2013-12-22

"塩の道" 宮本常一 著

「世間師」という言葉があると聞く。旅をして広く見聞し、世間のことを良く知っているというだけでなく広く見識を持ち、事ある時に相談相手になるような人物を言うそうな。民俗学者宮本常一とは、まさにそういう人物らしい。実際に地方を歩きまわり、百姓の視線から良き相談役となり、農業経営や技術指導にも多くの時間を割いたという。その思想は、柳田国男の影響を強く受けながらも、それ以上に渋沢敬三の影響を受けているという。日本民族の研究では、同族意識が強いために画一的な見方が優勢となりがち。しかし、地域環境から生じる多様性こそが人間の真の姿であろうし、日本人とて様々な祖先の系譜があり、個性溢れる民族であることを浮き彫りにしてくれる。自然災害の多い地域だけに、自然には逆らえない神の力のようなものを感じ、運命論を受け入れざるを得ない。しかしそれは、運命に左右されるという受動的な考え方ではなく、むしろ積極的に自然と戯れるという考え方にもなろう。質素で静かなものに美意識を感じ、陰翳に侘寂(わびさび)の趣向(酒肴)をこらすのも、そうした自然観からくるのだろう。
本書には、宮本氏が自然観を物語る晩年の作品「塩の道」、「日本人と食べもの」、「暮らしの形と美」の三点が収録される。田村善次郎氏は、こう書いている。
「読者の中には、ひっかかって首をかしげるところのある人もいるかも知れない。大いに首をかしげていただきたい。そして、自分なりに納得できるまで検証していただきたいと希うのである。私たちに課せられているのは鵜呑みにして面白かったとすませることではなく、これを手がかりとして、日本とは、日本人とは何かを考えることであり、生きるとはどういうことかを、深く考えることだと思うからである。」

言うまでもなく人間が生きる上で欠かせないものは、食糧と水、そして塩だ。しかしながら、食糧や水に関しては多く議論されるものの、塩に関してはあまり議論されるのを見かけない。塩があまり問題とされないのは、安定供給が確立されているからであろう。塩がいかに重要であるかは、塩にまつわる言葉や慣習に見て取れる。「手塩にかける」とは、丹精をこめること。塩の製造には、それだけ手間隙がかかったということであろう。「敵に塩を送る」とは、甲斐の武田信玄が周辺国から塩の取引を断絶された時、上杉謙信の美談として語り継がれる。
あるいは、塩は清めるものという習わしがある。葬儀から帰ると家に入る前に塩をまいたり、嫌な客が帰ると玄関先に塩をまいたり、縁起担ぎで盛り塩をしたり、お相撲さんが怪我をしないようにおまじないをしたり。白いことが清めの印象と結びつきやすい。
海外に目を向ければ、古代ローマでは兵士の給料に塩が支給されたと聞く。salary(給与)、sauce(ソース)、salad(サラダ)など、ラテン語のsal(英語のsalt)に由来する語も多い。
塩の安定供給は、国家にとって重要な問題となる。塩が専売制になったのは明治38年(1905年)のこと。その頃、製造法や販売法についての調査がなされ、「大日本塩業全書」としてまとめられたという。こうした政策が必要だったのは、日本の製造法が海水を利用することに偏っていたこともあろうか。塩浜に海水をまいて天日に晒して塩を結晶させ、さらに潮水をかけて濃い鹹水を採って、煮詰めるといった方法が主流であった。海外では、内陸部に塩井(塩の井戸)があったり、湖の辺りに結晶を作ったり、地下道に岩塩ができたりと様々な製造法があるが、そうした例は日本では少ないらしい。まったくないわけではなく、温泉へ行くと塩田跡などを見かけるけど。
やがて、イオン交換樹脂膜を利用して工業的に生産されるようになると、従来の製造法が消えるだけでなく、塩の専売システムも消えていく。昭和60年(1985年)、日本専売公社が民営化され、日本たばこ産業(JT)となる。それは著者が没した後の事であるが、既に専売制の消滅を予感し、日本人と塩の関わりを改めて調査し残すことが大切であると指摘している。
そして、塩の観点から、宗教思想、経済原理、交通の発達といったものを語ってくれる。宮本氏は、長い工夫の歴史を再評価せよと促す。日本人は改革が苦手と言われるが、改善、改良ならば得意のようである。日本文化には、なんでも混ぜあわせて、独自なものにする性分がある。ちなみに、数理論理学者レイモンド・スマリヤンは、こう語っていたのを思い出す。「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」と...

ところで、塩って産業種目で言うと、何に属すのだろうか?塩田で作るから農業か?海浜で作るから水産業か?塩木の話が出てくれば林業か?化学製法となると製造業か?食糧が安定供給されるようになると、第一次産業から第二次産業、第三次産業へと付加価値の高いものへシフトしていく。クラーク式産業分類も見直す必要があるかもしれない。製造業に分類されるメーカだって、自前でモノを造っていないし。
注目したいのは、塩は他の食べ物と違ってエネルギーにならないとしていることである。米や麦や酒などは体内でエネルギーになるが、塩は体内にあるものを循環させて排泄させる効果があるだけ。エネルギーとなる食物は、たいてい神に祀られる。米、麦、栗などには穀霊というものがあり、お供え物とされる。対して、塩には霊がないから祀られないという。いや、霊を払う側か。こうした役割が、塩に対して無関心な態度にさせるとしている。
しかしながら、人間社会では、循環を促す脇役の方が目立つではないか。市場原理は価値を循環させるだけの金融屋が牛耳り、情報社会は情報源よりもそれを煽るまとめサイトや報道屋が牛耳る。政治屋が出しゃばるから、そこに利益供与を求める団体が癒着し、社会に動悸、息切れの類いをもたらす。エネルギーに神が宿るとすれば、その神を差し置いて目立つから悪魔となるのか?ならば、脳が働いて思案を生み出す間も、心臓弁の運動を目立たせず、血液循環を乱さぬようにするがよかろう...

1. 製塩法
製塩土器を調査すると、三千年以前の縄文時代まで遡り、海水を煮詰めて塩を採っていたそうな。製塩土器は、海水がしみ込んですぐに壊れるので、発掘作業で一つ見つかると、たくさんの遺物が出てくるのが特色だという。しかも、このように苦労して塩を採るやり方は、平安時代まで続いているとか。
もう少し能率の上がる方法に、揚浜(あげはま)というものがある。少し高くなったところを粘土で固めて、その上に砂をまいて海水をかけ、更に砂を集めて海水をかけると、非常に濃い鹹水が採れる。その鹹水を煮詰めるという方法。これを「揚浜式」と呼ぶそうな。
瀬戸内で多いのが入江で見られるものだという。海水が砂を運んできて、入江の一番奥までは行かず、中途で弓方の砂浜ができる場所がある。天の橋立もその類いか。その内側の海がだんだん干し上がっていくところを利用する。潮が引くと干潟で出てきて、そこに日が当ると、砂についている水分が蒸発して塩分が残る。その上に海水をかけて、濃い鹹水が得られるという方法。これを、「古式入浜」と呼ぶそうな。戦前多く見られたのが、「入浜塩田」だという。「自然浜」も揚浜式と同じようなものらしい。
そして、人工的に石垣を築いて「塩浜」となる。塩浜の時代になると、瀬戸内海に密集して出現するという。また、塩を煮詰めるための土釜は、鉄釜も使われるようになったという。

2. 木地屋(きじや)ってなんだ?
ロクロを回してお椀を作る光景は温泉などで見かけるが、木地屋は木をぐるぐる回しながらノミをあてて削ってお椀を作るという。それも、近江から全国的に広がったという面白い経緯があるそうな。放浪して伝えていく職人のほとんどは根拠地と結びつきを断っていくが、木地屋だけは、本拠である滋賀県永源寺町の筒井という所と、君ヶ畑という所に密接に結びついているという。なぜかは、近江から産出される鉄でないと、木地屋の椀を作ることができなかったのではないかという。鉄の供給者と絶えず連絡をとっていなければ、出先で良い仕事ができなかったはずだと。材料のこだわりもあろうか。鎌倉時代の石工技術にしても、近江一国に分布し、若狭が鋳造師とその技術の根拠地だそうな。近江を中心として、こうした加工技術の発達という経緯があるらしい。
ちなみに、近江の国友村の鉄砲鍛冶は有名で、関ヶ原の戦いの際、徳川家康はわざわざ近江国に大筒を発注して、石田三成を挑発したという逸話もある。
それはさておき、瀬戸内海でも近江の鉄釜が使われたらしいが、よほど上手くやらないと良い塩が採れない。海水を煮詰める過程で錆が出て、赤み帯びた塩になるからである。塩が清いものとするならば、真っ白である必要がある。鉄釜の能率よりも白い塩を作ることが優先され、石釜が利用されるようになる。日本人の凝り性やこだわりといった性分は、こういうところから受け継がれているのかもしれん...

3. 塩木をなめる... そして、塩の道
海浜ですら塩作りに苦労するのだから、山中となると尚更で、苦労話や工夫話が豊富なようである。
さて、塩を焼く!って何すんの?冬の間に木を伐って川のほとりに積んでおき、雪解け頃に水量が多くなって積んだ木を川に流すと、海岸まで流れ着く。塩がしみつく頃をはかって木を焚く。塩木(しおぎ)とは、塩釜で海水を煮つめるための薪木のことか。地域によっては、山中に住む人が木を流し、海岸に住む人が焚くという役割分担もあったとか。山中に住む人々にとって、川は塩を得るための生命線でもあった。
美濃の山中を歩いた時、「塩木をなめる」 という話を聞いたという。「なめる」とは、舌で舐めるのではなくて、伐ることを言うそうな。塩の生産に余裕が出てくれば、商品とされる。山中の人々にしても、木を焚くよりも海岸へ買いに行く方が手っ取り早い。その時、交換されるものは灰だったという。山にはたいてい共有林があって、生木のまま焼いてできる灰は非常にアクが強い。麻は、雪の深いところでは「雪ざらし」といって、雪の上に置いて太陽光線をあてると真っ白になるという。雪の少ない地域ではそれができないので、灰のアクを利用してさらすのだそうな。
また、塩の運搬で馬や牛を利用したことから、街道の発達が見られるという。それも、牛を利用する方が多いそうな。狭くて険しい山道では馬よりも牛の方が歩く力が強い。しかも、ゆっくり歩きながら道草を食ってくれるから、自然に整備されるらしい。これぞ、塩の道か!
馬の管理はどこの藩でも厳しいが、牛はそうでもなかったらしい。山中で取れる鉄の運搬も、やはり牛が利用される。馬なら運搬の後、連れて帰るが、牛なら一緒に売れるというメリットもあるという。帰り道で金だけ持って身軽になれば、パーっと使ってしまいそうだけど...
経済循環を、堺や大阪といった商品の集まる所ではなく、塩の流通という観点から語ってくれるのには感服させられる。経済システムとは、元来、生活の必需から生じたのであろうから。そして、余剰生産が生じた時、儲けに憑かれる。儲けとは、もののけの類いであろうか...

4. 戦のない地域
戦国時代でさえ、戦のない国があったという。武家社会が成立したのは鎌倉時代で、源頼朝は国々に守護、地頭を置いた。地頭になる人は、たいてい鎌倉の御家人で、彼らが地方へ下って、警察権の行使や租税を徴収する。こうした御家人たちが勢力を持つから戦が起こるのであって、武士がいなかければ戦はほとんど起こらないという。例えば、大和国には東大寺や興福寺の寺領が多くあり、ほとんど武士がいなかったから戦がなかったとしている。
実は、そういう国が周防にもあるという。源平戦の時、平重衡が東大寺を焼くと、東大寺再建のために国々から金を集める。弁慶が安宅の関で勧進帳を読むが、東大寺再建のための寄付金を募る帳簿をもって諸国を歩いたのが勧進帳物語だ。勧進帳の総元締めには大勧進がいて、俊乗房重源という真言宗の僧が東大寺大勧進職を努めた。重源が周防へ下ると、周防国が大和と同様に知行国となる。知行国になると、税金の一部を東大寺再建の費用にされる。東大寺再建には大量の材木が必要で、周防国には大きな杉の木がたくさんあったという。
ところが、頼朝が命じた地頭がたくさん下ってくると、地頭は地頭で税を取り立てる。重源上人は、東大寺の再建が難しくなるので、地頭を置かないでくれと頼朝に頼み、地頭は鎌倉へ引き上げたという。頼朝は、東大寺再建の大旦那だから聞かないわけにはいかない。周防国は、東大寺の知行国であり続け、江戸時代の初めまで続くことに。毛利家が周防と長門の領主となると、東大寺領も消えていく。
つまり、守護系や地頭系の武士がいなかったことが、ほとんど戦もなかったというのである。へー... 人間の領地欲は、武士だけに留まらないと思うが...
また、日本ではゲリラ戦がほとんどないという。ゲリラ戦は民衆が参加することによって生じる。ゲリラを援助するのは後ろで操る政権であるが、戦は武士の仕事で民衆はできるだけ巻き込まれないようにしたという。戦国時代の戦は、負けてしまえば、一族残党まで亡ぼされる。生き延びるためには身分を捨てるしかない。民衆と政権の結びつきが弱いとすれば、村に身を隠しやすいということはあるだろう。平家の落人伝説などがそれであろうか。一族で村を形成することもあろう。こうした風土が、部落問題の起源とも聞くが定かではない。
本書は、民衆がゲリラ戦をやらないことが、戦争をする人と食糧を生産する人を自然に分けたとしている。あれほど激しい戦国の世であっても、ほとんど飢饉が起こっていないという。むしろ飢饉は、自然災害と結びつくと。民衆が積極的に戦の難を逃れようとしたことが、人口減少もあまり見られないという。確かに、いざ鎌倉!といった言葉は国防を意識したもので、御家人の時代から兵農分離が意識されている。兵農分離を積極的に取り入れて成功したのは織田信長という説をよく耳にするが、そうでもないのだろう。斬新的な改革者というイメージが、なんでも先取りしたという人物像を作り上げる。むしろ、信長の斬新な政策は楽市楽座の方であろう。どんなに優れた武将でも、国家存亡ともなれば、必要なだけ動員する。太平洋戦争のような狂気した時代では、学徒出陣まで実施した。
よほど酷い政権でない限り無関心でいられるというのも、日本の特徴的な風土なのかもしれない。それで、野放し政権が出現するのも困りものだが。政治家と一緒になって民衆が狂気するよりは、民衆が冷めて見られるだけましというものか。逆に、民衆の狂気に司法判断までも同調すれば、法治国家は放置国家と成り下がるであろう...

5. 自給自足と面子
二百年もの間、鎖国を続けられたのは、食糧の自給自足体制があったからだという。最も恐れるものは災害や飢饉の類い。飢饉が生じると、食糧の確保できる藩は、「津留(つどめ)」をやったという。津留とは、米を藩外へ売り出すことを禁ずること。他藩が助けてくれないとなれば、藩の面子を潰すという意識が強くなる。そして、米の流通は藩によって完全管理される。良く言えば、大名の面子が自立を確立させた、悪く言えば、大名の面子のために民衆が犠牲になった、といったところか。
天保の飢饉では、大阪で大塩平八郎の乱が起こる。だが、土佐国では凶作というほどではなく、米を出す力を持っていたという。大阪へ米を出すのを止めたことで米価が上昇。凶作というだけで飢饉が起こるのではなく、むしろ米の供給が不均衡になった時に飢饉がより大きくなると指摘している。したがって、どんな小さな藩でも、自給自足体制を整えることに必死だったようである。面子や誇りのために、粗末なものを食べる忍耐が鍛えられる。魚介類でも、生魚でも、なんでも食べる。ナマコを初めて食べた人は勇気がいったことだろう。そのために、様々な食べ方が工夫され、食文化を育んできたということか。自給自足の精神が、質素ながらも様々な工夫をこらし、自立の精神を育んできたというのはもっともらしい。実は、主食は米や魚などではなく、味噌汁の方では...

6. 稲作民族と騎馬民族
縄文時代、北九州のあたりに定住した稲作民族を倭人と呼ぶ。それは2300年ぐらい前のことで、中国沿岸を通って朝鮮半島の南を経由して移住し、その祖先は越人とされる。だが、日本列島の東方には、原住民が住んでいた。これも、どこからやってきたのか知れないが、蝦夷(えみし)と呼ばれ、後にエゾと呼ばれる。えみしという言葉が定着する前は、土蜘蛛という言葉がある。竪穴に住むことから、土蜘蛛という言葉が生まれたという。九州にも土蜘蛛はいた。
一方、騎馬民族もどこからか移住してきたようである。その後裔が鎌倉武士なのかは知らんが。もともとは牛や馬は荷を運ぶ道具という習俗があったらしく、乗り物という意識はないらしい。こういう習俗は日本独特のものだそうで、明治頃まで続いているという。
さて、稲作民族は定住を好み、騎馬民族は移動する習性がある。騎馬民族は地元と密接な婚姻関係を作ったそうな。その最たるものが天皇家で、東は美濃から西は九州に至るまで婚姻関係を結んでいるという。男だけが移動して、その地域を統治するために女を娶る。天皇だけが方々へ行き、豪族の娘と結婚する。やがて、飛鳥に藤原氏が進出し、都が落ち着くと、天皇は地方を歩くことができなくなる。それでも、今までの異国との婚姻の習俗は残っていて、皇后を出す家も習俗化する。これがお家柄というやつか。明治の初めまで、藤原氏がずうーっと皇后を出していたという。秀吉や家康が、藤原氏の称号を欲したのもうなずける。
しかしながら、藤原氏は一度も天皇になったこともなければ、天皇になろうともしなかった。それはなぜか?脇役の宿命か?習俗の持つ力というやつか?習俗ってやつは、取り憑かれると宗教のごとく恐ろしいものとなるらしい...

7. 障子と畳
平安文化は、貴族が寒さに堪える文化だという。源氏物語絵巻の十二単は見事なほど着ぶくれを演じてくれるが、美しさという見栄だけであんな分厚い恰好はしないだろう。谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」の中で、用を足すにも風流とする文化があるとした。純日本風の厠は、母屋から離れていて夜中に行くには便利が悪い。斎藤緑雨は「風流は寒きものなり」と言ったとか。漱石は便通いを「生理的快感である」と言ったとか。芸術と寒さは相性がいいのだろうか。
さて、部屋の境界に敷居の溝を切る技術が発達すると、そこに遣り戸をはめて風や寒さを凌ぐ。やがて、そこに襖(ふすま)を滑らせることに。平安中期、盛んに書物を読み、筆写するようになると、明るさをもたらすために、襖に薄い紙を張り、障子が発明される。平安の終り頃、楮(こうぞ)という植物の繊維をとって、紙にする技術が発達したそうな。それ以前は、紙は色紙であったとか。美濃国に楮の大きな産地があって、これは白い紙だという。美濃紙の発達と明かり障子の流行は、同期しているらしい。障子の発明によって日常生活をますます情緒溢れるものにさせる。
さらに、ワラでこしらえた畳が登場すると、板張りの空間を愉快にさせる。ワラ靴などのワラ細工の発達は、乾く田んぼとの関係が深く、こうした軟質文化が日本人を器用にさせたという。
本書は、物質文化を「軟文化」「硬文化」に分類し、軟文化の特色は、刃物を使わないとしている。軟文化の代表といえば、織物であろうか。ちなみに、トヨタ自動車も機織り機が起源である。
ところで、畳の部屋は柔軟性が高い。ベットで寝る場所を固定することもなく、自由に布団が敷けるし、布団がなくてもごろ寝ができる。居間にも食堂にもなり、襖を取っ払えば二つ部屋を一つ部屋に再構成できる。ただ、畳部屋が、テーブルよりもお膳を主流にしたとしているところは、合点がいかない。お膳は縄張り意識をはっきりさせ、テーブルは開放感がある、と言えばそうかもしれない。階級社会では、お膳の方が座る場所を規定できるだろう。上座や下座という概念との結びつきもある。しかしそんなことは、畳部屋でも板張りでも同じであろうに。
ちなみに、幕の内弁当なんてものは、お膳の発想から生じたのだろうか?それも、みんな平等という考え方で、個性を嫌うという考え方が潜在意識にあるのだろうか?

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