2013-08-25

"法律(上/下)" プラトン 著

著作「国家」では、国の在り方についての理念が論じられた。ここでは、法や制度についての立法の在り方が論じられる。理論を裏付けるものは実践である。人間精神や人間社会ってやつは、試行実験によってのみ育まれるであろう。まずは具体的に行動を起こすことだ。真理への道は険しく、たとえ永遠に到達できないと認めつつも...
著作「法律」は、「第七書簡」、「第八書簡」と並んで、最晩年の作品と推測されるそうな。プラトンは、これを未定稿のまま残し、書きながら死んでいったという。いつも気の抜けない彼の対話篇だが、この作品に関しては時折あくびの出る場面がある。理念を語る時はその抽象論争が読み物として面白いが、法律の条文を語るとなるとやや退屈気味。対話というより儀式じみた国会討論に近いような。歳をとると形式じみたり、理屈っぽくなるのかは知らんが、なんとなく説教じみて聞こえる。法を実践的に記述するということは、犯罪の種類を具体的に記述することになり、当然ながら罰則にまで踏み込むことになる。そんなものは、当事者でもない限り退屈するものよ。そして、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞をつぶやくのであった。ドスの利いた声で... 法律なんてものは、都合が悪くなった奴が利用するためにあるのさ!

プラトンはあくまで対話篇にこだわる。それは、哲学問答こそが真理へ導く手段として、最も近道だと考えたからであろう。だが、論議が精神に及ぶと、芸術的あるいは直感的にならざるをえない。
さて、最も人間味のある感情とやらを、論理で記述することは可能であろうか?それは主観を客観で記述することを意味し、ひいては、人類の普遍的な価値観とはいかなるものかを問うことになろう。集団生活を営むには、共通観念のようなものが必要である。それは誰もが納得できるもので、古くは掟と呼ばれた。共同社会の秩序は、生命、身体、財産の保護が前提され、掟はこれらの権利を保証するとともに、掟を破った者への処罰によって実践されてきた。だが、そこに感情が癒着すると、偏見に満ちた魔女狩りの類いが生じ、法廷はたちまち集団リンチの場と化す。多数決の原理とは脆いもので、冷静な眼を持つ者が圧倒的多数でなければ簡単に崩壊する。
そして、いつの時代も、立法者や法の番人には、いかなる人物がその任に就くべきか?が問われてきた。古くは、より経験を積んだ長老がその役割を演じ、今では、学問に精進した、より知性や理性の認められた者が選ばれることになっている。ちなみに、ギリシャ語では、法律をノモス、知性をヌゥスと呼ぶそうな。音律が近いのは偶然ではあるまい。
法律は論理的弱点を慢性的に抱えているため、条文の解釈では裁判官にある程度の自由裁量を認めざるを得ない。しかし、立法とその解釈の双方において、暴走を抑止する手段を人格だけに頼ることができようか。法律には、犯罪を規定するだけでは不十分で、権力を制限する作用が求められる。人間が主観の奴隷であり続けるならば、社会における客観性の実践では、第三者の眼に頼るぐらいであろうか。
本書が、法に携わる立場を、立法者、司る者、執行する者で論じられるあたりは、三権分立らしき構想を垣間見ることができる。とはいえ、警察力のような強制や脅迫を導入したところで、それらの職務が能動的な動機によらなければ作用しないだろう。そこで、プラトンはまずもって、「己に克つ!」という動機を掲げる。そして、法律の目的は、善き国家建設のための四つの徳「思慮(知恵)、勇気、節制、正義」を実践することにあるとしている。多数の不正者が結束し、少数の正しい者を暴力的に隷属させるとしたら、その国家は己に負けた悪しき国家ということになる。プラトンの主張する政治の術とは、民衆一人一人を高めようとする施策ということになろうか。それでも、国粋主義的な発言も目立つが、そのあたりは時代感覚の違いとして眺めている。

ところで、この対話篇には珍しくソクラテスが登場しない。何の文献か忘れたが、ソクラテスが記述を残さなかったのは言葉の持つ暴走性に気づいていたから、という説を読んだことがある。後世、欠席裁判を強いられるのを嫌ったのかもしれない。だが、実践を追求するには、理想観念だけでは足りない。実際、師ソクラテスは正義の下で死刑判決を喰らった。国家の狂気を阻むものがあるとすれば、それは何であろうか?知性や理性といった個人の能力よりも、揺るぎのない掟に縋るしかないということか?泣いて馬謖を斬る!とはそういうことであろう。理念から実践への飛躍によって、ついに師からの脱却を宣言したのか?
しかしながら、実践にもすぐさま限界が訪れる。細かく長ったらしく規定したところで、法の網をかいくぐる輩は後を絶たない。政治家どもが極めて黒っぽい灰色の領域を徘徊するのは、法律の限界実験でもしているのだろう。そして、法律書はますます膨大となり、理性を失った歴史を刻んでいく。
では、最後の砦となりうるものとは何であろうか?数学を愛したプラトンもまた、神を持ち出さずにはいられない。人間のこしらえるものが完全であるはずがないのだから、常に検証を怠らず、時代に適合した修正を加えていかなければならないと唱えている。しかし、法律がゼウスをはじめとする神々の手によって導かれると言ってしまえば、それを宗教レベルにまで崇める輩が現れ、人間には修正することすらできない!ということになる。ただ救いは、プラトンの言う神々とは、宗教が唱える神とかなり印象が違うところである。少なくとも一神教ではないので、他の神々を否定するようなことはしない。神の定義は、人類の歴史の中で解釈を歪められてきた。ヘシオドスは、人間を神からの距離で五つの種族で分類した。黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族と。ヘシオドス時代以降の人間どもは、最も神から遠い鉄の種族とされる。そんな種族に神の姿が見えるはずもないし、神の存在や考えを勝手に規定すること自体が身の程知らずということになる。そこで、「神々」を「真理の数々」あるいは「多様な真理」と置き換えて読むと、見事な宇宙論が映し出される。そう、真理の探求を怠るな... 法の支配が真理の支配となるまで... と。

1. 望ましい国制とは
物語は、クレテ島のある地域にペロボネソス地方から入植者を集めて国家を建設するとしたら... という議論から始まる。そして、国家建設の過程をシミュレーションすると、最も重要なのはいかに法を定めるか... という展開になる。プラトンは「国家」で、国の在り様を四つに分類し、クレテとスパルタのものを最も高貴とし、次いで民主制、寡占制、独裁制の順に評した。その見解は、登場人物に顕れている。アテナイからの客人に、クレテ人のクレイニアスとラケダイモン(スパルタ)人のメギロスを招くという構成。
スパルタは、民主制を基本としながら君主的な面を持ち合わせていて、終身の王制が健在でありながら、王の権力までも支配する法律があるという。王が率先して法律に従わなければ、民衆から慕われないという風習があるようだ。
「法律が支配者の主人になり、支配者が法律の下僕となっているような国家」
映画「300(スリーハンドレッド)」によると、国王の自由に動かせる軍隊が、親衛隊の300人のみと法で制限されている。長老会と民会という二段階の決定機関に、監督権と司法権を有するエフォロイが選出されるといった分権制も確立されている。
一方、クレテは、祭祀が洞穴や山頂など野外で行われ、民衆の中に掟が慣習として浸透している。古代ギリシアでありがちな、アクロポリスといった神殿を中心に崇めるのではなく、法律は誰もが目にできる公共広場に刻まれ、法を慣習として根付かせようという風潮があるようだ。
プラトンは、国王までも支配する絶対的な法の存在と、法を尊重する慣習の面から、両国の国家モデルを持ち出す。尚、クレテとスパルタの二つの国制は、ドーリア人の共通の伝統の上に立ち、兄弟の法を持つとされ、当時は評判の良いものとされていたそうな。
しかしながら、戦争に重点を置き過ぎるために、共同食事や体育制度を偏重させていると批判している。勇気の徳は必要だが、それを崇め過ぎるのも危険だとわけか。
「戦争に関する事柄を目的として平和の事柄を立法するより、むしろ平和を目的として、戦争に関する事柄を立法するのでないかぎりは...」
そして、国家モデルの議論は、民主制と独裁制の混合制に及ぶ。それは、アテナイの民主制が過度の自由であることと、ペルシアの独裁制が過度の僭主であることへの批判から始まり、土地所有や共同生活の風習はスパルタのものから、官職などの選出方法はアテナイのものから借用するといった形で展開し、更に、アテナイの裁判制度から三段階の審議法を導入していく。
「国全体が均質で釣り合いがとれているということは、徳にとって、極端よりもはるかに勝っている。」
おそらく、真の君主による独裁制であれば、限りなく民主制に近い状況になるのだろう。君主の下では多種多様な民衆の価値観が尊重されるだろうし、そんな君主を選択できる民衆も節度を持った自由を実践するだろうから。支配する側も支配される側も、共に意識を高めなければならないというわけか。そりゃ、社会が悪い!政治が悪い!あいつが悪い!などと何もかも他人のせいにすれば楽よ。

2. 法律の役割と教育の位置づけ
「総じて、不正を憎んで正義を愛するようにする、あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何らかの手だてがあるなら、そのようにやってもよい。」
誰もが正義を愛するならば、法律なんて必要ないのかもしれない。だが、正義観念が多様だから困ったことになる。法律が間違っている、あるいは弱点を抱えていると分かっていても、それを執行することが正義だとするならば、少なくとも正義を憎まないように配慮する必要がある。まさにそれが法律のなすべき仕事だという。
恐怖心を与えて破廉恥や不正や快楽と戦わせるという意識は受動的ではあるが、現実に法律はそういう効果を持っている。人間は誰しも、ちょっと悪人なのだろう。そして、法律の閾値を越えた悪人も少数ながらいる。そして、法律は犯罪や罰則を規定することが中心になる。同じ罪でも、故意か過失かで大きな違いが生じる。偶然殺人を犯した者を、計画殺人と同じには扱えない。動機までも盛り込めば、法律は大量の退屈品となろう。
本書も、法律が長ったらしくなっても驚くにあたらないという。とはいえ、いくら法で厳しく規定したところで、いくら立派な条文で記述したところで、それが慣習とならなければ、精神の内に正義の観念は生じないだろう。成文法が慣習法となりうるか?という議論は現在でも盛んに行われる。そもそも、言葉にできない慣習とういうものがある。わざわざ条文にするまでもない常識というやつが。だが、常識から酷く逸脱する事例が現れれば、記述を必要とする。常識なんてものは時代とともに変化するもので、条文は無限化するようにできているのか?
「何ら不正を行なわない人間はたしかに尊敬に値するが、不正を行なう者に不正行為を許さない者は、前者よりも倍以上に尊敬に値する。」
そこで、意識改革の手段として、法律で規定する教育の在り方にも及ぶ。義務教育の意義のようなものが。教材に対しての批判も展開されるが、いつの時代も教育者が制作するものは奇妙なものが多いということのようだ。養育と教育は、法律で厳しく規制するよりも、称賛や非難によって導くことが肝要で、勧告による方が適当であるとしている。しかしながら、道徳は教えられるものなのか?と問うたのはプラトン自身ではなかったか...

3. 平等と公平
古代ギリシアには「平等は友情を生む」という諺があるそうな。だが、平等には二種類あり、その二つはまったく正反対の性格を持つという。そして、栄誉や財産を簡単に人数割りするのは簡単に導入できるが、尺度や重みといった評価がなければ、真の平等は実践できないとしている。個人に備わった能力、善悪の価値の違いがあることを、評価せねば。不当な格差があるならば、不当な平等もあることを、指摘している。幸運を必要とする平等は、できるだけ避けるべし。二つの平等は、均衡させる必要があると... そうなると、法律でできることと言えば、最低基準を規定することぐらいか。
また、経済の観点から世襲の弊害を論じているあたりは、なかなか!よほどの修行を積まないと、既得権益に固執する意識を排除することはできまい。世襲化や官僚化が人間社会の本質であるならば、イデアなどという原型を保つこともできまい。そこで、財産階級を四つに定め、土地の分配や所有財産の制限と、それぞれの階級に責任を分配している。しかも、階級が固定化されることは平等に反するとし、その防御装置として税制、すなわち所得税の配分や相続税が検討される。階級毎に、土地の分配や所有財産の制限を設け、責任の重さを課し、能力によって階級間を自然移動できる仕掛けが必要というわけである。平等と公平は似て非なるもの。結果的に、個人の財産は公共財産とされるわけだが、共産主義的な搾取とはまったく異質である。
さらに、男女平等の教育改革が唱えられる。こちらは、現代感覚からすると、ちと抵抗があるが。女性が自分の家庭の幸せしか顧みないことを嘆き、国家のことを考えさせるために教育が必要であるとしている。だが、社会的地位までも平等にせよという意味ではなさそうである。男だけを法律で監視し女には欲求を剥き出しにさせているために、息子の命を尊び過ぎ、侵略に対しては国の誇りを放棄して、隷属することを望むという。そして、男女の区別なく、馬術や武術の訓練をするべきだとしている。おまけに、政治指導者ともなると妻を共有し、すべてを国家に捧げよ!とまで言っている。それこそ徳の偏重であろうに...

4. 神学論と「夜明けの会議」
第10巻には神学論が展開され、歴史的にも貴重なものらしい。不敬罪の刑罰が規定されるが、まさに師ソクラテスが不敬罪に問われた。その悔しが滲み出ている。
人に仕えたことのない者は、称賛に値する主人にはなれないという。そして、立派に支配することよりも立派に仕えることを誇りにすべきであって、法律に仕えることは神々への奉仕のつもりで仕えよと。ただ、仕えるべき主人もいれば、仕えるべきでない主人もいることを付け加えておこう。
また、無神論の誤った考え方を三つ挙げている。一つは、神々が存在しないと考えること。二つは、神々は存在するが人間には無関心であると考えること。三つは、犠牲や祈願によって神々の機嫌がとれると考えること。プラトンは、こうした考え方を反駁する上で、魂が物質より先んずる存在であるとしている。魂を自然物とし、自然に適った産物こそが優越するというわけか。そして、神々が人間に無関心でないことを論じ、その配慮は全宇宙にまで及ぶとしている。そもそもの本書の目的は、この不敬罪に対する法律を、主目的に位置づけているようだ。
しかし、唯物論的な自然主義のような考え方が、科学的思考を発展させてきたのも確かだし、魂が自然物かどうかは別にして、その魂がこしらえる法律は、どう見たって人工物にしか見えんよ。人間もまた自然物と言えば、そうなんだけど。神が自然物なら悪魔も自然物ってか?百歩譲って善のイデアが魂の自然の姿だとして、魂が善のイデアに回帰しなければ、法律をこしらえることもできないというのか?あるいは、学問によって善のイデアへ導かれた者だけが、立法者たる資格があるとでもいうのか?ついでに、能動的な節制者こそが、自然の魂の持ち主とでもいうのか?んー...そうかもしれん。
では、そんな立法者の資格を持つ者は、この世にどれだけいるというのか?私がこの世を良くしてあげよう!といった類いの人間ではなさそうだが。おいらのような無神論者であっても、絶対的な存在のようなものが、なんとなくあるような気がする。神と呼ぶよりは、真理や宇宙法則と言った方がよさそうである。神の存在を人間の都合に合わせようとするから、擬人化してしまう。信じる者は救われる!なんてやるから思考を停止させる。能動的な動機によって自ら善へ到達することを、神と呼ぶかは知らんが、プラトンはそう言っているように映る。
本書の最終的なテーマは、立法が神聖なものとなりうるか?ということを問うているのだろう。この立法する神的な会議、すなわち、最高の役人たちからなる会議を、「夜明け前の会議」と呼んで締めくくる。ただし、この世に夜明けが来るのかは知らん。

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