2013-12-15

"日本文化の形成" 宮本常一 著

前記事「忘れらた日本人」に触発されて、民俗学の視点から日本文化の源流を眺めたくなる。ただ、飛鳥時代から縄文時代まで遡ってしまうと、歴史というより考古学に近く、いまいち興味が持てないでいた。古代の移動技術を想像しても、つい陸路を中心に考えがちで、地理的な位置からしても、大陸からの一方的な影響が強いと思い込んでしまう。しかし、古代人たちの航海能力は馬鹿にできない。飢饉や凶作が頻繁に起こり、一族の存亡に直面すれば、一家総出で命も懸ける。太平洋から眺めれば、日本列島は漂流しやすい絶好の場所。まさに本書は、海路の視点から日本文化の源流に迫ろうとする。
また、もう一つ気心を変えてくれるものがある。それは、著者が愛読したという古事記、日本書紀、万葉集、風土記などを掘り返して歴史を語ってくれることだ。こうした古典群にも、いまいち興味が持てないでいたが、いずれ挑戦してみたいという気にさせてくれる。
尚、原作の「日本文化の形成」は、全三冊、896項もの大作だそうな。宮本常一氏の死によって、その壮図は中断されたものの、日本観光文化研究所での講義録や、晩年のシンポジウムなどの報告も記載されているという。この古典は、ちくま学芸文庫から刊行されるが、絶版中か!本書は同じタイトルだけど、講談社学術文庫版で、原作の下巻を底本にしているという。なるほど、講義録や写真図版などが省略され、250項のかなり軽い一冊に仕上がっている。とはいえ、内容はかなり分厚い...

人々が定住するのは、その場所で食糧が確保できるからである。狩猟や漁猟が生活の根幹をなしていた時代、獲物がとれなくなると移住を余儀なくされる。そして、定住率を高めるには、稲作や畑作の始まりを待つことになる。国家の成立もまた、人々の定住化によって始まる。
そうなると、農耕の意味するものは大きい。基本的な民族移動は、農耕以前の時代にほぼ完了していたのかもしれない。地図を眺めれば、樺太・千島列島経由、朝鮮半島経由、台湾・琉球経由の三つの海上ルートがすぐに目につく。それだけで、北海道系、北九州系、南九州系で、文化の伝来に特色が現れそうなもの。しかし、日本独自の縄文式の紋様を持つ土器は、北海道から沖縄に渡って満遍なく発掘されているそうな。縄文時代は、約一万年ほど続いたとされるが、その時代に北から南まで人々の往来があったということか。そして、弥生土器が出現した頃から稲作が始まったとされ、定住化が始まったようである。ただ、縄文土器と弥生土器が共存している証拠が、北九州の遺跡(福岡県粕屋郡新宮町)で発掘されているという。
本書は、この時代の中国大陸や朝鮮半島の情勢から、江南の地、すなわち揚子江の南から進出してきた民族に、日本民族の本流を探ろうとする。とはいえ、それだけでは説明のつかないところも多く、東南アジアとの関係も無視できない。小さな島ともなれば、食糧問題や人口問題が表面化しやすく、そのまま一族存亡の危機となる。近年でこそ考古学の発掘成果によって、中国大陸や朝鮮半島の文化を一方的に受容しただけでなく、済州島(チェジュド)などを媒介して双方で活発な交流があったこと、あるいは、西方だけでなく、北方や南方との交流も重要な意味があること、などが明らかになりつつある。宮本常一氏は、それ以前から、その見通しを示していたという。網野善彦氏は、彼の柔軟な学術態度を称賛し、こう語っている。
「民俗学の世界では、民俗学者は文献に頼ってはいけないとされ、ときには文献史料は読んではならないとすらいわれたことがあったと聞いている。」
それは、自己の確立が充分でないまま、あるいは文献史料の扱いを知らないままで、文献に頼ろうとすることへの警告だという。民俗学は、抽象化よりも多様性を重んじる学問で、そのために現地調査は欠かせない。とかく大和、京都、鎌倉など政治の中心から歴史を見がちであるが、柔軟性こそが宮本民俗学の真骨頂というわけか。日本列島が、太平洋の中の一島国である以上、文化はどこからでも漂流してくる可能性がある。日本民族は画一的という印象があり、島国根性で一括りにしがちなのは、教育の影響もあろう。こうして眺めていると、多様性に富んだ民族のようで、文化の源泉を辿るのも一筋縄ではいかない...

1. えびす
えびす様は、日本全国で見られる七福神の一つ。釣り竿を持ち鯛を抱える姿から、もとは漁猟の神といったところであろうか。「えびす」には「夷」の字をあてるが、「蝦夷」とも書く。古くは「エミシ」と呼んだそうな。「蘇我蝦夷」と書いて、「ソガノエミシ」と読む。蘇我蝦夷は、蘇我氏の氏長(うじおさ)で、飛鳥時代に権勢を振るい、645年、中大兄皇子や中臣鎌足らに攻められ自害する。そんな政治の中心人物が、なぜエミシを名乗っていたのか?蘇我一族には、もう一人、エミシを名乗る人物があるそうな。蘇我豊浦毛人(とゆらのえみし)がそれで、「毛人」と書いてエミシと読むという。平安京に尽力した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、墓誌を残す人に小野毛人(おののえみし)というのもあるらしい。毛人と書いてエミシと読むのは、毛深いことが逞しさの象徴だったという。日本書紀によると、夷は一人で百人分の力持ちという記述があるとか。
縄文時代の遺跡では、北海道を含めた東北より西南日本の方が数も少ないらしい。北海道の網走あたりに未発掘の住居跡が多く、北海道や東北の方が西日本より人口が多かったのではないかという。文化水準も、骨製や角製の釣針や銛などを多く用い、西南日本の文化よりも高いとか。そして、縄文時代に移動を繰り返し、夷の文化が北から南まで浸透していったということらしい。大和を中心に国家が成立すると、夷たちも政権に加わる。大和では稲作が始まり、弥生文化へ移行していく。しかし、北海道や東北では縄文文化が維持され、逆に遅れをとる。北海道には、弥生文化が発掘されないそうな。大和朝廷が成立する頃には、北海道や東北に残された夷は、農耕に従わず、異端視されるようになったという。
そうなると、単純に、蝦夷をアイヌとすることはできないようである。日本書紀の斉明天皇の時代、蝦夷征伐(えみしせいばつ)を行ったと記され、まだアイヌという言葉は見つからないという。大和朝廷を拒絶すれば、異民族として扱われ、後にアイヌという呼称さえ生じる。アイヌという言葉は、民族的差別からではなく、文化的差別から生じたということか。えびすという呼び名が大衆化していれば、同じ文字でもエゾなどと呼び名を変えて差別することは考えられそうか。たとえ同じ民族であっても文化の差が大きくなれば、まるで異国人のように映るものである。現在では、グローバル人という人種がわんさといる。だからこそ帰属意識に危機を感じ、なにかと考えの違う人々を非国民などと呼んだり、却ってナショナリズムを高揚させるのかは知らん。

2. コトシロヌシ(事代主)
日本書紀によると、天照大神の孫ニニギノミコトが高天原(たかまがはら)から日本へ下ってくる際、まず、タケミカヅチ(武甕槌)とフツヌシの二人の神を出雲へやって、コトシロヌシに告げると、コトシロヌシは海の中に八重蒼柴垣(やえあおふしがき)を造り、船の舳を踏んでその中に隠れたとされる。それは、抵抗しない意志を示したものだという。このコトシロヌシを、後世の人はエビス神として祀ったとか。エビス神を祀っているのは、古くは漁民に多く見られるが、奈良県の山中でも祀られているという。
「延喜式」という書物によると、大和葛上郡に鴨都味波八重事代主命(かもつみはやえことしろぬしのみこと)という神が祀られているとか。鴨という文字から、もともとは鳥類を捕まえることを生業とする狩猟民と考えられ、これもエビス神として祀られているとか。
こうしてみると、日本中に狩猟民や漁民の間でエビスが祀られていることが見て取れる。事代主をエビスと呼ぶようになったのは、いつ頃かは不明らしい。やがて、狩猟民や漁民も大和朝廷の下に組み込まれると、農耕文化へと移行していく...

3. 倭人の源流
稲作が弥生文化の基底をなしていることが、稲作がもともと日本にはなかったことを物語る。では、どこから渡来したのか?中国の最初の王朝は「夏(か)」とされる。夏人はもともと東南アジア系の人々で夷(い)と呼ばれたそうな。東南アジア系の原住民が河川を上って、、北の狩猟民や遊牧民と交易し商業都市を建設して、長江沿岸に多くの植民都市を作ったという。それが、やがて国家へ成長する。
さて、北方では夏が紀元前二千年頃から、次いで「殷」や「周」などの国家的結合が始まる。一方、揚子江の南は、なかなか国家が生まれず、紀元前5世紀になって、ようやく「呉」と「越」が生じる。紀元前4世紀頃になると、中国では稲作が中心になったという。
本書は、この越人に注目する。「魏志倭人伝」や「日本書紀」には、倭人は越人の一派であったことが記載されるそうな。やがて、越は呉を滅ぼし、江南の地に国家を形成。その勢力は、華南の海岸からベトナムにまで至る。そして、この時期と、日本に稲作が渡来した時期がちょうど重なるという。越人は、竜を崇拝し、入墨をし、米と魚を常食とする海洋民であることから、漢民族の系統とは違う。海洋民ともなれば、航海術にも長けていただろう。国家的な計画で一派が移住してきたのかは、分からないが。
また、中国に伝わる「旧唐書(くとうじょ)」の中の「日本国伝」には、日本国は倭国と別種であることが記されているそうな。唐の成立は618年だから、もっと古くから、聖徳太子の頃には既に日本国という呼び名があったと思われる。日本国という名は明らかに中国を意識していて、日の昇る方向という意味がある。邪馬台国のことを日本国と呼んでいたのか。
日本書紀には、奈良時代の人の眼で律令国家建設の過程を反省している記述があるという。しかも、律令国家の建設を主導した者が、縄文文化人たちの後裔でもなければ、稲作をもたらした者でもないようだという。それは、土蜘蛛(つちぐも)や国樔(くず)、あるいは海人(あま)などと呼ばれ、北方に住む者は蝦夷(えみし)と呼ばれている。このような連中が即座に団結して、統一的な国家を建設するのは、強力な外敵でもなければ説明がつかないようだ。そこで、倭人が渡来してきたという推定をしている。となると、九州に弥生文化の遺跡が多く見られるのは意味がありそうだ。九州の倭国と奈良の邪馬台国が勢力争いをしたという構図も見えてきそう。はたまた、平将門の乱の時代、海賊として瀬戸内海で暴れた藤原純友は、やはり九州と交流があり、海賊が西側に出現したのも造船技術があるからであろう。恐れられた毛利水軍もやはり西国であり、こうした伝統は、海洋民の倭人から受け継がれているという見方もできそうか...

4. 稲作の渡来ルート
稲作の渡来ルートは、華北の陸路から朝鮮半島を南下してもたらされたのではなく、中国沿岸の海路から朝鮮半島の南部をかすめて、もたらされたのではないかという。いまのところ朝鮮半島の北部では、この時代の稲作の痕跡が発見されていないのだそうな。朝鮮半島を経由して文化が渡来するようになったのは、漢が成立し、紀元前108年に中国の東北から朝鮮半島にかけて、楽浪(らくろう)、臨屯(りんとん)、玄菟(げんと)、真番(しんばん)の四郡を置いた頃からだという。この文化は青銅器をもたらす。稲作は、計画的な事業であり、まずは水田を開かなければならない。そのためには、指導教員や農具が必要で、鉄製の刃物や青銅器を求める。倭人と朝鮮半島との交流は、日本書紀にも数多く記録されているそうな。日本と朝鮮半島との間の交流は百済の時代まで続き、この頃までにかなりの倭人が朝鮮半島に移住したと推測されている。だが、百済は新羅に滅ぼされる。661年、斉明天皇は、百済支援のために自ら軍を率いて九州に出陣している。
百済を失えば、朝鮮半島への足がかりを失い、新たな交易ルートを模索せざるを得ない。この頃から、種子、屋久、奄美、度感(とこ = 徳之島)などの人々が日本政府の役人に従って、方物を貢納しているという。大陸と琉球の交流は、もっと古くからあったのだろう。琉球を経由して大陸に渡る航路は、気象条件などからも危険が多い。
また、「後漢書」の中の「倭伝」には、中国と耽羅(済州島)の間に交流があったことが記載されているという。江南から日本に渡来するのにも、済州島は大きな役割を果たしたようである。
尚、沖縄の城獄貝塚から明刀銭(めいとうせん)が出土されているそうな。朝鮮の全羅南道でも出土されているとか。明刀銭は、春秋戦国時代に斉の国で造られ、斉を中心に、趙、燕など北方の国で使用されたという。このことから、山東半島を中心に、揚子江付近から朝鮮半島付近に至る、黄海交通圏というものがあったと推測されるという。

5. 焼畑と秦氏の一族
畑作には焼畑という農法がある。焼畑は、多くの山の中腹から上の緩傾斜面で行われ、火山地方には山麓にも見られるという。その始まりは、木を焼き払うことによって、森林に潜む猪や鹿を野に追い出すためではないかという。たまたま焼き跡に生えたものが、食するのに適していたということか。その中に、ワラビがある。そうした経験から、焼き跡に一定の植物の種子を巻いたり、根菜を植えるようになったのではないかという。焼畑耕作を必要とする人々は、移動性が強いという。狩猟もその系列か。獣を追って、山から山へ。焼畑は、狩猟、採取の延長として発達してきたのではないかという。なるほど、作物の栽培後に土地を休閑し、移動しながら耕作していく点で、発想が似ていると言えば似ている。
焼畑耕作は、朝鮮半島、中国、台湾にも見られる現象だそうな。これは自然発生的なものなのか?いや、そうでもなさそうである。技術的には、水田耕作よりずっと前に、焼畑耕作や定畑耕作はあったと考えられる。
ところで、武蔵という国名は、ムサシと読む。サシは、朝鮮語で焼畑を意味するそうな。武蔵から甲斐にかけて、サシやサスという地名が多く、指、差の字を現れ、こういう所はたいてい焼畑をやっているという。
だが、朝鮮半島だけでなく、最も影響を受けたのは中国だという。中国の古代国家は、北方の黄河流域を中心に成立し、その生産基盤は畑作であったという。キビやアワの類いで、周や秦の時代に作られたものは、黍(モチキビ)、稷(ウルチキビ)、粟(アワ)などが多いとか。漢の時代になると、稲作が生産基盤となっていく。そして、畑作は、もともと秦人の技術ではないかという。
日本へ最初に渡って来た秦人は融通王とされ、日本書紀にも記述があるそうな。秦氏の一族は、中央政府に関与することが薄く、早くから地方に散在し、生産に携わっていたのではないかという。よそ者ということで、豪族たちにこき使われていたのか?秦人は、6世紀中頃には、全国に7000戸を超える分布があるという。当時、1戸当たり15人は居たというから、10万人を超える計算か。中には、秦人で占めた村もあるとか。秦の一族は、高い生産技術を持っていて、地域の生産リーダのような存在だったという。それを物語るものが、平城宮跡から発掘された木簡にあるそうな。貢納物の荷札に品目、数量、代表者名が記載され、そこには畑作の作物と秦の性名が多く見られ、伊豆、尾張、近江、若狭、丹波、紀伊、播磨、備前、阿波、讃岐などに渡っているとか。秦は、ハタとも読む。また、全国には、幡、幡多、幡田、八田、八幡などの地名をよく見かける。古事記や日本書紀でも、秦をハタと読んでいるとか。陸田もハタと読むそうな。

6. 赤飯文化の渡来
ペリー来航に同行したジェームズ・モロー博士は、琉球を訪れ、米作りをかなり詳しく記したそうな。そこには、赤米のことも記され、唐の時代に渡来したのではないかという。日本で赤米が多く作られるのは、鹿児島県、熊本県、宮崎県の南部、高知県などで、南西九州に集中しているという。吉事に小豆(あずき)を入れた赤飯を食べるのも、赤米が起源であろうか?赤米のことを大唐米とも呼ぶ。祝事に赤が用いられるのは唐の影響なのかもれいない。遣唐使が南島路をとるようになったのも関係がありそうか...

7. 太平洋の小さな島々
キャプテン・クックが太平洋の島々を探検した時、人喰いの習俗を持つ島のことが伝えられるという。人間は飢えれば、なんでもする。小さな島では、人口が増えれば生活が苦しくなり、調節を余儀なくされる。男女のバランスが崩れるのも、存続の危機となる。食糧危機ともなれば、島脱出も試みるだろうし、島外との交流を強く求めるだろう。となれば、ミクロネシアなどからの移住も十分に考えられる。あてすっぽで海を渡る勇気があったのかは知らんが、存亡の危機ともなれば、そんなこと言ってられないだろうし、ちょっとでも良い噂を聞きつければ、あるいは迷信や占いに頼って、新天地を求めたであろう。

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