2013-07-21

"イノベーションのジレンマ" Clayton M. Christensen 著

「自宅で読めるハーバードビジネススクールの精髄!」
惚れっぽい酔っ払いは、この宣伝文句にイチコロよ。破壊的技術によって市場に激変が生じると、業界をリードしてきた優良企業はなぜ失敗をするのか?これは、その法則を探求する物語である。
大企業の失敗原因でよく耳にする指摘と言えば、慢心、官僚主義、血族経営の疲弊、長期計画の欠乏、近視眼的な投資、能力や資源の配分ミス、あるいは不運などであろう。確かに、そういう企業もある。しかし、ここではエクセレントカンパニーやビジョナリーカンパニーと呼ばれた企業が対象である。そして、経営陣が正しく振る舞うがために、あるいは、輝かしい成功を収めてきたがゆえに、陥る罠があるという。やはり、その根幹にあるものは技術的な問題であり、イノベーションの問題であったか。尚、ここで言う技術とは、エンジニアリングや製造プロセスに留まらず、マーケティング、投資、マネジメントなど、あらゆるプロセスを統括するものであり、そしてイノベーションとは、これらの革新を意味する。

日本社会の閉塞感は未だ出口が見えず、失われた10年は、いまや20年と囁かれる。多くの日本企業は、高度成長とともに最下層から最上層まで上り詰め、行き場を失っている。かつて、アメリカ経済を牛耳ってきた自動車産業のように。社員たちが業界をリードしてきた大企業に見切りをつけ、ベンチャー的な事業を設立して市場の最下層からやり直そうとする動きもあるにはある。
だが、一般的には、安全志向の強すぎる国民性が指摘される。アメリカの強みは次々に新企業や新産業が出現することにあるが、日本では出現しにくい体質的な問題があるのだろう。企業の伝統にしがみつき、業界体質にしがみつき、官僚体質が蔓延し、技術者たちの移動もあまりない。金融業が新企業や新産業に投資することも少ない。
はたまた、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払い、保険好き!と外国人から皮肉られる始末。欧州では年収500万円程度でも、別荘を持って有意義に生きている人たちがいるというのに、日本では年収1千万円の家庭に子ども手当を与えることが真面目に検討される。年収900万円の所得制限で高校授業料の無償化を訴えたところで、義務教育でもないのに大義名分が見当たらない。日本経済は本当に疲弊しているのか?お金の使い方を知らないだけではないのか?自己投資のやり方が分からないだけではないのか?
ところが、だ。ここに紹介される失敗事例は、そんな愚痴など軽くあしらう。競争感覚を研ぎ澄まし、顧客の意見に注意深く耳を傾け、新技術に積極的に投資し、それでもなお、市場の優位性を失うというのだから。識者たちは、よく時代の変化に対応できないと主張する。だが、ここでは、市場の変化が速かろうが遅かろうが、最先端の電子技術に基づこうが旧式の機械技術に基づこうが、製造業であろうがサービス業であろうが、同様に起こる現象だとしている。やはり、閉塞感を打破するものは、破壊的モデルに縋るしかないのかもしれない。この書は、破壊と創造の原理が存分に味わえる一冊...とでも言っておこうか。ただし、ウォール害(街)式破壊は勘弁したい。

注目したいのは、「バリューネットワーク」「資源依存理論」という二つの観点から迫っていることである。バリューネットワークは、リチャード・S・ローゼンブルームと著者クレイトン・M・クリステンセンが導入した概念だそうな。大雑把に言えば、価値観の共有ネットワークで、共通するニーズを持つ顧客層と、そのニーズを提供する企業群によって構成される集合体である。この集合体は、自社や既存顧客はもちろん、サプライヤ、流通事業者なども含め、生存価値を認め合う生態系として生息する。そして、彼らの共通価値観が信仰レベルにまで到達すると、破壊的イノベーションに対して無力となる。なにしろ、破壊的イノベーションってやつは、新たな価値観を吹き込むのだから。
また、資源依存理論は、組織の存続に欠かせない人材や資材や資金や組織能力への依存、あるいは、他社や顧客への依存といったあらゆる依存性から分析する立場である。成功してきた企業は、従来の顧客層を捨ててまでのリスクを負うことはできないので、過去の依存性と共存しながら新たな価値観に対処する必要がある。
したがって、本書は優良企業の足場を形成してきたバリューネットワークと資源依存性こそが妨げとなって、業界をリードしてきた地位までも奪われてしまうと論じている。既存組織が大規模なほど改革は難しく、特に破壊的な創造においては無から有を生む方がはるかに容易い。共通価値観によって集合体を形成するのは、自己存在の主張であり、ある種の防衛本能が働いている。人間ってやつは、権益を一度手にすると、それを頑なに守ろうとするために、思考までも硬直化させ、ある種の宗教原理が働く。自分の生活圏や枠組み、そこから少しでもはみ出そうものなら、すべてが失われるんじゃないか?そんな不安に駆られる。
新たな価値観を分析するには、一旦、既存の価値観を否定してみる必要もあろう。つまり、一旦、自己存在を否定してみることである。ただ、新たな価値観が必ずしも正しいとは限らない。価値観のネットワークは、ソーシャルネットワークにも見られる現象で、仮想的な生態系だけに破壊も容易い。この存在否定の概念こそが、イノベーションのジレンマに対抗する方策ということになろうか。
...などと解釈してみたものの、そんな勇気は持てそうにない。

1. 会社は誰のものか?
イノベーションには大きく二つのものがあるという。「持続的イノベーション」「破壊的イノベーション」である。持続的イノベーションとは、現存製品に対して改良、改善によって進化していく変革。一般的に目が行きがちなのは、こちらの方であろう。対して、破壊的イノベーションとは、突如として出現する技術によって市場バランスを崩壊させるほどインパクトのある変革である。いわば、前者は連続的変化で、後者は離散的変化である。
連続的であれば予測可能であり、巧みな市場調査が功を奏すだろう。顧客アンケートといった手法もそれなりに機能するはずである。成功してきた企業には、顧客の言葉によく耳を傾けよ!という至極まっとうな思考が働く。お客様は神様です!という企業精神は、老舗から培われてきたもの。そして、技術や製品は、顧客の感覚とともに進化を遂げることになる。経営陣は自らの自由采配によって事業戦略を練ることができると考えがちだが、実はそれは提案でしかなく、顧客や投資家の承認の上で投資行動や資源配分を決定することになる。
しかし、こうした振る舞いは、持続的イノベーションにおいて効果を発揮するものであり、破壊的イノベーションにおいては、むしろ妨げになるという。破壊的イノベーションでは、顧客にも想像できない技術によって市場が形成され、そもそも市場調査が通用しない。既存の市場を侵食し、ひょっとしたら業界ごと頓死させることだってありうる。そこで、破壊的技術の前では、まったく別の価値観を持つ顧客層を開拓する必要があるという。従来の顧客層と企業の間には、長年培われてきた事業戦略によって飼い馴らされてきたところがある。企業が顧客を飼い馴らすのか、顧客が企業を飼い馴らすのか。
市場の激変期においては、企業にも顧客にも価値の多様化を認める必要があり、ますます複雑な事業戦略が求められるだろう。要するに、破壊的イノベーションの局面では、経営陣だけが開拓精神を持っても機能せず、顧客層までも囲い込んで共に開拓精神を持たなければ、企業は成長できないということである。破壊的イノベーションでは、企業側にも顧客側にもワクワクするような空気が欠かせない。会社は誰のものか?と問えば、お客様のもの!というのはそれなりに真理を含んでいるだろう。ただし、売り手にも客を選べるという余地を残しておきたい。

2. 破壊的技術か?持続的技術か?
持続的技術において、率先して技術開発をしてきた企業が、出遅れた企業よりも明らかに優位に立つという事実はないという。実際、二番煎じ、三番煎じが成功したという事例が多い。
一方、破壊的技術においては、先んずる技術力が圧倒的な優位性を持つという。破壊的な価値をもたらすとは、競争相手の予測不能な領域で勝負ができるということである。とはいえ、破壊的イノベーションは、だいたい小さな市場から始まるので、大企業にとって採算がとれない。よって、市場規模に適応した組織を作り、リスクを抑える必要がある。斬新的な取り組みでは、従来の企業精神から逸脱するような、あるいは、ブランドイメージを捨てるような、独立組織を作るのが手っ取り早い。ただ、破壊的イノベーションを企てられる能力の持ち主は、ごくわずかな人たちであろう。一般的に、改革と呼ばれる殆どの施策は、持続的イノベーションに属す。実際、新技術が模倣なのか発明なのか、設計者自身ですら判断することが難しく、特許紛争では、真の発明元が誰かも分からないまま、政治的にうまく振る舞った者が勝利する。
また、持続的と破壊的のどちらを選択するかは、企業の能力にかかわる問題で、ほとんどのケースで選択の余地がない。あるいは、持続的技術なのか破壊的技術なのかを区別することも難しい。
例えば、電気自動車は破壊的技術と言えるだろうか?自動車はそれ自体が凶器となる代物で、最も重要な機能は安全性にある。電気かガソリンかという動力源の違いで、基本的意義までも変えることはできまい。それに、人や企業の立場によっても解釈が変わってくる。エンジン設計者から見れば破壊的技術かもしれないが、組立工員から見れば持続的技術かもしれない。エコ意識の強いユーザから見れば経済的破壊かもしれないが、走り屋から見れば破壊的と言うには物足りないだろう。
では、携帯業界を賑わすスマートフォンは破壊的技術であろうか?市場への投入タイミングと一気に資源を集中させる韓国メーカの勢いを見ると、市場に与えたインパクトは大きい。製造技術としては持続的であっても、マーケティング戦略では、やはり破壊的と言わざるを得ない。
一方で、日本の家電メーカが得意とする液晶技術はどうだろうか?製造技術としては破壊的かもしれないが、マーケティング戦略では、いまいちインパクトに欠け、持続的技術に留まっている。
必ず、良い製品が、良い技術が、良い仕様が、良い規格が、市場を制するわけではないことを、過去にも実証されている。1990年代、ビル・ゲイツが勝利したのは、MicrosoftのOSが他社より優れていたわけではあるまい。GUI環境を先駆けたのは、Macintoshであって、技術者の間ではこちらの方がお洒落とされた。かつて一世風靡したウォークマンにしても、オーディオ機器の携帯化と言えば、なにも破壊的技術には見えないが、市場破壊を企てるには十分なインパクトがあった。もはや、技術力は総合的な観点に立たなければ評価できない。人や企業によってイノベーションに対する見方が多様であれば、事業戦略も多様化するだろうし、そこに解があるのかも分からない。そして、技術における成功と失敗の基準も多様化することになろうか...

3. 品質の観点から見た破壊的イノベーションの威力
いつの時代でも、品質は製品やサービスにとって本質的な意味がある。しかし、破壊的イノベーションでは、市場が未開拓であるがために、どうしても品質が疎かになりがちである。使いこなすユーザでさえ、当初の粗悪な品質に愚痴を垂れることが多い。それでも、破壊的イノベーションに威力があるのは、新たな価値観の可能性を示し、ユーザをワクワクさせることにある。初期ユーザが人柱となって、新たな価値観の伝道師となるわけだ。
対して、成功してきた企業の強みは、長年培われてきた品質管理の技術にある。抱えた顧客も品質には特にうるさい。おまけに、大企業ほど品質で叩かれ、マスコミの餌食とされる。
いくら破壊的な価値観を吹き込んでも、人はすぐに慣れ、すぐに飽き、すぐに退屈病に襲われる。いずれ新興企業も、市場の成長とともに品質向上に力を入れる必要に迫られるだろう。そして、新興企業の看板を降ろし、成功した企業の仲間入り。破壊的に登場した彼らもまた、破壊的に登場する新興モノと競争する運命にある。過去の成功者は、いつでも今日の失敗者となりうる。だが、ずーっと失敗者であり続ければ、いらぬ心配よ。安心してアルコールで自己破壊を続けることができれば、それが幸せというものであろうか...

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