。有限にくりこまれたハミルトニアンは、ある程度縮小された図形の分布を与えるという。そして、この極限の分布がフラクタル次元を与えるはずだとしている。なかなか手強い研究方針だ。様々なランダム図形の結合確率分布を求めるようなものであろうか?

2. カントールの悪魔の階段
病的とされるカントール集合だが、原理そのものは単純だ。まず、線分 [0, 1] を3等分し、中央区間 [1/3, 2/3] を取り除く。残った部分を更に3等分して、中央区間を取り除く。この操作を無限に繰り返し、残った点の集合である。操作方法を眺めれば、通信回線におけるバーストエラーの分布モデルをイメージさせる。
そのフラクタル次元は、D = log2 / log3 = 0.6309...
1より小さいとは、存在するようで存在しないような...存在確率と相性が良さそうな...
本書は、「カントールダスト」という用語を提唱している。これは、言うまでもなく不連続体である。ところが、カントール関数は単調増加の連続体になるから摩訶不思議。カントール関数とは、カントール集合に質量の概念を持ち込んだようなものらしい。
まず、元の棒の長さと質量をともに 1 とし、横座標 R の値が、0 から R の間に含まれる質量を M(R) とする。ギャップには質量がないので、M(R) が変化しない区間がある。そして、座標 (0, 0) から (1, 1) まで増加するグラフを描くと、なんと!質量の概念を加えるだけで不連続体が連続体になってやがる。しかも、微分不可能ときた。この階段は、一様性が欠落したカントールの棒を、一様で均質なものに写像するという芸当をやってのける。
また、ギャップ(隙間)をトレマと呼んでいる。ギリシャ語では穴を意味するそうな。ちなみに、重要な科学的意味を伴って活用されない最も短いギリシャ語であろうと、笑わせてくれる。
トレマ側が重要なモデリングになることもある。トレマの長さの和は次のようになる。

  1/3 + 2/32 + ... + (2k)/3k+1 + ... = 1

これは、乗数理論モデルをイメージさせる。こうなると、連続性の定義そのものを見直す必要があるかもしれない。そして今、知らず知らずして悪魔の階段を登っているってことはないだろうか?千鳥足で歩きながら記憶がぶっ飛ぶとは、まさに不連続体への写像を体現しているのではないか?

3. 宇宙のクラスター化
膨張宇宙と言われるが、物質密度は均等化するようには見えない。銀河はその集団性を壊そうとはしない。物質の世界では、ポリマーのような重合した巨大分子が、複雑な幾何構造を維持しながらブラウン運動をする。通信回線ではエラーの出現に間欠性が見られ、磁気記憶装置の誤り訂正符号はバーストエラーに対処する。そして、なによりも人間社会は群衆化を好む。どうやら自然界は、均等性よりもクラスター化を望んでいるようだ。完全な分散システムを構築することは、ほぼ不可能なのかもしれん。
宇宙の均等化と言えば、オルバースのパラドックスという有名な逆説がある。天体が一様に分布していれば、すなわち、あらゆるスケールに対して D = 3 と仮定すれば、昼夜を問わず光り輝くことになる。しかし、宇宙のクラスター化を前提にすれば、このパラドックスを回避できるという。たとえ宇宙が無限空間であったとしても。フラクタル宇宙の研究者たちは、そのことに気づいていたという。しかし、歴史は彼らを病的に扱ってきたという。
その功績ではフルニエの宇宙モデルを紹介してくれる。科学界では嫌われ者だそうな。ユグノー教徒を祖先に持ち、唯心論者で宗教的神秘者でもあったというから、そのせいかは知らん。フルニエは、盲人が文字を聞くことができる人工器官を作ったり、初めてロンドンからテレビ信号を送ったりした人物だという。マンデルブロは、ケプラーへの反論として持ちだそうとしなかった議論を、フルニエへの反論として持ち出すことに納得がいかない様子だ。
ところで、宇宙の密度って、どうやって定義するのだろうか?
まず、地球を中心に定義してみよう。半径 R の球内の質量 M(R) とすると、次式で近似できる。

  M(R) / [(4/3)πR3]

R を無限にすると、近似密度が収束する極限値として宇宙密度が定義できるという寸法だ。ただ、宇宙が球形なのかは知らん。過去の観測値では、望遠鏡で観測できる範囲が拡がるにつれ、近似密度は驚くほど規則正しく減少しているという。そして、次式の関係でうまく推測できるそうな。

  M(R) ∝ RD

カントールダストでも同じ結果を得たという。地球近辺から始めれば、最初は3次元が現れることになる。そして、周辺には物質がないから、次に0次元がくるのか?さらに観測範囲を拡げて物質にぶつかると、また3次元に戻るのか?大雑把には、0 < D < 3 あたりの分布になりそうか。フルニエの理論値では D = 1 となるらしいが、最良の推定では D ≒ 1.23 になるという。ただ、宇宙密度が正に収束する必要があるのかは知らん。それに、宇宙が時間とともに膨張しているのなら、フラクタル次元は時間の関数にならなくていいのか?

4. コンピュータ回路の幾何学
複雑なコンピュータ回路では、多数のモジュールに細分化される。多数の要素 C とし、多数のターミナル T を介して周辺機器と接続されるとすると、数%の誤差で次式の関係があるという。

  T1/D ∝ C1/E

いわゆる、レントの法則か。実際、電子回路設計では、これと似た感覚でゲート規模の見積もりをやる。C をモジュール全体の体積、T を分割されたモジュールの表面積の和と捉えれば、幾何学的考察ができるはずだ。モジュールの表面積の和とは、インターフェースの持つ総ビット数、あるいは総情報量という見方をすればいい。ただ、モジュールの質の概念が曖昧で経験的なものが大きい。つまり、勘よ。尚、同じ性能分析が人間の能力においても説明できるかは知らん。例えば、脳のつまり具合や質量やらで。

5. R/S解析とハースト指数
ハロルド・エドウィン・ハーストは、アスワンハイダムの計画にあたり、ナイル川の流量分析から、R/S解析とハースト指数を考案したという。
0 年から t 年までの川の流量を総計したものを X(t) とする。t を 0 から d まで変化させ、d 年目における平均値からの増加量と減少量の累積和を求め、その累積和の最大値と最小値の差を R(d) とする。これは、当面の d 年間を支障なく過ごすために備えるべく貯水量ということになる。そして、次式を導いたという。

  R(d)/S(d) ∝ dH

S(d)はスケーリング因子で、とりあえず標準偏差としておこうか。解釈が間違っていたらごめんなさい。というのも、こう記される。
「0 年からd 年の間の標本の平均流量を各年の流量から引いて調整し、t が 0 から d まで変化するときの調整された X(t) の最大値と最小値の差によって R(d) を定義する。」
この調整というニュアンスがよく分からん。おまけに、各年の流量はガウス型ホワイトノイズに従うという仮定の元では、S(d) は重要でないとしている。実際は重要らしいが、マンデルブロの論文を読めってか。
ハーストは、マルコフ的であることを期待したが、予想外の結果となったそうな。川の流量では、H はほとんど 1/2 より大きくなるらしい。ナイル川は、H = 0.9 で、各年の流量は独立とは程遠い。セントローレンス川、コロラド川、ロワール川は、H = 0.9 ~ 0.5 だそうな。H の範囲は 0 ≦ H ≦ 1 となり、0.5 より大きければ持続性があり、0.5 より小さければ持続性がないことを意味する。実際、ハースト指数は市場経済でトレンド性を分析するために用いられる。

6. 主観的数学か、芸術的数学か
しばしば数学は客観性に富んだ学問とされるが、次元の中間的な按配を求める発想は主観性の強い数学と言えよう。このような思考は、カントに通ずるものがある。カントは、理性を構築するには客観だけでは不十分だとし、主観で魅了した。彼の重視した主観とは、直観と芸術心である。本読は、美術品にもフラクタルが出現する例を紹介してくれる。啓蒙用聖書の口絵、レオナルド・ダ・ヴィンチの「大洪水」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」など。
それにしても、コンピュータが作図した仮想惑星、仮想大陸、仮想山脈は、気味が悪いほどリアル!D = 2.1 から 5/2 のブラウン湖の景観、D = 2.3 のブラウン諸島など。「ガウスの山」と呼ばれるCGを眺めるだけで、自然界に存在する複雑系はすべてガウス過程で説明できると錯覚しても仕方があるまい。だが、現実は非ガウス分布に満ち満ちている。そうなると、ガウス分布を用いる正当性を説明する必要がある。山脈はスケールの不変性という特性を持ち、連続的な起伏をもたらす分布が、ガウス分布と相性がいいようだ。最も簡単な起伏はブラウン関数に支配されるという。そして、「非整数ブラウン関数」と名付けている。ブラウン関数の特徴は、どの部分を垂直に切っても、断面は線分のつながりである普通のブラウン関数になることだという。当たり前か。さらに「非ガウスの山」も紹介されるが、これまた気味が悪いほどリアル!ここに提示される数学は、芸術に近い数学なのかもしれん。コンピュータの観点からの芸術とは、些細なバグによってもたらされる結果であろうか?

7. 孤高の英雄たち
今でこそ学問の本流に名を連ねる天才たちだが、彼らが生きた時代には夢想家や異端者とされた人たちが大勢いる。社会から受け入れられるのは、皮肉にも人生の幕を閉じてから。貧乏生活を送り、共同墓地に埋葬された偉人も珍しくない。人類の文明は、こうした孤独の英雄として生きた人々によって支えられる。対して、時代の寵児とされる人たちが、隠れた英雄を覆い隠すかのように生きているのかは知らん。アカデミーや学会などの客観性に富んだとされる団体でさえ、政治的思惑に支配される。あまりにも突飛的な着想がゆえに、審査会から侮辱的な評価を受けたりと。フラクタル幾何学に携わった研究者たちは、まさにそんな人たちの集まりだという。
レヴィ分布のポール・レヴィ、乱流における微分方程式の離散化モデルを提唱したルイス・フライ・リチャードソン、連続時間における確率過程によって株価変動を推測したルイ・バシュリエ、宇宙をスケーリングで説明できるとしたフルニエ、単語の出現頻度の順番と出現確率の関係が反比例するというジップの法則を提唱したジョージ・キングズリー・ジップ、などなど...いずれも、今日もてはやされるロングテール現象やべき乗則を説明するための道具とされるが、その功績はあまり目立たない。真理を探求する匠たちの執念は、けして脂ぎった欲望から生じるものではあるまい。
「現代数学が重視している抽象的な理論からなにか実際の用に役立つことが引き出され得るかという質問に対しては、ギリシアの数学者達が、数時代後に天体の軌道を表現することになるとは思わずに、円錐曲線の諸性質を発見したのは、その純粋な思索が基礎にあったためであると答えておくのがよいだろう...アーメン」

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