2013-12-01

"イワン・イリッチの死" レフ・トルストイ 著

ウォッカ級の長編大作が続くと、純米酒のごときシンプルな物語を欲する。しかし、濃厚さはスピリタス級か!なにしろ死神を相手取るのだから...

トルストイに触れるのは、二十年振りぐらいになろうか。帝政ロシア時代にあって、ロシア正教会と国家権力の癒着や民衆圧迫の政策を批判し、国家から危険人物と目された。だが、あくまでも非暴力主義を唱え、その活動はトルストイ運動として知られる。学生時代というのは、自由に焦がれ、なにかと反権力的な考えに惹かれるもので、同じく政府批判でシベリア流刑となったドストエフスキーや、農奴制度を批判して投獄されたツルゲーネフと合わせて親しんだものである。イエス思想への原点回帰を匂わせる点でも彼らは共通しており、宗教思想の暴走にも興味を持った。トルストイは、代表作の一つ「アンナ・カレーニナ」の完成後、十年間、創作意欲を失い、自我に籠ったと伝えられる。そして、再び出現した作品が、「イワン・イリッチの死」である。
題材そのものは単純... 一人の裁判官が、不治の病にかかって恐怖と孤独に苛まれ、ついに諦観に達する... という物語。なんの変哲もない純粋さが、却って芸術としての凄みを与える。

なぜ、この書を再読する気になったかというと...
実は先日、友人の葬儀で納棺に立ち会った。ヤツは、こわばった手足を棺の底敷に沈めながら、ずっしりと横たわっていた。その姿は、防腐処理のせいか、堂々としていて、実に死人らしくない。闘病生活の疲れからか、少し痩せ細っているものの、すっかり面変わりした顔は、まったく関係のない第三者の面構え。穏やかな表情が、微笑んでいるようにも、冷徹にも見える。なによりも不思議なことは、生きている者を投影するかのように見えることだ。まるで生きる者を非難するかのような... ついに人生の意義のようなものを悟ったというのか?
ところで、葬式というものは、最も悲しむべき喪主が、最も忙しい仕事を負わされる。気持ちを少しでも紛らわせようという魂胆か?財産を計算をするのも、香典を整理するのも、気を紛らわすにはちょうどいい。そして、葬式を終え、参列者が去った後、突然泣き崩れる。
しかし今回は、家族葬のような簡易的な形で済ませたいという意向があり、死に顔をじっくりと拝むことができた。俺の顔を見ながら愚痴ってんじゃねぇよ!という台詞が聞こえてきそうなほどに。葬式仏教のような形式ばったものよりも、落ち着いて惜しむことができるだけに、その質素感が却って重みを与える。そのような儀に参加させて下さった遺族の方々に感謝する。
... いま、そんな事を振り返りながら、読んでいる。

1. 生への欺瞞
イワン・イリッチは三人兄弟の次男。父は、典型的な官僚役人として、年功序列で役職を与えられ、安穏な晩年を過ごした。長男も、父と同じ栄達の道を選び、名義ばかりの椅子を占め、惰性的な俸給を得る。三男は、紋切型の家族に一人ぐらい現れる、はみ出し者。末っ子ともなれば、いつも兄たちと比較され、反抗心を抱く。次男イワンは、一家で秀才と言われ、長男ほどの杓子定規でもなければ、三男ほどの無鉄砲でもない。快活で、社交的で、礼儀正しく気持ちのいい人物で、同僚からも好かれるタイプ。そんな人物が、医者にも診断できない得体の知れない病に襲われ、絶えまない腹痛から精神を歪ませていき、ヒステリックな性格へと変貌させる。普通に恋愛し、普通に結婚し、普通に子供もでき、平凡に生きてきたからこそショックが大きいのか。
裁判官の資質で何よりも嫌う事は嘘をつくこと。嘘も方便と言うが、正義漢にとって虚偽ほど許せないものはないらしい。しかし、その嘘が、唯一の心の支えになろうとは。医者は完治すると言っているし、家族や同僚もきっと治ると励ましてくれる。その胡散臭い言葉が、なによりも辛い。病床にあり、モルヒネ漬けとなり、痩せ細っていく顔を見れば、鏡を遠ざけ、自分の身体からも目を背ける。やがて、イワンは死へ向かっていることを悟る。まだしも、末期癌などと宣告される方が、ましなのかも...
「おれがいなくなると、その時はいったいどうなるんだろう?なんにもありゃしない。おれがいなくなった時、いったいおれはどこへ行くんだろう?本当に死ぬんだろうか?いやだ、死にたくない。」
恐怖を嘘で誤魔化すのが、精神ってやつの常套手段。なによりも自己を欺瞞しやがる。希望という名の絶望ほどタチの悪いものはない。無責任な博愛者ほど、ガンバレ!と、精神的に追い詰め、憐憫な情は残酷な情の投影となる。若くて活力がみなぎっていれば、自分が死ぬなんて想像もつかないし、考えもしない。だから、他人の命を粗末にするのかは知らん。死を身近に感じなければ、生きる意義なんて考えないものかもしれん。

2. 死への覚悟
死を知ったとしても、死を悟ったとしても、人間だからいずれ死ぬ!と分かっていても、その考えに馴れることは並大抵のことではない。死とは何か?と自問したところで、理解を超えた領域にある。そして、死の意義について、屁理屈でもいいから、答えを出さずにはいられない。死という得体の知れない恐怖が迫れば、唯一の慰めは時間感覚を麻痺させることぐらいであろうか。
死を問うことを、生を問うことに転嫁することはできそうである。死を無意味とするならば、意味のある時代を思い出せばいい。周囲にできることと言えば、ただ目を見つめ、昔の懐かしい話を笑顔で語ってやることぐらいであろうか。こんな場面に、励ましも、希望の言葉も、真面目くさった話も無用だ。生に満ちていた思い出だけが、迫り来る死という瞬間を遠ざけてくれる。それでも、過去を思う時間は「死の距離の自乗に反比例」して、だんだん速くなっていくものらしい。未来の絶望のために過去の希望に救いを求めるとは... 思い出作りとは、死に直面するための心の準備に過ぎないというのか?
周囲の人々が絶望の目で見つめていると、自分の存在が彼らを苦しめているのを感じ、ついに死を覚悟する。かくして、イワン・イリッチは、死を喜びに変えたのだった。人生とは、死というほんの一瞬の光を見るだけのためにあるのかもしれん...
「ところで死は?どこにいるのだ?古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ?死とはなんだ?恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。死の代わりに光があった。」
... 中央裁判所の判事イワン・イリッチ、享年45歳。

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