「ルーベンス展」の余韻に浸りながら、もう一冊。酔っ払った美術オンチには、名画を読み物としてくれる、このような書はありがたい存在である。尚、ここでは、本書にならってオランダ語発音で「リュベンス」と表記する。
ペーテル・パウル・リュベンスは、第一に画家であったが、学者でもあり、絵画や古代彫刻の熱心なコレクターでもあったという。さらに、外交官としてスペインとイギリスの講和にも尽力し、世を去る時には荘園領主になっていて、野心的で好機を掴む才能に長けていたという。
リュベンス自身が下絵を描いて制作したものと、他人に制作を委ねて監督したものとを合わせると、絵画、銅版画、木版画の全部で3000点余りにのぼるとか。多様な作品群と、その圧倒的な生産力は驚異的!装飾画の連作や大画面の祭壇画をはじめ、肖像画、神話画、歴史画、寓意画などの視覚ボキャブラリーの豊かさは、一つの絵画的言語を形成している。そこには、芸術の才能の上に、ヨーロッパの王族や貴族と個人的な面識を持つ、一代で財を築いた成功者の姿がある。
しかし、彼の人生は順風満帆であったわけではない。幼少期には、宗教迫害のために亡命生活を余儀なくされる。南北で分裂したネーデルラントにあって、絵画という手段を用いて平和を唱え続けるが、落胆せざるを得ない状況に追い込まれる。それどころか、全ヨーロッパが三十年戦争へ向かうのであった。粛清の時代には、直接の批判を避け、遠回しで皮肉じみた文化が育まれる。彼の晩年の作品には、歴史の激動期に裏付けられた寓意に満ち満ちている。
宗教の役割とは何であろう?カトリック教が寛容さを失えば、異教弾圧を激化させる。罪人に寛容でも異教徒に厳しいとは、これいかに?そもそも、神を厳密に規定する必要があるのか?俗界の住人に分かるはずもないのに...
そして、ルネサンス期に生じた古代回帰の思想は、一神教への批判と解するのは行き過ぎであろうか?というのも、ギリシア神話やローマ神話には、神々の自由な振る舞いが生き生きと描かれる。少なくとも、厳正で抑圧的な一人の神より、欠点を持った人間味溢れる多くの神々の方が賑やかで楽しかろう。生命体は多様性に満ちており、それぞれに欠点を補いあう神々の世界の方が現世に適合していそうである。
リュベンスの晩年の作品にも、神話や聖書に反して、物語に微妙なアレンジを加えたものが現れる。彼は古典文学者としても知られるので、無知がそうさせているのではなく、世情に対するメッセージが巧みに組み込まれている。本書で注目したいのは、その作風の変化を、心境の変化と歴史に照らし合わせながら紹介してくれるところである。
さて、リュベンスの作品でまず目につくのが、豊満な肉体と官能的に描く人物像である。キリスト受難では、痩せ細った悲壮感よりも、むしろヘラクレスの英雄的な肉体美を重ねるかのように。女性像では、露出した乳房をふくよかに描き、ヴィーナス像を重ねるかのように。イタリア時代、ローマで古代ギリシア・ローマ彫刻の模写を続けた修行が、作風にはっきりと見て取れる。もっとも、17世紀前半フランドルの慣習的な美の構想に、ふくよかな女性像があったそうな。
ただ、リュベンスの場合はそれだけではなさそうである。なんと、53歳で16歳の女性と再婚!この頃から作風に変化が見られるという。晩年の作品とは、この時期以降を指す。人物画家として名声を博していたが、風景画にも重きを置くようになる。人間と風景を一緒に描く場合、残虐行為では人間どもが主役になり、穏やかな光景では風景が主役になるとは、これいかに?人間をいくら巧みに描いても、自然と同化できなければつまらない、とでも考えたのだろうか?もともと女性や幼児に平和の象徴としての役割を与える作風ではあるが、それがはっきりとしたメッセージとなっていく...
1. 亡命から画家への道
リュベンスは、ドイツのジーゲンで生まれる。彼の両親は、もともとネーデルラントのアントウェルペン(アントワープ)出身。大航海時代、アントウェルペンは国際貿易の中心地であり、思想と情報の発信源であった。父ヤン・リュベンスは、アントウェルペンの市参事会員に選ばれるほどの法律家であったが、カルヴァン派に属していたため1568年異端の嫌疑で告発され、リュベンス一家は20年近い亡命生活を余儀なくされたという。生涯に渡って和解と平和を信条にしたキリスト教的な人文主義者であったのも、こうした経験からくるのだろう。
ネーデルラントは、ハプスブルク家の権力争いに振り回される。1556年、カール5世が退位して修道院に隠遁すると、神聖ローマ帝国は東西に分裂。東のオーストリアは弟フェルディナント1世が統治し、ネーデルラントを含む西は息子のスペイン王フェリペ2世が統治する。フェリペ2世は強烈なカトリック信者で、ネーデルラントに好意を持っておらず、スペインの専制支配を押し付けた。彼の厳格な宗教政策とスペイン軍のネーデルラント駐屯が、反スペイン感情を刺激する。教会や修道院の破壊や略奪は、カルヴァン派の神学思想だけで生じたものではなさそうである。民衆の抗議運動では、単なる政治体制への反感が民族や宗教感情と結びついて、同一視されることが現在でもある。ここでは、スペインとカトリック教会が同一視される。つまり、自由を迫害するもの全てが敵となる。フェリペ2世は、司令官アルバ公爵フェルナンド・アルバレス・デ・トレドを派遣して報復し、恐怖政治を布く。1566年、ついにオラニエ公ウィレム1世が挙兵し、1581年、ユトレヒト同盟によってオランダ共和国の独立となる。当初、南部も北部と組んで抵抗したが、1585年、アレッサンドロ・ファルネーゼ率いるスペイン軍に降伏。
さて、リュベンスは、しばしばカトリック系の芸術家と見なされるが、それは便宜上の改宗であったのだろうか?両親の影響でプロテスタント的教育を受けたのは確かであろう。経済的に余裕がなかったにせよ、母親は高い社会階級に属していることを強く意識していたという。ラテン語が政治や学問などで国際語であった時代、リュベンスは人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学ぶ。そして、可能な限り原典に立ち返り、ラテン語やギリシア語の原文で読む習慣を貫いたという。オウィディウスの「変身物語」やウェルギリウスの「アエネイス」などの文学作品、あるいは、ウァレリウス・マクシムス、プルタルコス、プリニウス、リウィウスといった古代ローマの歴史家の著述を... こうした原語へのこだわりが、独創的な発想を生み出すのに重要な意味があったという。
また、家族が困窮する中、小姓に出されるなどしたが、画家としての才能が優ったようである。風景画家トビアス・フェルハーフトに師事した後、アントウェルペンの有名な画家アダム・ファン・ノールトに師事し、さらに、アントウェルペンで最も称賛されたオットー・ファン・フェーンに師事し、1598年には親方資格を取得したという。ただ面白いことに、リュベンスは、芸術家としては大器晩成型かもしれないという。というのも、初期作品があまりにも少ないそうな。滅多に著名しなかったそうで、作品の判定では様式的な基準に頼るしかないらしい。後の多作ぶりを考えれば、作者不詳の作品に混じって美術館の収蔵庫に眠っている可能性は否定できないという。真の芸術家とは、作品を残すことに命をかけ、名を残すことにあまり興味を示さないものなのかもしれん。
...Cheers for unknown!, Hurrah for Mr. Nobody!
2. ローマ修行
1600年、リュベンスは、弟子のデオダート・デル・モンテとともにイタリアへ行き、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガと出会う機会に恵まれ、まもなく宮廷画家に迎えらる。ゴンザーガ家では、視覚芸術だけでなく、音楽や詩、そして学問も重んじられたという。リュベンスの滞在中、クラウディオ・モンテヴェルディが宮廷音楽家を努め、ガリレオも少なくとも2回はマントヴァを訪れているという。これだけ素晴らしい文化環境にあっても、公爵自身は、真の芸術愛好家ではなかったそうな。公爵の芸術庇護は、貴族としての威信を保つだめだったとか。リュベンスが雇われたのも、宮廷の女性たちを描くためだったかもしれないと。リュベンスは主君に従ってフィレンツェへ赴く。メディチ家の公女マリアとフランス王アンリ4世の代理結婚式に参列するために。マリア・デ・メディチは、後にリュベンスのパトロンになる人物。
また、公爵のためにコピーを制作するという名目でローマに赴き、古代ギリシア・ローマの芸術に触れ、美術品の模写を徹底的にやりまくったそうな。彫刻の「セネカの胸像」や「ラオコーン像」などは、後の人物画の影響に見て取れる。徹底的な基礎訓練の反復が、やがて独自の技術として開花することになる。これが独創性の正体なのかもしれん。模写と猿真似の違いは、オリジナルをヒントに独自に解釈して、自分のものにしてしまうということであろうか。リュベンスは古典だけでなく、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの作品にも触れ、模写しまくる。システィーナ礼拝堂では、ミケランジェロの天上画の預言者や巫女のポーズ、そして比類なき裸体青年のポーズを写し取ろうと、何時間も仰向いたであろうという。
しかしながら、イタリア滞在中の作品で最も顕著なのは、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットらのヴェネツィア派の画家たちの影響だという。特にティツィアーノの影響は、晩年の作品にも再び目立つようになる。
ヴェネツィア派の特徴は、色彩の用い方と筆さばきにあるという。一方、フィレンツェ = ローマ派の特徴は、デザインないし「ディセーニョ」を強調したことで知られるという。ちなみに、ルネサンスの美術理論における「ディセーニョ」という用語は、完成作の土台に素描を用いるやり方を指すそうな。対照的にヴェネツィア派のやり方は「コローレ」と呼ばれ、カンヴァスに直接絵具を塗りつけるそうな。ヴェネツイア派の作品は、素描による複製には向かないということか。ディセーニョによって作品を生み出したミケランジェロのような美術家は、生身のモデルや古代彫刻のような理想的なモデルの写生を通して訓練し、人体の複雑なポーズを考案するという。対して、リュベンスの特徴は、模写の際、輪郭線に影付けを強調し、立体表現を際立たせていることだという。ほとんどの仕上げで、黄色、黄土色、バラ色、白などのハイライトを水彩あるいは油彩で点じているとか。なるほど、リュベンスは、ディセーニョとコローレというルネサンスの二つの伝統を融合させたということか。
また、イタリアの修行で最も重要なのは、カラヴァッジョとの出会いだという。カラヴァッジョの革新的な特徴はリアリズムで、カラヴァッジョ作「キリストの埋葬」の模写に表れている。さらに、ドイツ人画家アダム・エルスハイマーにも魅了されたという。サイズや効果など作品の性格は異質だが、しばしばエルスハイマーの光と影の用い方を取り入れているとか。
これほど芸術溢れる魅力的なローマとはいえ、対抗宗教改革の中枢にある都市、リュベンスにとっては複雑な心境だったかもしれない。あるいは、芸術を通しての真理の探求は、政治的な感情を凌駕していたのだろうか?
3. 普遍的な構想
1609年、12年間の休戦協定が調印され、ネーデルラントの平和に希望の光がさす頃、アントウェルペンへ帰郷する。スペイン宮廷の反対をものともせず休戦を推進したのは、アルブレヒト大公とイサベラ大公妃だったという。イサベラ大公妃は非凡な人物で、政治情勢に精通し、自立した判断力と強い性格の持ち主だったとか。リュベンスは、「女性の美徳をすべてに恵まれた高貴なお方」と評したという。人情味溢れる良心的な大公夫妻に敬意を払い、まもなく宮廷画家となる。こうした人脈が工房を成功へと導くことに。
対抗宗教改革は、その目標の多くを達成しつつあった。16世紀末には、ヨーロッパの半分がプロテスタント国を表明していたが、1650年には、5分の1にまで減り、多くがカトリックに復帰する。カトリック教会の改革運動の推進は、大半が才能豊かな個人によって行われたという。イエズス会を創設した聖イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会士で東洋へ布教に赴いた聖フランシスコ・ザビエル、オラトリオ会を創設した聖フィリッポ・ネーリ、カルメル会を改革した聖女テレサといった人たちである。リュベンスは、これらの修道会からも注文を受けたが、最も関わりの深いのがイエズス会だったという。宗教思想を煽るのに、ダイナミックな視覚効果による宣伝ほど有効なものはないだろう。しかも、大画面で等身大の迫力で。そのうってつけが、リュベンス工房というわけである。リュベンスは、光と影の強い対比を用いて、キリスト像に英雄的なイメージを植え付ける。光源が人体の上で戯れる様子は、ミケランジェロには見られなかったものだが、カラヴァッジョの影響で典型的なバロックの特徴を与える。ルネサンスの作品には、ここまでの迫力はないらしい。
「キリスト昇架」には、両腕をあげて天を見上げる筋骨たくましいキリストの姿がある。痩せこけ、衰弱してうなだれるイメージとは、まったく正反対。力強く生きておられるという願いが込められているのか?なんとなく復活を予感させる。ヨハネの福音書(1:14)には、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というのがある。この作品は「肉となった神」にほかならないというわけか。
リュベンス絵画には、世俗的なリアリズムが宿る。大柄で肉付きのよい男性像、露わな胸に裸の子供を抱き寄せる母性像、豊満で官能的な女性像、興奮した犬... こうしたものは大袈裟にも映る。信仰心を掻き立てるだけなら、禁欲的で物質感のないものの方がよさそうな気もする。だが、彼の作品には物理的な物質関係までも描かれ、霊的な法悦や天上の物語でさえも、ニュートン力学上の出来事であるかのようである。リュベンスは、本当にカトリック的な信仰心を煽ろうとしたのか?熱烈な宗教心に対して、ちょっと冷静になれよ!と訴えているように映るのは気のせいか?
「キリスト降架」には、ぐったりした死せるキリストが、人々の手で十字架から降ろされる姿が描かれる。聖母マリアとマグダラのマリアの悲しむ姿など登場人物に強い光をあてて背景を暗くしていることが、悲壮感を強調する。この作品を見て、とても残虐な弾圧を支持する気にはなれない。リュベンスは、神を崇める前に、人道としての感情を呼び覚まそうとしたのでは?と解するのは行き過ぎであろうか?
「リュベンス芸術の最大の功績の1つは、彼以前のミケランジェロの功績と同様、ギリシア・ローマ神話であるか聖書であるかを問わず、いにしえの物語から普遍的真実を抽出したことだった。異教世界とキリスト教世界の硬直した区別を超えた真実である。かくして、ラオコーンの死はキリストの受難へと転じた。」
4. 外交官としての平和への願い
1621年、休戦協定が期限切れとなると、再び戦争が勃発し、やがて全ヨーロッパへ波及する。当時、全ヨーロッパは二陣営に分かれていた。一方は、カトリックを信仰するハプスブルク勢で、スペイン、ポルトガル、ハンガリーの一部、ドイツ諸侯の国々。もう一方は、これらに対抗するイギリス、フランス、デンマーク、スウェーデン。
1618年、ボヘミアのプロテスタントがプラハの王宮を襲い、三人の国王参事官を窓から放り出すという「プラハ窓外放出事件」が起こる。反乱者は、新しいプロテスタント王としてドイツ人フリードリヒ5世を擁立。フリードリヒ5世はイギリス王ジェームズ1世の娘を妃に迎えていたので、イギリスとの講和を期待してのこと。しかし、1620年、フリードリヒ5世はヴァイサーベルクの戦いで大敗を喫し、オランダへ亡命。アルブレヒト大公とイサベラ大公妃は休戦協定の更新を望むが、フェリペ3世はオランダへの軍事行動を再開しようとしていた。折悪しく、大公アルブレヒトは1621年に世を去り、南ネーデルラントの自治権はスペインへ返還される。
こうした混乱期に、いくら巨匠とはいえ、外交官として手腕を振るうとは、驚くべきものがある。宮廷画家には王室に近づきやすいという利点もあり、工作員という目でも見られる。実際、名画は外交の道具とされてきた歴史がある。とはいえ、国家同士のいがみ合いは、文化交流が糸口になるのも確かで、現在では経済交流が戦争リスクを軽減する。政治家が大局を推し量れず、自らの面子ばかりで処理しようとすれば、政治不要説ならぬ政治家不要説が叫ばれ、そこにマスコミという名の工作員が便乗するという構図は、いつの時代も同じか。
芸術の巨匠が、ハプスブルク家の正式な外交官に任命されることは、大きな意義がある。プロテスタント国イギリスは、もともとオランダと同盟している。リュベンスの目論見は、スペインがイギリスと講和すれば、その仲介でオランダとの協定が戻るというもの。いくら反目しあっていても、休戦という状態が大切なのだ。友愛なんてものを押し付けるから、却ってナショナリズムを煽る。人間関係というものは、近づきすぎるとろくな事にならないようである。好き嫌いは人間感情として自然に生じるもので、紛争は隣国で起こりやすく、神の前で誓った永遠の愛ですら長続きしない。ましてや宗教感情となると、交じ合うものではない。互いに存在を認め、そっとしておくこそ肝要。平和裏に共存するとは、距離をはかるという意味であろうか。
ところが、リュベンスにとっての平和とは、オランダがスペイン統治下に復帰することを意味していたという。駐英オランダ大使アルベルト・ヨアヒミは、唯一の方法はスペイン人をネーデルラントから追い払うことだ、と主張していたというのに。リュベンスほどの眼力の持ち主が、オランダが独立を放棄するとか、スペイン支配の下で平和を求めるとか、こんな非現実的な信念を持っていたとは。亡命時代を忘れたわけではなかろうが、カトリック信仰とハプスブルク家に対する忠誠心が強かったようである。というより、イサベラ大公妃への忠誠であろう。だが、イサベラ大公妃の意向とスペイン国王の野心は正反対。リュベンスは、大公妃のために北部諸州と交渉を試みるが、1631年と32年のオラニエ公訪問は不成功に終わる。
5. 理想の女性像とヌードモデル
妻イサベラ・ブラントが死去して4年後、1630年、リュベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚する。そして、多くの肖像画を残すだけでなく、彼女を数々の物語に登場させているという。スペイン宮廷が注文した「パリスの審判」では、枢機卿王子フェルディナンドから中央のウェヌス(ヴィーナス)が妻エレーヌにそっくりだと指摘されたとか。それは、トロイア王子パリスが、三人のうちで誰が最も美しいかと審判を求められた物語で、中央のウェヌスとは、トロイアのヘレネで、スパルタ王メネラオスの妻のこと。パリスがヘレネを連れ去ったことでトロイア戦争の原因となる。
「ウェヌスの祭り」や「三美神」もエレーヌをモデルにしているという。なるほど、エレーヌの肖像「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」とそっくり。この作品は、ヘット・ペルスケン(毛皮さん)と通称されるそうな。しかも、古代ギリシア・ローマ彫刻と結びついて「恥じらいのヴィーナス」や「メディチのウェヌス」のポーズが描かれる。
一般的に裸の女性モデルを前に描くことは、19世紀になるまで行われなかったという。1850年まで公的な美術学校では女性モデルが許されておらず、私的な環境でしかありえなかったとか。エレーヌは、リュベンス工房における愛の女神のような存在なのかもしれない
ところで、主要な文学作品にオウィディウスの「変身物語」がある。しかも、女性ヌードを描く恰好の口実だったという。画家たちに最も人気があり、「変身物語は画家の聖書」と呼ばれたほどだとか。アポロに追われたダフネは樹木に変身し、糸つむぎと機織りの腕前を女神ミネルウァと競おうとしたアラクネは蜘蛛に変えられる。ローマ神話の主神ユピテルは、ギリシア神話で言えばゼウスだが、様々なものに身をやつして、汚れを知らないニンフや人間の女を犯しまくる。エロティズムとユーモアあふれる雷オヤジの情熱が、オウィディウスの「変身物語」には満ちている。リュベンスの作品がみだらなものにならないのは、神話に取り組んでいるためだという。それは、普遍的なエロティズムを追求した結果であろうか?
6. 寓意画に見る晩年の境地
再婚した頃から、作風が公的なものから私的なものへ変化していくという。成功と財産を手中にしようとした野心的な時期には、パトロンたちに気に入られようと、大半が公共芸術となる。こうした時期を経て、やがて私的世界へ籠るようになる。富や名声に虚しさを感じるようになったのだろうか?騒がしい日々に嫌気がさし、真の安らぎを求めようとしたのだろうか?開眼のためには、自己の野心をも経験せねばならないのかもしれん。
「ヤヌスの神殿」には、戦争と平和という寓意が込められる。古代ローマの慣習で、ヤヌス神殿は平和な時は閉じられる。しかし、この作品では扉が開かれ、目隠しをして剣と松明を振りかざす男が、扉から出てくる場面が描かれる。
右手には、カドゥケウスを持つ「平和」が両手で扉を閉めようとし、後ろから大公妃と白衣の「敬虔」が力を貸す。「敬虔」は、火を灯した祭壇の上に献酒用の皿をかざしている。そして、ケシの旗と麦の穂とシュロの技を携えた「安全」と「平安」の擬人像が、それぞれ体現される。
一方、左手には、蛇の髪をした「不和」と復讐の女神ティシフォネが扉を開けようとしている。二人の間には、壺が倒れて血が流れ出る。その左から、大鎌を持ち、疫病の松明を掲げたミイラが死へ誘なう。「飢饉」は翼と竜の尾を持つ女面鳥身の怪物として表され、左側の連中の上を飛び回る。
しかしながら、戦争の非道さを最も雄弁に物語っているのは、母親の髪を掴み子供を引き離そうとする兵士の描写であろう。もはや、リュベンス芸術の主役は、宗教の神や歴史上の人物ではなく、罪のない犠牲者の象徴としての母と子へと移っていく。
創造力を刺激した官能的な霊感源が妻エレーヌだとすれば、芸術的な霊感源はティツィアーノだという。イタリアで、ティツィアーノ作品を模写しまくった真の成果が、晩年になって現れたようである。それは、風景の中に、神々を再構築、あるいは再創造するような...
ティツィアーノ作「ウェヌスの礼賛」の模写などは、その典型であろうか。その作品では、ティツィアーノが、矢で狙いをつけられて両手を広げている男の子クピド(キューピッド)を、女の子に変えているという。クピドたちは男の子にだけ翼があることになっている。ギリシア神話では、クピドはウェヌス(ヴィーナス)の息子だから。しかし、あえて女の子にしたのは、リュベンスにとって愛とは本質的に男女の間の現象で、性別は関係ないということらしい。しかも、多産を平和の象徴としているのか?
「ディアナとカリスト」という作品は、復讐の物語を同情によって愛の物語に変貌させているという。ディアナは、ギリシア神話でいうアルテミスのことで、狩りを司る処女神。供をするニンフたちも純潔でなければならないが、ユピテルはディアナに化けてカリストに近づき我がものにする。やがてカリストは身ごもり、ディアナの知るところとなり、罪として熊に変えられる。熊になったカリストは、息子アルカスに追われると、ユピテルはカリストを天上に非難させ、母子ともに大熊座と子熊座になったというお話。
ティツィアーノの作品は、二人のニンフがカリストを押さえつけ、それをディアナがなじるという荒々しい構想。対して、リュベンスの作品では、二人の主役は対等に描かれるという。ニンフたちは、下から覗きこむように慰めているように見え、カリストに対する同情の念を感じる。また、ディアナが結わない髪をなびかせているのが、異教徒的なイメージを体現しているそうな。なるほど、最初どれがディアナか分からなかった。
「平和の寓意」には、和平交渉の成功に鼓舞された楽観論から、平和は容易ではないという悲観論への推移が表れているという。平和の擬人像と愛の女神ウェヌスを融合させるという構想でありながら、妙に暗い印象を与える。中央に「平和」が座り、乳房からミルクを絞りだして赤ん坊にあてがう。赤ん坊は、通常、富の神プルトスと解されるらしい。果実を囲んだ平和な光景に、鎧に身を固めた戦の神マルスと復讐の女神たちが襲う。対して、兜をかぶった知恵の女神ミネルウァが「平和」を防御する。
母性と多産と子供の守り手としての「平和」という考え方は、古代ギリシアに由来するもので、ホメロスやヘシオドスに見られ、アリストファネスの反戦劇にも語られているという。この作品は、チャールズ1世に捧げられたそうな。
「戦争の惨禍」にもウェヌスに役割を与え、ついに「マルスと戦うヘラクレスとミネルウァ」で英雄ヘラクレスと芸術の神ミネルウァを戦の神マルスと戦わせることに...
「嬰児虐殺」では、新約聖書にあるヘロデ王の命でローマ兵たちが、嬰児たちが虐殺される場面。しかし、嬰児だけでなく、市民全体が虐殺されているところに、深刻なメッセージがうかがえる。三十年戦争へ拡大する絶望を描いたのか?あるいは、ヘロデ王の虐殺は、人類史で繰り返される普遍的行為と皮肉っているのか?
リュベンスの作品で、最も残虐な殉教図の一つが「聖ペテロの磔刑」であろう。聖ペテロの殉教は「黄金伝説」の記述で広く知られる。ペテロが自ら望んで逆さ磔にしてもらうのは、キリストと同じ形になることを遠慮したとされる。この作品は、4人の刑吏と、1人のローマ兵が聖ペテロを十字架に釘で打ち付ける場面。身の毛もよだつとは、こういう構図を言うのだろう。
7. 風景画に託す自然への思い
晩年の寓意画には、苦難が満ち、愛に絶望し、争いに裂かれた現実を想起させるものがある。しかし、同じ時期の風景画には、安定した世界があるという。もともと、独立した主題としての風景画は、さほど関心がなかったらしい。展覧会でも強烈な人物画家としての印象が強い。風景画もあるにはあったが。
リュベンスは、ティツィアーノの「カール5世騎馬像」に感銘を受けていたという。ティツィアーノは、カトリック世界の擁護者としての皇帝を描くのに、夕映えの風景を巧みに使っている。リュベンスの「レルマ像騎馬像」の風景は、ティツィアーノの手法に倣ったものだという。人物に威信を与えるために、風景を効果的に利用するのは常套手段であるが、あくまでも人物が中心に据えられる。
一方、晩年の作品では、風景が主役となっているのが見て取れる。歳をとると、故郷の風景に思いを重ねて、懐かしんだりするものなのだろう。普段のなにげない風景に、情緒を感じたりするのは、感受性が豊かになった証であろうか?あるいは、自然を新たな目で観察できるようになるのだろうか?
「虹のある風景」には、自然の中に人間たちと牛たちが溶け込む。そこに歴史物語はないが、妙に癒される。人間は自然と同化してこそ、本来の姿ということであろうか。「羊飼いと羊のいる日没の風景」、「月光の風景」など、もはや余計な説明はいらない。「フランドルのケルメス」には、人々が御馳走を食べ、酒を飲み、踊っている光景。人々が描かれるものの、やはり主役は風景。「嬰児虐殺」のように、残虐行為では人間が主役になり、平和の光景では自然が主役になる。
しかしながら、農民の祭りと対照的に描かれるのが、まったく違う社会で繁栄する人々。
「愛の園」には、17世紀の上流階級の集いが描かれる。豪華な衣装に飾られた古典的建築の前で、愛を育む人々。なぜか?こちらは人間が中心に映る。
2013-07-14
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