2013-08-18

"国家(上/下)" プラトン 著

プラトンの対話篇を読んでいると、いつも思うことがある。それは、独創的な記述とはどういうものか?といったことである。自ら編み出した思考プロセスだと自信を持っていても、古典を読む度に似たような思考に出会う。一瞬がっかりさせられるものの、その出会いが妙に心地良く、たまらない...
あらゆる学問において、偉大な哲学書群を基に分析を進めながら、いかにも進化を遂げているかのように見せる。しかし、いくら体系化やら形式化やらを強調したところで、数学のそれとは比べものにならない。むしろ、分かりやすく整理されている、うまくまとめられている、と言った方がよさそうか。なるほど、学術とは、学問の見栄えの術というわけか。
その点、プラトンは極めて文学的で物語風であるために、冗長的ではあるけれども、見事なほど思考プロセスを体現してくれる。そう、考え方ってやつだ。精神の動きを記述するという意味で、現代の書にこれほどのものを見出すことができようか。なんといっても哲学論議の醍醐味は、対話の論理的展開にある。言葉の論理に、徐々に追い詰められ、仕舞いには口が封じられ、いつの間にか最初の立場と反対のことを主張していたりする。隙のない論理から導かれる結論であれば、たとえ自己否定に陥っても、心地よくなれるという寸法よ。真理とは、自我を泥酔させ、自ら身を滅ぼす純米酒のごときものであろうか。自虐的楽観主義でもなけば、哲学なんてやってられんよ。

今日、独創的な着想を編み出した者よりも、それを利用して経済的に成功した者がもてはやされる。かつて発明こそが花形であったが、いまや商業戦略の裏方に回る。ただ、過程より結果が評価されるのは、昔から変わらない。人々は長期的な視野よりも目先の成果を求め、そうした成功事例に群がる。人間ってやつは、よほど面倒臭がり屋らしい。論文や報告書の類いでは、簡潔な結果説明が体系化や形式化と呼ばれ、高等な学術に位置づけられる。しかし、ヒューリスティックな方法で苦し紛れに編み出した記述を、真理と混同してしまうのでは本末転倒。いつの時代にも、惚れ惚れするような思考プロセスを残し、人柱となってきた研究者たちがいる。科学者や数学者たちは、こういう存在の大切さを知っているのだろう。彼らの中にプラトン贔屓が多いのもうなずける。それは、ガリレオの対話篇などに脈々と受け継がれる。
ところで、人間の本来の姿とは、どういうものであろうか?デカルト風に言えば、思惟することにありそうか。だとすると、知識の抽象度を高めることは、本質により近いものを思考するための布石となろう。利便性によって余計な作業を機械化し、自動化することで、人間のやるべき事に傾注することができる。ネット社会ともなれば、情報検索の利便性が思考の手助けをしてくれる。どんな学問であれ、大概の専門用語の解説が検索にひっかかり、学問分野の隔たりを狭めてくれる。
その一方で、回りくどい解説を嫌い、分かりやすさを崇める傾向がある。おまけに、自ら思考するよりも、誰かが思考した結果を検索する方がずっと効率的だ。すると人物評価の基準も変わってくる。とろとろ思考する人よりも、さっさと検索する人の方が価値が高いことに。猿真似をし、それを加工し、編集することの方がずっと優位に立てる社会とは、これいかに?思惟するという地位は、仮想の空間において下層へ追いやられていく。
もし、人間が本来の姿を見失おうとしているとしたら、人間精神は本当に進化しているのだろうか?ある学術研究によると人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという見解もあるが、あながち嘘とは言いきれまい。実際、あらゆる精神思考は、プラトンやアリストテレスの時代に遡れば、大方説明がつきそうだし、多少の修正を加えるにしても、少なくとも思考の材料は大方揃っている。それは、どういう時代かと言えば... 記述が残されるようになった時代というだけのことかもしれん。ソクラテスが記述を残さなかったのは、言葉の持つ暴走性に気づいたからだという説がある。言葉が永遠に残されれば、後世の人々によって都合よく解釈され、欠席裁判を強いられる。プラトンが記述にこだわったのは、師匠への挑戦であったのか?思考プロセスを残せば、誤謬を犯すことはあるまいと。しかし、だ!記述を残してもなお、愚かな歴史は繰り返される。この有様をどう説明するのか?プラトン君!

1. ポリーテイア(国家)
ポリーテイアとは、ポリスの在り方、組織、制度、政体といった意味だそうな。プラトンは哲学者を愛智者とした。ひたすら知を愛し、自問に耽ること、これこそが真の幸福に導く道であると。しかし、師ソクラテスが国家の名において処刑されると、安穏と哲学をやっていればいいというものではないことを悟る。師の説いた「善く生きる」という正義の徳の実現には、人間の魂の在り方だけでは足らぬというのか?
狂気した国家の下では個人の幸福すら望めないとなれば、国家の原理を問わねばなるまい。ただ、善を語れば、悪を語るのは必定。民主制の在り方を問うには、自然発生的に生じる独裁制、すなわち独裁者としての人間の資質を問うことになる。どんなに優れた君主であれ、金と権力の前では盲目となるか、あるいは、君主であり続けても寿命には逆らえず、いずれ世襲制に染まる。善のイデアから生じるあらゆるものが、官僚化するのか、悪魔化するのかは知らんが、ひたすら知を愛し、自問して精神を検証し続けなければ原型を保つことすらできない。
そこで、プラトンは、国家の持つべき性質に「知恵、勇気、節制、正義」の四つの徳を導く。これらの徳が善のイデアから導かれるという思考プロセスは今更ではあるが。本書で注目したいのは、精神の動機では特に節制を重視し、正義を実践することが最高位に置かれることである。節制をわきまえた国家こそが真の繁栄をもたらすとするあたりは、プラトン流の中庸の原理とでも言おうか。そして、正義こそが人間を幸福にするものと結論づけている。正義をなすには、誰もが納得できる論理的説得が必要であり、法の原理はすべてここに帰着する。また節制は、法の罰則や警察の監視といった政治的強制から生じるものではなく、あくまでも能動的に生じるもの。ただし、過度な節制が卑屈となりやすいことを付け加えておこうか。
プラトンは、統治者に真理を探求する哲学者を据えることを提案している。したがって、本書は国家論というよりは、哲人統治論、あるいは論理的正義論とした方がよさそうか。だが、既に弁論術が盛んで大衆を動かす技術として君臨する時代、権力欲しさに論理武装して哲人になりすます者もいれば、正義が巧みな大演説によって評価される。ましてや、狂気した民主国家ではヒトラーだって選出された。節制という徳は、目立ちたがり屋と相反する資質でもある。名誉を、大勢の人から支持されたいと焦がれることだと勘違いするような人物では無理な話か。プラトンも、社会風潮の力の大きさを認めているし、そんな環境下で真の哲学的資質が育ちにくいことも認めている。それでも、哲人統治は不可能ではないとし、具体的な教育プランまでも提示してくれる。国家建設の根幹は国民性を問うことにあり、その要は教育にあるというわけだ。しかし、人間に何か教えることができるのか?と疑問を投げかけたのはプラトン自身ではないか。まぁ、その問答はメノン君に任せるとして、ここでは一つ付け加えておこう。当時、プラトンの「国家」を読んだのは、一部の有識者や政治的指導者に限られていたことだろう。こうして一介の酔っ払いが読んでいるということは、学問の庶民化が進んでいることを意味している。プラトンは、民主制を機能させる上で国民全体が政治的意識を持たなければならないと説いているのだから、現代社会にその意志が受け継がれていると解釈できなくもない... とすれば、ちと強引であろうか...

2. 正義の実践
神は正義の人を見ておられる、というのは本当だろうか?実際、善き人に不運をもたらし、悪しき人に幸運をもたらす。実は、神は誰も見ていないということはないだろうか?自分でこしらえておきながら、失敗作には興味がない芸術家のように。人間の正義もさることながら、神の正義もあてにはできんようだ。
さて、政治の実践には、誰の利益になるか?という思惑が常に入り込む。国益のため!とは、政治屋のお好きな台詞だ。政治の実践が正義によって成り立つとすれば、正義もまたそれを実践する者の思惑によって成り立つことになる。しかも具体的に定義できなければ、実践の場では役に立たない。正義の実践は、妥協の中で模索され、不正が合法的に行われる。だから、個人の正義を発揮して脱税行為に及ぶのかは知らん。
どんな政治体制においても、優遇される人がいるということは、冷遇、酷遇される人がいるということを意味する。単純に愛智者を正義の人とすることも危険だ。悪行には悪知恵が入り込むのだから。法律家が法廷向きの正義の主張の仕方を教え、説得術や弁論術の教師も大盛況となれば、人間が不正よりも正義を選択するなど、どこに保証があるのか?法廷で勝利を重ねる弁護士の報酬が上がるとなると、どういう職業に就けば、不正を非難できる立場になれるというのか?正義の人が名誉を受けるということは、社会に正義の人が少ないということか?法の下では正義がなされるのは当然だ!と人々は考える。だが、人の判断も間違えば、法の判断も間違える。正義は必ずしも善から生じるものではない。
また、正義の人は節度ある発言しかしないものらしい。
「もし正義とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうにばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。」
一見正しそうな発言を集団が後押しすると、本当に正しい意見を抹殺し議論の柔軟性を失う恐れがある。賛成と叫ぶだけでも、そこそこの配慮が必要であろう。余計なことを喋るぐらいなら沈黙することか。こんなブログなんぞで、勝手気ままに発言すること自体が、無理性の上に、正義の欠片もない証であろうか...

3. 国の在り様
国制には、四つの種類があるという。まず、最も賞賛されるクレタやスパルタ風の国制、次に賞賛される寡頭制いわば貴族制。だが、いずれも多くの悪を孕んでいるとしている。これらを修正して、次に生じるのが民主制、さらに国家病として最悪なのが僭主独裁制であるとしている。他にも、世襲王権制や金で買われる王制などがあるが、いずれも四つの形態の中間に位置づけている。そして、人間の性格の種類も、ちょうど国制の種類と同じ数だけあるという。国制の在り方も、住人の性格によって生じるのが自然というわけか。
今日、民主制が崇められる傾向にあり、独裁制で慣れた住人に無理やり押し付けて、却って治安を悪化させる事例も多い。民主制を機能させる上でも市民性が鍵であることを、この時代にあって既に指摘されているのには驚かされる。人間には多種多様な性格と価値観が生じ、なによりも自由を求める性質があるように思える。となれば、人間社会には民主制が最も相性が良さそうに映る。だが、独裁制であっても、真の君主による統治であれば、おそらく民主制に近い体制になるだろう。君主であれば発言の自由を尊重するだろうから。もちろん、市民の側にも自由の概念を充分に理解した意識が求められる。そうした君主の時代が、プラトン以前の記録のない時代に存在したのだろうか?しかし、どんな君主にも寿命があり、継承されるうちに原型を留めることはできない。おそらく、どんな官僚的組織も、発足当初は美しく、希望に満ちた組織であったに違いない。既得権益の原理といったものは、欲望の基本原理としてある。
プラトンは、欲望の原理を権力欲と金銭欲に分け、国家の厄介事はこれらの欲が同時に結びついた時に生じるとしている。だから、支配階級に権力を与えて金銭を封じ、生産業者や商人に富を求める欲を認め、けして権力を与えてはならないと。ただし、過激な発言も目立つ。国家の下で財産を共有すべし!とするだけではなく、子供や妻までも共有すべし!と。プラトンの財産共有制は、多様性を否定しているではないか?共産主義的搾取を印象づける。おそらく偏重した所有意識が民衆を惑わすと考えたのだろうけど、そりゃ、弟子のアリストテレスに思いっきり批判されるわ。
それはさておき、民主制にも多くの弱点が含まれる。多種多様の価値観を認めるが故に、正義の判定基準として手っ取り早い多数決という手段が用いられるが、こいつが善にも悪にも作用する。したがって、国家建設の根幹は、絶対的多数として君臨する国民性を磨くことにほかならないというわけか。アイスキュロスの言葉を借りれば、こういうことだという。
「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む。」
言うは易く、行うは難し!そりゃ、美、正、善といったものが具体的に定義できれば苦労せんよ。

4. 経済理論と教育理論
文明社会は交換の法則によってもたらされるという。互いの利益を尊重し、助け合いによって成り立つと。分相応以上に贅沢が満喫できるのも、交換社会の賜物である。そして、国家建設に役に立つ者とそうでない者を分類しながら、農業にせよ、手芸にせよ、仕事のために知恵と能力を持ちながらも、国家のことを気づかう人間でなければならないと説いている。人間は自分の愛するものを自然に気づかう。その精神が、国家に向けられた時、共同体が強固なものになると。国家に最善を気づかうとは、どうやら他人を思いやることらしい。奇妙な思考に憑かれて、偏重したナショナリズムに邁進しないよう注意したい。
また、富は、理をわきまえる者にとって最大の効用を持つとしている。
「人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまりらくではないし、また、人物が立派でなければ、金持ちになったからとて、安心自足することはけっしてないだろう。」
さて、ここで面白いことに気づく...
まず、「国家に役立つ」というところを「生産に役立つ」と置き換えたらどうだろう。なんと、アダム・スミスの「国富論」ではないか。
また、私有財産の議論は興味深い。金儲けをする人たちが優遇される社会ではなく、私有財産という概念を否定するあたりは、国家建設ではなによりも主権が優先されるということを語っているようにも思える。支配者たちは、金銀財宝、土地や大邸宅を所有し、およそ世間で幸福とされる条件を満たしている。にもかかわらず、国家の仕事となると見張り役として座っているだけで、国に喰わせてもらう立場ではないかと嘆いている。政治のできることと言えば、国全体ができるだけ幸福になるように仕向けるぐらいなものだとしている。これは、功利主義の掲げる「最大多数の最大幸福」の原理ではないか。
さらに、国家には様々な仕事があり、それらを三つの種族に区別している。金儲けを仕事とする種族、国家建設の補助役となる種族、守護者の種族。いわば、経済人、公務員、政府といったところか。彼らが本来の仕事に専念することこそ、正義にほかならいという。しかしながら、どんな種族にも欲望的部分と理知的部分が共存し、いかに一つの国としてまとめるかが問われる。理知的部分を担う仕事が、欲望的部分を担う仕事を監督指導するような社会システムを事例として挙げ、監督指導としての政府の役割が論じられている。ケインズは自由経済に対する政府介入の必要性を唱えたが、まさにそれではないか。
またさらに、国家の在り方を教育循環と結びつけている。
「国家のあり方というものは、いったんうまく動きはじめると、いわば循環的に成長しつづけて行くものだ。」
それは、教育と養育が維持されるからであって、自然的素質を国内に作り出し、優れた自然的素質が更なる教育と養育を高めていくからだとしている。教育を高めるとは、いわば教育への投資による経済循環を促進すること。ちっぽけな善が自己増殖して社会風潮を覆う可能性を示せば、資本の自己増殖の原理を教育論で語っているようにも映る。ただし、一旦逆に作用をはじめると、怠惰の自然増殖にもなることを付け加えておこう。
...こうした原理を、農夫の生活風景や結婚などの庶民的な生活を題材にしながら語られる様子は、ミクロ経済学的な視点で国家を論じている。プラトンは国家の基本原理を通じて、スミスやベンサムよりも二千年も先駆け、しかも経済理論を教育理論に置き換えて語っている、と解釈するのは行き過ぎであろうか...

5. 太陽、線分、洞窟の比喩
プラトンの太陽、線分、洞窟を用いた比喩は、歴史的に貴重な記述だそうな。ただ、あまりにも数学的なので、アリストテレスあたりが、数学のやりすぎ!と言いたくなるのも分かる。プラトン哲学には「万物の根源(アルケー)は数である」というピュタゴラスの思想が継承されている。
さて、非常に理解の難しいところではあるが、アル中ハイマー流に好き勝手に記述してみよう。
...
進化論的に言えば、あらゆる感覚器官は光合成のような化学反応を基本とし、太陽のもたらす光を拠り所にして発達してきた。何事も知るという行為には、まず見るということがある。美的感覚の多くは、視覚からの情報によってもたらされるが、視覚が適用できない場合は、他の感覚機能が研ぎ澄まされる。そして、知らぬ者を「盲人」と言ったり、希望の代名詞に「光がさす」と言ったりする。伝統的な宗教が光を重要な概念に位置づけてきたのも道理である。
プラトンは、見ることによって知られる可視界に対して、思惟によって知られる可知界が形成されるとしている。そして、光の直線性を線分で表現し、思惟する種族を別の線分で区別する。だが、それぞれの思惟する方向性は、一つの線分上に閉ざされている。三角形のような三つの線分は、本来の思考に対して角度を持つわけで、視点がずれているとでも言っているのか?おまけに、平行線などという永遠に思考が交わらないものもある。それはさておき、知性的思惟を直接知、悟性的思惟を間接知とし、それぞれを線分に割り当てると、平行線原理によって、自己の思惟を投影することもできる。なるほど、精神空間が幾何学空間にあるというのは本当かもしれない。それがユークリッド空間かは知らんが...
また、洞窟のような暗闇においては、人々は光明のある方向へ群がるという。太陽の光が照らせば、その方向は眩しくて見えないが、影の方向ならば、はっきりと形を見ることができる。だから、目が眩んで見定められないものよりも、目の前で見えるものを信じるというのか?つまり、群衆の中にあっては、真理と逆方向を見ているとでも?眩しい光ほど見定めるのは苦痛だし、真理を見定めることの難しさがここにあるというわけか。
さらに、目の混乱には二通りあるという。光から闇へ移された時に起こる混乱と、闇から光へ移された時に起こる混乱とが。魂にもこれとまったく同じことが起こり、見定めることができず、まごまごしている魂を見ても笑うな!と励ましてくれる。無知から知を得たとしても、新たな無知が見える。思惟するとは、無知と知を永遠に繰り返すことかもしれん。
しかしながら、人間には、自分よりも知らない者を馬鹿にする性質がある。障害者の身体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋どもの精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、障害者が自分の欠陥を認めているのに対して、政治屋が自分の欠陥を認めないばかりか、人を蔑むからであろう。人が盲目であることを自覚することは極めて難しい。それは、自己存在を否定することにもなるのだから。視力のいい精神の持ち主とは、自己存在を否定してもなお、居心地のよい場所を知っているというのか?そうかもしれん...

6. げせない詩人批判
本書には、プラトンらしくない点が一つある。国家から詩人を追放しようと言わんばかりの意地悪な論調は、どうもげせない。詩人というのは、ホメロス風の吟遊詩人のことを指しているようだが、芸術に対して無理解というわけではなさそうである。実際、音楽や芸術や体育といったものを尊重している記述がある。音楽や芸術のしかるべき教育を受けた者は、欠陥のあるものや、美しくないものや、自然に生じていないものを、鋭敏かつ正当に感知でき、理に適っているかを見極めることができるとしている。なによりも哲学が文学的であり、この対話篇が見事な芸術作品として仕上がっているではないか。
となると、当時の吟遊詩人の社会的役割を想像せずにはいられない。おそらく哲学はあまり重視されず、叙事詩や抒情詩の方が圧倒的に影響力があったのだろう。詩人が、国制や国法が神々によって制定されたと唄えば、人間がそれを修正することは身の程知らずということになる。そんな迷信が民衆を惑わすとしたら。当時の吟遊詩人が、ホメロスの作風から酷く逸脱していったということであろうか?だとすると、数学を愛したプラトンの論調は納得できる。この解釈も、ちと強引であろうか...

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