2013-08-11

"国富論(上/下)" Adam Smith 著

正直言って、経済学は最も嫌いな学問に属す。しかし、独立するからには無視できない。株式会社というものを理解するには株式市場に参加するのが手っ取り早いと考えたりもしたが、学問の本線ではなさそうである。結局、値動きに惑わされ、夜な夜なファンダメンタルズに執着する始末。人間が金の前で盲目になるというのは本当らしい。十年以上経験して、ようやく長期投資が安定軌道に乗り、ストレスがなくなった。いや、鈍感になったのかもしれん。本当に必要なのは会計学や簿記の方であるが...
経済学に触れるなら、いつかはアダム・スミスという意識がどこかにある。正式名「国の豊かさの本質と原因についての研究」には、ユークリッドの「原論」やニュートンの「プリンキピア」と同じ香りがする、と言えばちと大袈裟か。スミス自身は経済学の父と呼ばれるものの、道徳哲学者として名声を博していたようである。
さて、「国富論」には多くの翻訳版があって、どれを選ぶかが悩ましい。立ち読みしていると、山岡洋一訳(日本経済新聞社出版社)の冒頭説明になんとなく惹かれる。
「既訳のある古典を翻訳する際には、既訳を参照し継承するのが翻訳者の使命である。」
そこには、竹内健二訳(改造文庫,1931 - 33年, 東京大学出版会,1969年)、気賀勘重訳(岩波文庫, 1926年)、大内兵衛訳(岩波文庫, 1940 - 44年)に学ぶ点が多い、とある。そして、原語と訳語を一対一で対応させていないという。アダム・スミスが用語を多様な意味で使っていることは、広く知られているそうな。一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念をいくつもの同義語で表したりするのは、哲学書にありがちな趣向(酒肴)である。真理を探求すれば、言語の限界に挑むことになる。「国富論」もその例に漏れない。
また、歴史書としもなかなか。イングランドやオランダなど国力算出では、ウィリアム・ペティの「政治算術」を彷彿させる。金融業や手形の発達過程を考察するところは見物で、過剰な紙幣流通がリスクを高めることが既に指摘される。七年戦争で軍需景気に見舞われると、商業利益率が上昇し、企業家たちは無理してでも事業を拡大しようという誘惑に駆られる。特に、イングランド銀行とスコットランド銀行が手形を乱発し、逆振出の手口が横行する様子は、マネーサプライが増殖する仕掛けに通ずるものがある。尚、期待していた「神の見えざる手」という用語が見当たらない...

一般的に経済学の歴史は、たかだか二百年余りとされる。しかし、経済循環、すなわち交換に関する法則は、貨幣が発明された時代から模索されてきたはず。古代の記録には、高利貸しの存在や、都市国家の財政破綻を企てる貨幣偽造などの記述が残される。貨幣の発明以来、価値評価は仮想化へと邁進してきた。個人の能力は賃金で査定され、債権は現物価値を代替し、利息は将来価値を表し、あらゆる価値が貨幣換算される。人の命ですら。おまけに、電子マネーの登場で貨幣自体が曖昧な存在となった。実体価値と仮想価値の間に価格差が生じるということは、そこに金儲けの機会が訪れることを意味し、ここにサヤ取りの原理が生じる。
18世紀になって、経済学がようやく学問の地位を獲得したのは、歴史の偶然であろうか?大航海時代に発見された航路を武器に植民地貿易が盛んになると、商人の政治的圧力が増していく。商人が各国を往来するようになれば、どの地域でどんな品目の生産が有利であるかを知ることができる。情報力が国富にとって重要な位置づけとなり、商人活動が国の諜報機関として機能する。総合商社のような形態が生じたのも、この頃であろうか。ちなみに、総合商社の情報力が日本の高度成長時代を支えてきた。今は知らんが...
重商主義が旺盛な時代、商人の利益が最優先され、そこに宗教道徳が強く結びつくと、保護貿易どころか流通で不利とされる品目が全面禁止されたり、金利が厳しく制限される。その結果、密輸業者や闇金融が繁盛する。政府が介入すると様々な価格が歪められるのは、今も同じか。
「国王や閣僚が民間人の家計を監視し、贅沢禁止法や贅沢品輸入の禁止によって民間人の支出を抑制しようとするのは、まったく不適切だし厚顔無恥である。国王と閣僚はつねに例外なく、社会のなかで最大の浪費家である。」
政府が経済に強く関与する時代、スミスは長期的な安定価値を見出す方法として自由貿易を唱える。価値は自然の秩序によって創出されるもので、人間の道徳観や宗教観などで決定できるものではないと。そして、国富とは、金銀や貨幣の収集量で決まるものではなく、あくまでも労働生産にあることを強調し、生産に役立つ労働者数とそうでない労働者数の比率から持論を展開する。
「どの国でも、その国の国民が年間に行う労働こそが、生活の必需品として、生活を豊かにする利便品として、国民が年間に消費するもののすべてを生み出す源泉である。」
労働に価値を求めるあたりは、マルクスに影響を与えることになる。
また、政策では、消費者の利益が無視され、生産者の利益ばかりが優先されると批判し、政府の役割についても論じている。それは、国防や司法の観点から主権と公平を唱え、公共事業の在り方では教育に主眼を置き、市場を通じて供給できない公共財の供給のみに専念すべきであるというもの。これが税金を搾取する正当性というものか。
さて、国富論が自由放任主義の礎になっているのは確か。経済人がよく口にする人間の行動原理に、利益の最大化や最大効用を求めるといったものがあるが、それは本当だろうか?そこそこ幸せであればいい!というのが多くの人々の本音ではあるまいか?実際、スミスも国富のために生産効率や資本投下効率を最大限高めることを唱えている。だが、ここで主張する自由放任と、現在の金融屋たちが主張する自由放任では、かなり乖離があるように映る。そもそも金融屋とは、価値の乖離を煽るのがお好きな人種か。金融工学にしても、価値の真理を探求すると称しながらサヤ取りの研究にご執心のようだし、ノーベル賞級の経済学者たちが国際的金融危機を招くようでは、学問になりきれていないと批判されても仕方があるまい。あの世でスミスは、経済学者と呼ばれることに抵抗を感じているに違いない。

ところで、市場が不完全であることは明らかだが、これほど簡単に経済危機を引き起こすものであろうか?人間の多様な価値観の集合体とは、ここまで信用ならぬものであろうか?あるいは、市場参加者が経済人の価値観に偏っているからであろうか?
スミスの時代、貿易商人は政府の後ろ盾によって資本を右から左に移動させるだけで膨大な差益を獲得した。では、現在は?金融屋たちは価値評価が不可能なほど複雑なデリバティブ商品を編み出し、合法的にサヤ取りを仕掛ける。一方で、金融屋の投機行為が経済を破壊するとはいえ、公的資金の注入による回復力は恐ろしく速い。なるほど、金融屋の無責任性向と政府の搾取性向を観察すれば、国家の経済力を計測できるという寸法か。これを国富と言うかは知らんが...
人間社会の秩序は、経済人と政治屋の欲望の相殺によって維持されるものであろうか?スミスの唱える「自然価格の原理」は、そんなものではなさそうである。ちなみに、ケインズは「一般理論」の冒頭で、それを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい...といった趣旨を語っていた。市場原理に人間の普遍的価値観を求めるならば、様々な価値観の持ち主が市場に参入する必要があろう。しかしながら、証券取引所が怪物の棲家に映る人も少なくないようだ。理性者には禁断の領域であろうか?実は、市場の根本的な矛盾はこのあたりにあるのではなかろうか。いや、人は皆、金の前では盲目になるだけのことよ。

1. 分業と資本蓄積
スミスが国富論で分業の概念を持ちだしたのは、有名だそうな。未開の社会では、分業はなく、交換はめったに行われず、自分の必要とするものを自分で獲得するという。近代社会では、生産において専門の細分化を促進し、社会の総生産の下で役割分担がなされる。ただ、他の生産に対して依存度を高め、自立性を失う弱点を浮き彫りにさせる。本当に社会は高度化しているのだろうか?実際には、精神的自立と生産的依存の双方が求められるのだろう。
さて、分業は市場の大きさによって制約されるという。貨幣の役割は、商品交換を円滑にして市場を拡大させることであり、生産性を高めることにある。だが、分業が交換を前提とすれば、交換比率、すなわち価格決定の問題が生じる。かつて、労働力こそ生産性であったが、生産に資本が使用されるようになると、労働者も資本の一部に成り下がる。おまけに、土地がすべて私有財産になると、地主に地代を支払う仕組みができ、自己資本を投じる企業家に利益をもたらす。労働者はますます生産のための部品となり、単純労働がロボットに置き換われば、生産に寄与する機会までも失われていく。
生産競争が激化すると、企業努力によって分業効率を高め、やがて独占が生じるという懸念がある。しかし、スミスは、生産は増大の一途を辿るわけではなく、需要の制約が市場の拡大を自然に抑制すると反論している。費用が安くなれば、商品が安くなり、消費者にとってありがたい事だから、OKってか。だとしても、低価格競争が激化すれば、労働賃金も下がり、市場の制約によってパイの争奪戦となろう。その挙句に、やはり独占が生じることになるのだけど...
分業の概念で最も注目したいのは、資本蓄積との関係を論じているところである。分業社会では、個人の欲望の大部分は、生産物と交換することによって入手するという。生産がもたれ合いで行われるとすれば、互いの生産計画が重要となる。生産財が予定どおりに仕入れることができなければ、計画が破綻し、生産効率はむしろ低下するだろう。労働生産物が完成するまで交換できないのであれば、絶えず交換できる資材を蓄積しておかなければ日々の生活が成り立たない。なるほど、資本蓄積が進んで、はじめて分業が可能になるというわけか。

2. 生産的労働と非生産的労働
生産的労働という概念は、生産過程において生じるものだが、資本蓄積によって生じるということは言えるかもしれない。では、非生産的労働とは、資本と交換されないものを言うのか?賃金労働者が自己の価値を補填するだけでなく、新たな価値を生み出さない限り、非生産的ということか?命令に従うだけなら奴隷と同じで、そんな労働は消費と同じということか?生産性に対して能動的か受動的か、という見方はできるかもしれない。それでも、非生産的労働が不要ということにならない。消費があるから生産があるのであって、いわば両輪を成しているのだから。スミスが問題視しているのは、その割合である。
また、貯蓄率の上昇が経済成長率を高めるとしている。しかし、あまりにも貯蓄率が高いと、どうだろうか?貯蓄は生産性に向かって、すなわち資本投下されてはじめて意味がある。まさに今、日本経済の閉塞感の要因となっている。資金過剰に陥るのでは、むしろ弊害となろう。生産的な使い道が分からず、無理やり資金を使えば、それこそ浪費の山。貯蓄率、成長率、利潤率、利率、人口など経済的要素が過剰になると、ろくな事にはならないようである。それは、土地や地球資源が限られ、自然環境の修復能力に限りがある、というのが根本にあるからであろうか?一方で、人間の富に対する欲望に限りがないというのは、自然学的にもアンバランスに映る。

3. 農業と工業の優位性
資本投下は、農業、工業、国内商業、国際貿易の順にあるべきだとし、これが豊かさへの自然の道筋だという。実際には、逆順の事例がわんさとあるが...
農業人口の多い国では、鷹揚さ、率直さ、人付き合いの良さが、自然に国民性の一部にあり、商工業人口の多い国では、偏狭さ、計算高さ、利己心、人付き合いを嫌う性格が、自然に国民性の一部にあるという。ただ、人付き合いの良さが、逆に異端的な着想を毛嫌いし、村八分にする冷徹な面も露わにする。対して、余計な人付き合いの排除が、くだらない感情論を排除しようという考えにもなる。どちらも一長一短で、どちらが健全とも言えないし、好みの問題でもあろう。こうした性格の違いが、都市部と農村部の対立として見られる。重農主義が倹約と節約を本分とし、その精神は消費や贅沢と相反する。自由と平等のどちらを優先するかと言えば、重商主義は自由を、重農主義は平等を選択する傾向にあろうか。
それはさておき、せっかく資本による生産効率が国富につながるとしながら、工業生産よりも農業生産の方が優位だとするのは合点がいかない。確かに、人間が生きるための根幹に食糧がある。そこで、農業を産業基盤に持ちながら、工業が発展することが望ましいとしている点は、妙に説得力がある。ただその要因で、農業では労働者だけでなく家畜も労働に寄与し、自然までも働くとしているのも奇妙で、宗教的ですらある。なによりも天候は気まぐれだし、自然災害に弱い。家畜や土地を労働資本に含めるならば、工業においても機械設備や生産技術も労働資本に含めるべきであろう。帝国主義が発達する背景では国力を軍事力で換算し、工業力こそが国力という見方がなされたであろうに。付加価値の高さでは、工業製品が圧倒してきたはず。
では、農業の生産効率が工業と同等であれば、どうだろうか?それこそ食糧を基盤にする農業に優位性があるかもしれない。ただ、人間の喰う量には限りがあるが、贅沢品に求める付加価値には限りがない。人間は仮想空間にまで利便性を追い求める。ならば、食糧を仮想空間に置けばどうだろうか?食った気になれれば、無限の幸福を感じることができるかもしれない。やはり、幸福とは幻想であったか。経済学が実体から目を背け、仮想価値に邁進するのも道理というものか...

4. 金融業の発達と手形の乱発
銀行が過剰な貨幣発行を抑制すると、事業者は望むだけの信用供与ができなくなり、手形の振出しと逆振出しという巧みな方法を編み出したという。

例えば...
エディンバラの商人AがロンドンのBを支払人とし、期間二ヶ月の手形を振り出す。BはAに何の債務もない。それでも、Aの手形を引き受けることに同意し、支払い期日前にAを支払人として同じ金額に利子と手数料を上乗せして、同じく期間二ヶ月の手形を振り出すことを条件にする。Bは最初の二ヶ月期間が終わる前にAを支払い人とし、やはり期間二ヶ月の手形を振り出す。AはBを支払人にした手形を満期二ヶ月前にエディンバラの銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。BはAを支払人にした手形を満期二ヶ月前にイングランド銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。
... こうして、次から次に満期前に手形を乱発することによって利子と手数料を上乗せしていき、増殖させるという仕掛け。まさに流通マジック!だが、ここには乗数理論の原理が含まれている。

危険度を察知した銀行家たちは自己防衛に走るのは当然で、信用ある大銀行ですら貸し渋るようになる。互いに喧騒と窮迫。スコットランド銀行は破綻し、その窮状を解消することを目的に掲げた銀行が設立されたという。いつのまにか、ぐるぐる回った融通手形が互いの依存リスクを高め、次々に銀行群を巻き込んでいく様子は、リーマンショックで演じた投資銀行家たちの姿と重なる。金融危機は、まさに信用崩壊によってもたらされてきた。
「銀行家がある金額以下の額面で銀行券や持参人払い手形を発行することを禁止され、発行した銀行券について提示されしだい、ただちに無条件に支払いを行うよう義務づけられていれば、銀行業務のその他の面で完全な自由が認められていても、公共の安全を損なうことはない。」
イングランド銀行は、ヨーロッパ最大の紙幣発行銀行という歴史的な役割を担っていることにも言及される。そして、銀行の役割は、資本を収集することではなく、資本を生産性に向かわせることにあると指摘している。かつては、企業家たちが発端になっていたことを、現在では、金融屋自ら複雑な金融商品を開発して価値を欺瞞する。金融業界は、本来の責務である価値評価の技術を発達させるのではなく、価値を欺瞞する巧妙な技術を発達させている。

5. 銀行の役割と自由放任主義
国内取引は、事業者間の取引と事業者と消費者間の取引に分けられるとしている。それぞれ、卸売りと小売りとされるところか。小売りは、少額の通貨が使われるので回転が速く、消費者は現金で支払うので事業者は現金を用意しておく必要がない。当面、支払い用に保有しておかなければならない事業者の現金は、商品の仕入れ先である他の事業者との取引に使われる。したがって、銀行の役割は卸売り取引で大きくなるという。ますます銀行の信用力が重要視されるわけだ。分業が進み、価値の交換が盛んになれば、銀行業務は拡大していく。そこで、当時イングランドとスコットランドで銀行が急増していることに警鐘をならす人が多かったようだ。本書は、その批判に対して、公共の安全が危うくなるどころか、資本が強化されると反論している。
「自由競争によって、どの銀行も競争相手に顧客を奪われないように、顧客を大切にしなければならなくなる。一般的にいって、ある種の事業、ある部門の労働が社会に利益をもたらすものであれば、競争が自由に行われ、広範囲に行われるほど、社会にとっての利益が大きくなる。」
このあたりは、自由放任主義の源流がよく表れている。確かに、情報や評価の透明性が正常に機能すれば、スミスの言うように公共の安全を損なうことはないかもしれない。だが、正確性を検証する前に集団行動が生じ、業界ごと風潮に流される危険性がある。人間の欠点は、集団によって相殺される場合もあれば、、相乗効果によって増幅される場合もある。しかも、集団性が一旦暴走を始めると、悪魔と化す。誰かが目の前で儲けていると、乗り遅れまいという心理が働く。これが嫉妬の原理からくるのかは知らん。
しかし、本書がこうした欠点を露呈するのも、今までに金融危機を経験してきたからであって、少なくとも信用力に着目している点は評価すべきであろう。ただし、現在の信用取引は人質取引であって、真の意味で信用が機能しているのかは疑問だが...

6. 国家の経費と教育
主権の経費には、防衛費、司法費、公共施設と公共機関の経費、そして、主権者の権威を支えるための経費があるという。
「主権者の第一の義務は他国の暴力と侵略から自国を守ることであり、この義務を果たすには軍事力が不可欠である。」
防衛の原則は、自衛権と人権との関係から生じる。軍事力は工業や技術と関係が深く、近年まで国力は軍事力で計測されてきた。
「主権者の第二の義務は、社会の他の構成員による不正と抑圧から、社会のすべての構成員を可能な限り守る義務、つまり、厳正な司法制度を確立する義務。」
個人の財産を守る権利を執行するのが司法だとすると、財産がなければ司法制度も必要ないか。搾取国家では事実上、司法も機能しないだろう。いや、身体や名誉を傷つける行為から守る必要はある。名誉や身体も財産であるからして。自衛、司法、公共、権威のいずれの費用も、正義の下で機能しなければ、税を搾取する正当な理由は見当たらない。
さて、経費の議論で注目したいのは、第三の義務とされる公共サービスでは、特に教育機関が強調される点である。いつの時代でも、教育レベルの高い国に知識人や能力者が世界中から集まり、国を栄えさせてきた。おそらく、皮相的な企業誘致よりも、こちらの方が本質的であろう。技術力のある国には、優れた教育機関があり、知識の宝庫があり、そこに優秀な起業家の卵が集まる。プラトンのアカデメイアしかり、イギリスのケンブリッジやオックスフォードしかり、現在はアメリカの大学群が注目される。平均年収の観点からMBA取得が注目され、スタンフォード、ハーバード、ウォートンといった名をよく耳にする。外国人が集まるということは、魅力ある教育がなされている証であろう。だが同時に、外国人ばかりを育てるという懸念があるかもしれない。それでも、母校に親しみや恩を感じるだろうから、国に対する印象もよくなるだろうし、なによりも国内への刺激が大きい。そして、国家の枠組みが曖昧になっていく。国益は、なにも軍事力や経済力だけで決まるものではあるまい。もっと多彩な能力によって決まるはず。とりあえず、一つの要因に寛容力を挙げておこうか。政府の脂ぎった思惑があまり入り込まない方が、国益になりやすいようである。これがスミスの言う自然性の原理なのかは分からんが...

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