2013-08-04

"正義論" John Rawls 著

なんとも照れ臭くなるような題材ではあるが、あのサンデル教授が褒めちぎるものだから。800ページの分厚さは、なかなかの白熱ぶり。確かにうまく整理されているが、これを体系化と言うかは知らん。もっともジョン・ロールズ自身は、ここに示す見解に独創性がないことを認めている。謙遜もあろうが...
「ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を一般化し、抽象度の程度を高めること、私が企ててきたのはこれである。」
それにしても、この値段に目を疑う。7,875円?!正義とは高くつくものらしい。

ロールズは、カントやアリストテレスの伝統哲学から、正義観念の一般化と普遍化を試み、「公正としての正義」を提唱する。それは、原初状態に立ち返った自然権的価値観、すなわち、人間のあるべき姿から派生する権威的道徳性を探求するものである。
「正義は、社会の諸制度がまずもって発揮すべき効能である。」
注目したいのは、功利主義とカント道徳が矛盾しない事を指摘し、特にカントの解釈で共感できる点が多いところである。
社会全体がまとまって整合的な見解に収まった時、はじめて正義の構想は正当化されるであろう。多数決の原理を民主主義の象徴のように崇める風潮もあるが、「最大多数の最大幸福」を唱えたところで、たとえ一人でも目の前で飢えている人を放置するような社会がまともだとは思えない。すべての人が衝動的な欲望に駆られるわけではあるまい。快楽を善とする快楽主義のある一方で、善を幸福とする幸福主義もあろうし、合理性において善を欲求する効用原理もあろう。確かに、社会全体の福祉集計量が増加することは望ましい。だが、貧困救済のために、より貧困層を犠牲にするのでは、GDPで定義されるような経済モデルは意義を失う。マクロ経済学で扱われる効用原理は、言うなれば利得の総和を最大化しようとする目論見であり、平均値の底上げでしかない。現実に、目の前で災難に遭っている人を平気で見捨てる社会がある。正義の最も単純なモデルは、おそらくこのあたりから生じるのであろう。
カント曰く、「正義の諸原理は、道徳原理を公共的憲章として掲げる倫理上の共和国にほかならない。」

ところで、正義なんて言葉を聞かされると、こそばゆい!そう感じるのは、精神が腐っている証であろうか。正義は、善や倫理の概念と似て非なるもの。ここが曲者とされるところであろう。善や倫理は思想や哲学に属すもので、いわば精神の宇宙にある。一方、正義は善や倫理を実践する場に登場する。精神の宇宙は、理性や知性によって支えられ、理想郷を夢想することだってできる。だが、実践の場では妥協を模索することになり、理性や知性の限界を述べることに他ならない。言うまでもなく、人間の理性や知性は不完全であり続け、ソクラテス流の無知との対峙が宿命づけられる。正義が良心と結びつけば、善や倫理と相性よく映る。しかしながら、良心ってやつは自己愛とすこぶる相性がいい。正義が自己肯定を強烈に主張すれば、自分自身までも欺瞞し、悪魔の手先となる。そう、正義の暴走は、弾圧や迫害の類いと同じぐらい恐ろしいのだ。正義が善や倫理を実践するための道具であるからには、悪用されることもある。歴史を紐解けば、侵略戦争ですら正義の下で正当化されてきた。講和を唱えようものなら非国民とされる時代もあった。政治の世界では、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。思想観念がはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物、すなわち黒幕のような人物が決定的な仕事をしてきた。歴史の事象は理性と責任から生じるのではなく、いかがわしい性格や不十分な悟性によって運営されてきた。どんなに優れた政策で、それを認めたとしても、政治家自身が関与できなければ抵抗勢力に成り下がる。政治は、しばしば嫉妬を体現する場と化し、正義は政治家の面子に取って代わる。
さらに、正義の実践は多数決の原理と相性がいい。善や倫理は個人の価値観に支配され、多様化しているというのに。そこで、社会秩序を実践する場において、一般的な原理が必要となる。正義観念が普遍性によって構築されるならば、ロールズの言うように安定した共通価値観を編み出すことができるだろう。すなわち、人類愛という抽象レベルにおいて。だが、人間は多数派に属することで安住したいという性向がある。おそらく人間の普遍性なるものを具体的に提示できる者は、ほんの一握りの天才だけであろう。庶民化した正義は、しばしば集団性の悪魔の餌食とされる。冤罪で報道屋に袋叩きにされる事例は後を絶たず、ネット社会では相変わらず炎上騒ぎが盛んで、被害者の側が退場させられる始末。こうした社会現象はソフィストの時代から変わらず、多数派工作を企てる巧みな手法が開発されてきた。現在でも、義務や責任をそっちのけで、権利主張の技法ばかりが取り沙汰される。正義の発達が手段に目を奪われれば、本質的な精神観念が疎かになる。なるほど、煩悩を知らねば、悟りは得られまい。自由とは制約において成り立つ概念であり、平等とは格差において成り立つ概念である。いずれも中庸の原理において機能する。
...などと言ってしまえば、孔子やアリストテレスの時代にまで引き戻される。おっと、いつのまにか人間退化論を語っている。自己存在に罪を認めるような人でなければ、理性なんてものは獲得できないのかもしれん。どうりで無理性な酔っ払いには、正義はこそばゆい!

1. 原初状態と正義の二原理
人間社会の原初状態という考え方は古くからある。すなわち、人間は生まれながらにして善か悪かという議論にまで遡る。プラトンは、善のイデアという純粋理性的な精神の原型から、正義こそが幸福に至るものだとの考えを示した。アリストテレスは、正義に関する共通の理解を分かち合うことによってポリスが形成されるとした。そして、社会正義の立場から最善を選択するという考え方は功利主義に受け継がれ、ジェレミ・ベンサムは「諸利害を人為的に一致させること」と考え、アダム・スミスは「神の見えざる手」の仕業とした。
ロールズは、伝統的な功利主義が、あまりに市場原理と強く結びついたために、真の功利主義が見失われたと指摘している。確かに、功利主義的に論じられる社会原理は、あまりにも効用関数に頼りすぎている感がある。本来、原初状態における選好では普遍的な原理が働き、それが正義へ昇華されるということらしい。言うまでもなく、公正としての正義の場ではエゴイズムは拒絶される。「公正としての正義」における共通の理解が、立憲デモクラシーの基底ということになろうか。啓発する人々の集まりによってポリスが形成された時、はじめて民主主義が機能するということになろうか。
ロールズは、正義の二原理「最大限の平等な自由という原理」「公正な機会均等の原理と格差原理」を提唱する。
平等な自由とは、競合する自由において正義に優先順位があるということで、弱肉強食を容認するわけではない。だが現実には、権利の要求が乱雑し、公正に査定することは不可能に見える。しかも、選挙の道具とされる。
格差原理とは、能力主義に通じるもので格差を否定するわけではなく、とんでもない高収入を得られる人々が存在しうるのは、最下層の人々にも恩恵がある場合に限られるということ。しかしながら、機会均等という用語もまた選挙の道具とされる。
そう、正義は選挙の道具とされる運命にあり、大声で叫んだ者の勝ちというわけだ。結局、政治ってやつは、善の増強よりも、不正義の抑制として企てられることになる。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないのか?一旦脂ぎった欲望を知ってしまうと、大人たちはこうも浅ましくなるものなのか?大人たちが、子供心を取り戻すことこそ、不可能である。これはモンスター化の法則と言って、カオス理論の骨格をなしている... と誰に聞いたかは記憶にない。

2. カント的解釈
ロールズは、カントを解釈するというよりも、「公正としての正義」の観点から解釈を試みる立場を表明している。そして、この観点に立ってこそ、カントの深遠な二元論が見えてくるという。それは、必然性と偶然性、形式と実質、理性と欲求、本体と現象である。一般性や普遍性は崇められる傾向にあるが、実はこうした議論は思考を深化させるのではなく、むしろ薄弱な道徳論を構築することになるという。そして、カントの学説を一般性や普遍性といった観念に限定して論じることが、つまらぬものにしていると指摘している。
「カントの主な達成目標は、自由とは私たちが自分自身に与える法に従って行為することであるというルソーの着想を深化、正当化するところにある。そして、そこから導き出されたのは、厳格な命令の道徳ではなく、相互尊重と自己肯定感の倫理である。」
カントの道徳原理は、理性的、合理的選択の対象から始まっているという。その意味では、ある種の功利主義的な考えという解釈も成り立ちそうか。カントの自律の観念には、相互に利害関係を持たない公平無私という動機付けが想定されている。道徳立法が合意されるのも、この自律から発したものであろう。確かに、道徳原理が法となりうるには、その原理が公共的でなければならない。本来的に、人間には正しく行為したいという欲求があるのかもしれない。正しく行為できないのは、他人の行為に対する嫉妬からくるのかは知らんが。
ロールズは、選択の自由を持ちながら理性的に振る舞うことができるのは、それが精神の持ち主だからであり、人間特有の性質だとしている。不正行為を恥じるのは、なにも世間体に対してだけでなく、自然的本性を損なうからという思いもあろう。人間には、本性的に自己実現性というものを持っているように思える。あるいは、自然に獲得していくのかは分からんが。罪悪感もまた、法に対して生じるだけではないだろう。自尊心を傷つけるとは、そういうことかもしれない。神が見ておられるから不正ができない、という動機付けもあるが、本来的な道徳心は第三者に縋ることではあるまい。精神が能動的に働かなければ、違う神を信じるというだけで憎しみ合うことになろう。

3. アリストテレス的原理
アリストテレスによると、人間は包括的な原理に従うという高階の欲求を有し、より包括的で長期的な思案を選好する、ことになる。自ら実現する能力は先天的か、もしくは訓練によるものだが、獲得した能力の行使を楽しむ傾向がある。楽しみは、実現されるほど、より高みに昇ろうとするだろう。そして、究極の人間目的へと昇華させるのかは知らんが、これが学問の意義ではあろう。そもそも学問は、高収入を得るためだとか、高い地位を得るためだとか、そうした脂ぎった欲望で行うものではあるまい。最初の動機はそうだとしてもだ。一方で、大人になると読書すらやらなくなるという嘆きを耳にする。挙句に、政治学では政治的な駆け引きばかりを学ぶと。
「合理的な個人はつねに、自らの計画が最終的にどのような結果になろうとも、自分を決して非難する必要がないように行為すべきである。」
そう心掛けていても、やはり自己批判をせずにはいられない。だから、人生は面白いのかもしれん。行動が完璧であれば、退屈病に蝕まれノイローゼになるだろう。すると、理性者は自然に精神病を抱えているということか?自然本性的な存在とは、精神病患者のことか?
アリストテレス曰く、「人は知ることを欲する。」
思考がシンプルな方向に向かうとは限らない。将棋のようなゲームを好むのは、それが複雑で奥深いからである。科学や数学では単純な思考が崇高とされるが、実は、複雑なものを法則性に当てはめようとする思考過程そのものを崇めている、ということはないだろうか?だって、学者たちは見るからに単純というものにあまり興味を示さないではないか。実は、人間は複雑系を求めているということはないだろうか?実は、退屈しのぎこそ真理ということはないだろうか?そして、正義の構築もまた退屈病の餌食にされているということはないだろうか?少なくとも、真理の探求が退屈病の処方薬となることは間違いなさそうである。
ついでに、合理的な人生設計は、善の原理に収束するというのは本当だろうか?アリストテレスから二千年以上にもなるのに、いまだ善なるものが見えてこないのはどういうわけか?実は、人間の価値観はとうに限界に達し、無知であることが人間の普遍性ということはないだろうか?仮に無知から解放されれば、朝っぱらから酒をやる人間失格な生活も改められるだろうか?「正義論」を読むだけでは改められそうにない。

4. 快楽主義的正義
快楽に真理が結びつくと、強烈な武器になる可能性があるらしい。アリストテレスは、こう述べたという。
「善い人は、必要ならば友だちのために命を捨てる。なぜなら、長期間の穏やかな喜びよりも短期間の強烈な快楽のほうを、また多年にわたる退屈な暮らしよりも一年で終了する気高い生活のほうを選好するからである。」
快楽主義もちょいと視点を変えるだけで、随分と様変わりするものである。快楽主義から人間目的という観点で自我の統一性を見出すことはできるかもしれない。真理の探求そのものが、快楽となるであろうから。
アリストテレス的原理に従えば、秩序だった社会に参加することが、卓越した善をもたらすという。人間は本質的に卓越性を求めるというのだ。悪徳をなすのは、卓越性への嫉妬で、自己肯定性からくる社会への反発であると。自分が社会の中心になれるという条件下では、どんな悪徳者でも喜んで善をなすというのか?逆に言えば、自分が主役になれなければ、どんな善も破壊するというのか?悪魔ってやつは、神への嫉妬から生じるとでもいうのか?そうかもしれん。
さっそく、快楽に酔うハーレム主義者は、悪魔を目の前から葬り去ろうと、あぶく銭を一晩でゴージャスに使い果たした。これぞ快楽主義的正義というものか?そして、翌日から地獄を見ることに。んー... 正義ってやつは手強い!

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