2013-12-29

"日本語と日本思想" 浅利誠 著

思考する上で言語の役割は大きい。精神の内に生じた何かを具象化できる道具なのだから。しかしながら、言語ってやつは、日頃から馴染んでいるだけに空気のような存在で、その正体を知ることは想像以上に手強い。柄谷行人氏は、うまいことを言っている。
「文法は言語の規則とみなされている。だが、日本語をしゃべっている者がその文法を知っているだろうか。そもそも文法は、外国語や古典言語を学ぶための方法として見出されたものである。文法は規則ではなく、規則性なのだ。... 私は外国人のまちがいに対して、その文法的根拠を示せない。たんに、"そんなふうにはいわないからいわない"というだけである。その意味では、私は日本語の文法を知らないのである。私はたんに用法を知っているだけである。」
... 「定本 柄谷行人集、ネーションと美学」より...

言語体系を根本から支えているものは文法であろう。そして、その文法に柔軟性があるからこそ、精神活動に多様性をもたらすのであろう。雁字搦めな文法規定の下では、精神もまた窮屈となる。「文法は規則ではなく、規則性」というのは、実に的を得ている。
著者浅利誠氏(フランス国立東洋言語文化大学助教授)は、日本語のあり方を「外国人のための文法」という観点から論じることを表明し、日本語を母語とする者のための文法には関心がないとまで言っている。それは、日本語を喋る者同士で暗黙に了承するような甘えの許されない文法論だということだ。まず、一つの言語系を観察するには、メタ的な視座を求める。母国語に対しては、どうしても贔屓目で見がち。他のどんな言語よりも美しい!なんて自惚れ論に興味はない。国語辞典崇拝論にも興味はない。そんなものから解放された立場から日本語の特徴を見つめなおすのに、ちょうどいい一冊としておこうか...

だいたいの言語系で、まず思いつくのは名詞文である。日本語で言えば、「何々は、何々である」といった形。会話では、あまり用いられない形式だが... ここには、本書に登場する基本的な要素が二つ組み込まれている。一つは、「は」という助詞の位置づけ。二つは、「である」という存在を印象づける句。
さて、助詞ってやつが、名詞や動詞などとくっつく形で、日本語の構造的特徴を成している。こいつらのおかげで文章に柔軟性を与えると同時に、文章の曖昧さの原因となっている。その扱いも微妙で、「は」と「が」の使い分けだけでも明確に説明することが難しい。「は」だけでも多様で、係助詞で分類したところで、格助詞の役割を兼ねる場合もある。
本書は、「は」の微妙な位置づけを、古語の「係り結び」「てにをは(弖爾乎波)」との関係から論じてくれる。中でも、三上章氏の「主語廃止論」にまで及ぶ論説はなかなかの見モノ。
また、格助詞を三つの空間との関係から論じている。例えば...「庭でリンゴを食べる」と言えば、主体周辺にある円空間をイメージさせ、「橋を渡る」と言えば、対象との接合空間をイメージさせ、「会社へ行く」と言えば、空間移動をイメージさせる... とった具合に。「格」とは、モノゴトの空間的位置づけ、つまりは居場所を表していることになろうか。
さらに、「である」では、ハイデガーの存在概念との関係から論じている。具体的には、ドイツ語の「sein」との関係で、英語の「be動詞」に相当するもの。つまり、どんな言語体系にも、実存を強烈にイメージさせる動詞が具わっているということになろうか。
こうして眺めていると、言語というものは、自己存在を意識するところから生じたのであろう。それは二項関係から生じる意識で、人と人との関係、人とモノとの関係といった相対的な位置づけをめぐっての空間意識である。人は皆、自分の居場所を探しながら生きている。たとえ世間で使われる言葉を知らなくても、精神の持ち主であれば、自己の中に独自の言葉を編み出し、そこに自己存在を確認する能力を自然に具えることができる。言語は、なにも記述できるものとは限らない。絵も、音も、数も... 精神の内に生じた何かを体現できる道具となるものなら、なんでも言語とすることができる。言い換えると、人間は、実存ってやつを言語という空虚なものでしか確認する術を知らないということであろうか...

1. 翻訳の意義
本書は、本居宣長、西田幾多郎、和辻哲郎らの視点を原点的な立場に据えている。この三人は、いずれも翻訳に携わっていて、外国語の視点から日本語を眺める目を持っているという。翻訳とは、風土や文化など人々が精神の拠り所にするものや、人間の核心部分を変換して解釈するということになろうか。外国語との対比から、普遍性、相対性、固有性といったものを見出すこともできよう。けして単語や文章を、一対一で機械的に変換できるものではない。その意味で、日本語を冷静な眼で眺められるのは、国語学者よりも翻訳家の方かもしれん。外国語が喋れるかどうかは別にして、外国語に触れることの意義がここにあろう。
「母語に対して超越論的であることは難しい。また、母語を外部の視座から問うのは難しい。しかし、そうすることによってしか母語は問われないのかもしれない。そうであるとすれば、私たちははじめからこの困難の中にあることになる。」
ただ、母国語の美しさに囚われると、偏重したナショナリズムと結びつきやすいということを付け加えておこう。
ところで、英語には、日本語の助詞と似たものに前置詞ってやつがある。英語試験では、どれか一つの前置詞を選択せよ、といった定番の問題がある。その対策で、at, in, by などと単語をセットで覚えたりする。しかし、外国人に言わせれば、単語から判断できるわけもなく、どれも正解という場合もあるようだ。日本人が一つの答えしか認めない傾向は、教育の弊害であろう。ネイティブの指標では、つい発音に目を奪われがちだが、風土や文化の理解がないために、却って誤解を招くケースも多い。実際、思いっきり訛っている方が土地柄がよく顕れていて、歩み寄りやすいということもある。そうした傾向は方言にも現れるし、実際、英語にも多様な方言がある。標準語なんてものは、多数決で決定されるようなもの。ネイティブなんて用語は、母語以外の言語を喋る者に対して使っているだけか...

2. 助詞と多様性
西洋語の基本的な構造は、SVO型、SOV型、VSO型などで説明できる。すなわち、主語(Subject)、動詞(Verb)、目的語(Object)の順番によって規定される。外国人が、助詞を省いた片言を喋るのも、単語の順番を意識しているからであろう。こちらも聞き取りやすいように、単語の順番を配慮したり、助詞を強調したりする。否定を表す場合、文章の最後に否定形がくるので、主旨が分かりにくいようだ。英語では、not が頭の方に現れるので、否定の主旨を前提にしながら以下の話題に集中する、という思考パターンがある。その点、日本語では、一つの文章で全体的な方向性を示している。例えば、「せっかくのお招きではございますが、当日は...」と言えば、最初から断る雰囲気が漂う。助詞や副詞、あるいは接続詞が連結して否定の主旨を伝えている。
論理性という意味では、not文だけで否定の主旨が伝わる西洋語の方が合理的と言えそうか。だが、精神の動きを表記するという意味では、むしろ文章全体で方向性を示す方が合理的かもしれない。この方向性が、空気を読むといった感覚と結びつくのだろう。もちろん、西洋語にも、そうしたテクニックはある。二重否定文という形式は、どんな言語系にも顕れ、やはり分かりにくいものだが、そこに微妙な感覚が込められる。
論理性という観点からだけ眺めるならば、プログラミング言語に日本語を適用してみるのもいい。むかーし、マクロ機能を駆使して、アセンブラ言語を日本語に置き換えてみたことがある。それなりに、できなくはないのだが、日本語の機能がかなり制限される。まさに「何々は、何々である」という構文に支配され、むしろ英語の方が分かりやすい。機械翻訳と何が違うのか?日本語の機能を削がれた日本語の文章にどれだけの意味があるのか?などと問えば、虚しくなったりもしたものだ。プログラミング言語として機能させるには、コンパイラが解釈できなければならない。そもそもコンパイラが西洋語的な言語で書かれている。だからといって、西洋語にしても自然言語に目をむければ、SVO型といった単語順に完全に支配されているわけではない。あくまでも基本形がそうだというだけで、その例外は詞や歌に見てとれる。ゲーテの詩的な文章が翻訳語ですら、その美しさを維持できるのは、言語の普遍性といったものが体現されるからであろう。そぅ、論理性においても、感情性においても、多少の優劣があるにせよ、人間が操る以上、言語には柔軟性があるということだ。そして、誰一人として同じ言語を喋っちゃいない...

3. 詞と辞の文法論
詞と辞の概念規定の創始者は本居宣長だそうな。その着想に強く影響を受けたのが、時枝誠記だという。詞と辞の区別は、文法構造の考察に由来するのではなく、漢字仮名混じりの表記から仕方なく生じたという。名詞や動詞や形容詞など直接示すものを詞とし、助詞や接続詞など補語的なものを辞と区別する。詞の方は、後世に受け継がれても違和感があまりないが、辞の方は時代の変化に富む。客体的な詞に対して、主体的な辞という見方はできるかもしれない。つまり、感覚的なものの方が変化に富むということか。日本語の本質的な構造は、辞の方にあるのかもしれない。しかも、その規定は曖昧で大雑把ときた。いや、明確に規定できないのかもしれん。おかげで、古文は既に外国語の領域にあり、現代人の大多数は大和言葉を解することができない。
時枝誠記は、四つの助詞に区別しているという。格を表す助詞、限定を表す助詞、接続を表す助詞、感動を表す助詞。わざわざ感動を表すものを区別するということは、格助詞には感情的なものがないというのか?また、陳述性があるかないかで、接続助詞と格助詞が区別される。時枝は、格助詞と係助詞の区別には関心がないらしい。

4. 「てにをは(弖爾乎波)」と「係り結び」
「てにをは」という語の起源は、漢文の訓読みのヲコト点に由来する。「係り結び」という形は、奈良時代に顕著で、平安時代になると少しずつ変化し、室町時代になると、「は」などの一部を除いてほとんど消滅したそうな。係り結びとは、「ぞ、なむ、や、か」は結びが連体形となり、「こそ」は結びが已然形になるという法則である。助詞の用い方によって結びまでも変形するとは、なんと不合理な... と思うわけだが、おそらく昔の人々は音感を重んじたり、句や辞と戯れる余裕があったのだろう。言語そのものが、貴族など身分の高い人々の遊び道具だったのだろう。やがて、言語が庶民化してくると、抽象化や合理化が進み、「は」で兼用されるようになったのかもしれない。
こうした歴史的背景を眺めると、「は」の抽象度は係助詞だけでは説明が難しいようで、格助詞を兼ねるのもうなずける。外国人にしてみれば、「は」をワと読むだけで頭が痛かろう。「お」と「を」は区別しても、同じ読みでやはり頭が痛かろう。現代社会は、言語に限らず、なんでも合理性に走る傾向がある。現代人は、無駄を楽しむ心のゆとりが失われてきたということであろうか?

5. 主語廃止論
三上章の「主語廃止論」は広く知られるそうな。日本語の最も根本的な文法は、主述文(主語、述語)ではなく、題述文(主題、述語)であるとみなす。主語は、主題で置き換えられるというわけだが、主題ってなんだ?主格に据えるものは、文章が表そうとする本質、すなわち陳述を要求することだと考える。これが主題というものらしい。
西洋語で、主語や時制がしつこく用いられるのは、それなりに意味がある。例えば、特許の文章では、誤解が生じないように、慎重に主語と前後関係を記述する必要がある。つまり、論理性や厳密性を求める記述においては、主語の役割は大きい。それで読みやすいかどうかは別だけど。数学がそうであろう。数学も厳密性を重んじる言語である。
さて、「主題 + 助詞」という形式によって、主語を無用とすることができるという。例えば、名詞をピックアップ(主題化)してみると...

「私は、彼女の結婚の仲人をした。」
「彼女の結婚の仲人を、私がした。」
「彼女の結婚は、私が仲人をした。」
「彼女は、私が結婚の仲人をした。」

んー... 主語の概念を主題という概念で抽象化しただけにも映るが...
主題化する上で「は」の役割は大きく、主格と結びつくという意味では、格助詞のように働いている。ただ、西洋語だって主題的な記述はできるだろう。
本書は、「は」の格助詞としての兼務を、コト的な表現で示してくれる。

「幸子は、日本人だ」 = 「幸子が日本人であるコト」
「象は、鼻が長い」 = 「象の鼻が長いコト」
「本は、母が買ってくれた」 = 「本を母が買ってくれたコト」
「日本は、温泉が多い」 = 「日本に温泉が多いコト」

なるほど、「は」の抽象度は高そうだ。一人称、二人称、三人称といった主語が省略されるということは、人称の抽象化という見方もできそうである。まさに日本社会が、人々の連携や人の和を重んじる風習は、ここに顕れている。自己主張が強ければ、一人称を重んじ、二人称や三人称と区別する。責任論で言えば、前者が全体責任とし、後者が個人の発言に責任を持つ、といったところか。いずれにせよ一長一短、自己存在に対する意識の違いが見て取れそうか...

6. 主語論理主義と述語論理主義
ハイデガーのドイツを形而上学の国とみなす、なんとも人を食った発言はよく知られる。
「私はドイツ語がギリシア人たちの言葉と彼らの思惟とに特別に内的な類縁性をもっているということを考えるのです。このことを今日繰り返し確証してくれるのはフランス人たちです。フランス人たちが思惟し始めると、彼らはドイツ語を話します。彼らは、フランス語では切り抜けられないということを確証します。」
クロソフスキーも、「ドイツ語こそは思惟の言語、Geist(精神)の言語であり、形而上学の神聖なる帝国」と発言したそうな。ニーチェも、インド・ヨーロッパ系の言語(ギリシア語、ドイツ語、フランス語など)と、ウラル・アルタイ系の言語(日本語など)との差異を、哲学上の問題として論じている。
文法は、思考プロセスの顕れというのは、本当かもしれない。言語の特徴が、学問的な特徴をなすことはあるかもしれない。哲学を生みやすい言語とか、数学が得意な言語とか。
西田幾多郎は、アリストテレス的な主語論理主義的な思考と、日本人的な述語論理主義的な思考の違いを指摘しているという。ただ、言語の特徴から多少の向き不向きがあるにせよ、言語の体系というものは日々変化している。思惟すれば自然に用語が生まれ、言語を操る人々が普遍性に向かえば、論理性も、感情性も、自然に具わるだろう。人間精神そのものが本質的に、主観と客観の融合によって成り立っているのだから。ましてや、グローバル化の流れにあって、それぞれの言語的特徴が融合したり、協調していくだろうし、翻訳の存在意義も、このあたりに再発見することができるだろう。実際、現代語は、かなり翻訳語や西洋語に毒されていそうだし、なにが純粋な日本語なのかも分からない。いずれにせよ、言語体系がいかに人間精神を投影する機能を具えうるか、これが問われることに変わりはない。

7. 繋辞とピリオド越え
柄谷行人氏の繋辞(コピュラ)の見方は興味深い。「日本では、山が美しい。海も美しい。女性も美しい。...」これが日本語のコピュラだと主張したそうな。それも賛否両論で、正しいかどうかはよく分からん。そもそも、繋辞とは、動詞や助動詞の変形であって、助詞とは関係なさそうに見える。だが、動詞のようなダイナミックな変化が、助詞によって体現される。
これと似た事例で、「ピリオド越え」というテクニックを紹介してくれる。漱石のあの文章だ...

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶している。...」

一つ一つの文章は、句点で区切られ、完結しているにもかかわらず、見事につながっている。しかも、接続詞が一つもない。文章は、自然な流れには逆らえないということか。このような流れる文章こそ憧れであるが、永遠に到達できそうにない。はぁ~...

0 コメント:

コメントを投稿