2014-03-02

"精神分析学入門(I/II)" Sigmund Freud 著

精神科医ジークムント・フロイトは、第一次大戦下でシェルショックが社会問題となった時代を生きた。現在では、戦闘ストレス反応(combat stress reaction)と呼ばれる。塹壕で手足を失い、化学兵器で目や耳や顔面を失い、アメリカ赤十字社によって作られたパリのアトリエには、傷を隠すための義肢やマスクが作られ数多くの人が訪れた。
フロイトは、従来の催眠術から決別し精神分析療法を確立する。本書は、1915 - 16年と、1916 - 17年の冬学期の二期に分けて行われた講義記録である。ただ、「精神分析学」と題しておきながら、精神病という言葉が数えるほどしか見当たらない。精神分析というと、素人感覚では心理学と結びつけてしまうのだが、どうやら鬱病や躁病の類いとは違うようである。
「ノイローゼ論は精神分析そのものなのです。」
神経症(ノイローゼ)と心身症の違いも微妙に見えるが、ここで扱われる題材が心の病であることは間違いなさそうである。まぁ、分類や定義は専門家に任せるとして、重要なのは治療法としての心の接し方であろう。
注目したいのは、自由連想や夢判断の観点から無意識を徹底的に扱っている点と、エゴイズムよりもナルシシズムを重視しながら、心的エネルギーの本質を性的欲動に求めている点である。この本能的エネルギーを「リビド(Libido)」と呼んでいる。対して、死への欲動を「タナトス(Thanatos)」と呼ぶらしい。生への活力は性欲より発するというわけか。暗示にかかりやすい酔っ払いは、さっそく夜の社交場へ繰り出すのであった...

さて、自我は意識されたものであろうか?いくら自由意志があると信じても、人体活動のほとんどは無意識の領域にある。呼吸を意識的に止めることはできても、心臓は止められない。精神活動では、気分をある程度誘導することはできても、決定的な集中力や思考力は気まぐれに委ねられる。突然アイデアが浮かぶかと思えば、突然ヤル気が失せたりと、思い通りにならない自我にうんざり。夢の中まで攻め倒さないと、思考ってやつはなかなか言うことをきいてくれない。自由意志の本性は、意識の側よりも無意識の側に比重が大きいような気がする。
「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない。」
普段、間違えようのない作業でも、しくじることがある。冷静に振り返ると、魔が差したり、平常心でなかったり。そんな時、ちょいと言葉に耳を傾け、相槌をするだけでも、心を落ち着かせることができる。自由に言葉を発する機会を与えれば、治療の糸口が見えることもあろう。夢には潜在意識が詰まっている。犯罪科学には、催眠術を利用して記憶を蘇らせる方法もある。自由連想によって精神を解放すれば、潜在意識を顕在化することもできるかもしれない。
しかしながら、無意識な領域を意識するとは、既に自己矛盾を孕んでおり、かなり危険を伴うであろう。自己の防衛本能が、苦い体験を心の奥底に押し込めることもある。あまりにも衝撃的な事故を体験すれば、その前後の記憶が失われるとも聞く。無意識が防衛本能の領域にあれば、それを意識した途端に無防備を覚悟せねばなるまい。精神の内に健全な悟性が最後の判決を下す法廷として認められるならば、大した問題にはならないのかも。
しかし、ノイローゼ患者となると、どうであろうか?知らない方が幸せってこともある。正しい判断が下されない状態では、人は皆ノイローゼということになろうか。とはいえ、どんなに優れた知識を身につけても、やはり判断を誤るではないか。せめてノイローゼ状態を自覚できる者の方が、自我を知る機会が得られ、救われるのではないか。精神の限界に挑む芸術家は、常に精神病の境界をさまよっていることになる。人間には、プライドという奇妙な意識がある。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、愚かな自分をけして認めようとはしない。知らない方が幸せだと潜在的に知っているのかもしれん。これは俺の真の姿じゃねぇ!と。プライドに縋って生きれば、プライドが崩れた途端にズタズタになる。人を気にし、世間を気にするようなプライドは、見栄っ張りから意地っ張りへと変貌させる。所詮人間ってやつは、何を拠り所に生きるか?どこに居場所を求めるか?それを探しながら生きているだけの存在。それがはっきりと見えなければ、自らどこかの神経系を遮断せずにはいられない。これがノイローゼの正体だとすれば、ノイローゼを患っていない人間などどこにいるというのか...

1. 夢学
夢占いの類いは古代から伝えられる。英雄誕生伝説で予知夢が伝えられたり、一富士二鷹三茄子が縁起の良い夢とされたり。人間は夢現象を、何かの象徴や予兆にしたがる。それは、未来への不安から生じるのだろう。予知夢が未来願望から生じるとすれば、デジャブのような心理現象は過去への回帰願望であろうか?望郷の念は、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるのかもしれん。
フロイトは、夢そのものがノイローゼ的な症状だという。
「抑圧された無意識が自我からある程度の独立を獲得した結果として、たとえ自我に依存する対象配備が睡眠に都合のよいようにすべて停止されたとしても、無意識が、睡眠願望には服さずその配置をつづけるものと仮定しなければ、夢の成立を説明することができません。」
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは、なんらかの心的現象をともなう。眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りの妨げか?はたまた、熟睡を求めるのは、死への憧れか?
いずれにせよ、夢という現象には何らかの意味が隠されているのだろうが、理解不能なほど多義的だ。夢ってやつは見ている間は妙にリアリティがあって、絶対にありえないシチュエーションなのに、意図も簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになっていたり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場させたり、まったく支離滅裂!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。矛盾だらけのシチュエーションに何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別物ということにしないと説明がつかない。となると、今見ている現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか?まぁ、夢だと信じたところで、同じくらい現実である可能性もあるわけだ。精神そのものが不確実性に満ちているのだから、夢も、現実も、そうなる運命なのかもしれん。もはや、夢の内容を解釈しようなんて絶望的に思える。フロイトも、夢の内容を解釈しようとするのではなく、夢を見る心理状態に着目すべきだと語っている。
「ある心的過程の意識性または無意識性とはその心的過程の一つの属性にすぎず、必ずしも一義的にとらえうる明確な属性ではないと断言することです。」
睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で第三者が嫌な事を囁けば、うなされかねない。夢現象を神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できそうか。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話だ。それどころか、誰もが洗脳状態にあり、人間社会そのものが洗脳しあわなければ成り立たない世界なのかもしれん...

2. ノイローゼ論
ノイローゼは、オーストリアの生理学者ヨーゼフ・ブロイアーが発見したものだそうな。ヒステリー患者をうまく治癒させたことが発見のきっかけになったとか。彼は、フロイトの共同研究者でもあったが、後に性愛の問題に絡んで決別したらしい。
尚、フランスの精神科医ピエール・ジャネも、同じようなことを証明し、文献ではジャネが先んじているという。偉業は、下地を固めてきた無名の研究者たちの努力の上に成り立ち、その過程で、たまたま名声を得る者がいる。どんな発見も一遍に成し遂げられるものはなく、必ずしも功績が元の発見者に帰するものではない。しかし、そういう研究事情を知りながら、現在でもなお経済的な成功者ばかりが脚光を浴びる。人間には、目の前の現象しか見ようとしない傾向がある。これも、ある種のノイローゼ状態であろうか...
さて、誰だって不安や恐怖を感じるだろうし、その感じ方にも個人差がある。不安や恐怖から逃れるために、妙に怒りっぽくなったり、攻撃的になったりする。強迫観念が神経症レベルにまで高められると、自分とはまったく関係のない考えに囚われ、なんの縁もない衝動に駆られ、しかも、そんな事を実行したところでなんの満足も得られないというのに、どうしてもやらずにはいられない。そこに、集団意識が加われば、社交恐怖、広場恐怖、SNS恐怖となって襲ってくる。そもそも社会や共同体には、個人の欲動を犠牲にする側面がある。だからといって、騒がしい世間に対抗して心を閉ざせば、自ら不決断や無気力を呼び込んでしまう。やがて重大犯罪を犯す誘惑に憑かれたり、神の言葉を実行するといった幻覚が見えたりする。ぞっとした衝動から身を守るためには、自由を放棄するしかない。ノイローゼとは、自由と束縛を極端に自己完結させようとする自我の魂胆であろうか?
強迫ノイローゼの患者は、もともとはエネルギッシュな性格の人で、異常に自我執着が強いことが多く、人並み外れて豊かな知的天分を持っているのが通例だという。たいていは高い道徳水準にまで達し、良心的過ぎて几帳面であると。ノイローゼが性格の特質との矛盾から生じるとすれば、下手に自覚できる能力があるが故に患うということであろうか。ならば、自己矛盾を素直に受け入れ、自己が狂人であることを受け入れるしかないではないか。世間が狂っているならば、馬鹿にされるぐらいでちょうどいい...

3. リビド論
フロイトが人間の最も原始的な動機に、性的欲動を位置づけたのは、第一次大戦という時代背景があるように思える。つまり、大量の死骸を目の当たりにすることによって、遺伝子保存の危機を本能的に感じるということである。... と解するのは行き過ぎであろうか?
人の本性は、極限状態に露わになる。性愛には奇妙な現象があり、自己愛を強調しすぎるために自虐的になることすらある。好きな人にわざと意地悪をしたり、自ら悲劇のヒーローを演じたり。愛欲には、拒否される願望もある。おまけに、障害が大きいほど燃え上がり、成就した途端に冷める。健康的で陽気な人物像はドラマの主人公になりにくい。どこか陰りのある過去を持ち、何かに必死に耐えて生きているような人物に惹かれるもの。健康で完璧な人間を眺めても退屈するだけだ。そこで、自我ってやつがシナリオをでっち上げ、ナルシストを演じさせるという寸法よ。
人間は、快楽動物であろうとすることを蔑み、知的動物であろうとする。だが実際には、快楽を締め出すことはできず、建て前と本音を巧みに使い分ける。羞恥を軽蔑すれば、自我を攻撃し、自我を攻撃できなければ、他人を攻撃する。結局、羞恥のはけ口を求めているだけなのかもしれん。自我が空想を膨らませていくのは、リビドの責任転嫁の結果であろうか?
尚、リビドが空想に逆戻りする症状を、ユングは「内向」と名付けたそうな。内向者は、まだノイローゼではないが、極めて不安定な状態にあるという。リビドが常に別のはけ口を求め、少しでも心の均衡が破れると、すぐに症状に現れるような。だが、一旦ノイローゼに陥ると、心の均衡どころか、現実と空想すら区別できない。リビドが現実で満足が得られないと知るや、内向と結びついて地獄へまっしぐら。これがノイローゼというものであろうか...
ところで、よく少子化問題の議論で、人間は生殖機能が基本であるから、子供を作るのは当然だといったことを言う人がいる。生物学的には、生物には遺伝子を残すという役割もあろうが、地球の表面積に対して保存本能が数の調整を試みるかもしれない。無知性で無理性なアル中ハイマーの遺伝子を残すことは世のためにならんだろうし。
では、心理学的にはどうであろうか?生殖機能だけではキスや自慰行為は説明がつかないし、もはや愛撫も前戯もピロートークも無用となろう。チラリズムなんて嗜好はどこからくるのだろうか?エロティズムは性欲から生じるだけでなく、芸術の領域にも官能性はある。性の世界においては、生殖目的よりも愛欲や快楽の方が優勢なようである。性欲に任せて繁殖を続ける方が社会を崩壊させるだろうし、性欲、食欲、金銭欲、権力欲、名声欲... といったものが自制できるから、人間社会は成り立つのであろう。
一方で、性欲が仕事の活力となっているところがある。「英雄色を好む」説は本当かもしれない。出世とホルモンが関連するという研究報告もあるし、職場での情事は燃えると聞く。だが、仕事ができるから収入も増えるのであって、「金の切れ目が縁の切れ目」説の方を支持したい。性欲の解放は、理性と反するように言われるだけにタブー化されやすく、多くの場合、猥褻や破廉恥で片付けられる。
しかし、これ以上、人間本性的なものがあろうか。性的な話題で照れるのも、本性を隠したいだけかもしれない。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族は純粋な平等主義者となろう。おっと、性欲論を語り始めると、独り善がり論へ吸い込まれる。これもノイローゼというものであろうか...

4. 感情転移
医師への信頼が、異性への愛に変化するなどは普通に生じるという。どんなに年老いても。若い女性患者と年配の医師の間で、娘として可愛がられたいといったこともあるそうな。医師は複数の患者を抱えているので、嫉妬が生じる。そりゃ!男性諸君は美しい女医に憧れるだろう。
さて、感情転移が、治療の大きな原動力になりうるという。感情転移には、陽性と陰性があるらしい。医師との間で共同に営まれれば、陽性となって信頼という権威を持つことに。だが、陰性となれば、抵抗して言葉に耳をかすこともないという。愛情が、敵対心に変貌するのも紙一重ってか。愛が深いほど憎しみもひとしお、決着をつけるものもは患者の知的な洞察ではないようだ。知的な洞察は、むしろ邪魔になるという。信頼とは愛から生じるもので、論証といった知的な部分ではないということか。信頼を無条件の愛に転嫁するということか。既に、論理的に思考できるような精神状態ではないのだろう。そうなると、医学よりも宗教の方が救えるかもしれん。
しかしながら、こうした心理的療法はナルシシズム的ノイローゼには通用しないという。ナルシシズム的ノイローゼは、感情転移の能力がないか、あっても不十分だとか。彼らが医師を拒むのは、敵意からではなく無関心のためで、しかも、感化も受けないという。プライドが高く、常に自力で立ち直ろうとするだけにタチが悪い。自我を増幅させた頑固さには、精神分析療法も無力だとか...

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

「暗示にかかりやすい酔っ払いは、さっそく夜の社交場へ繰り出すのであった...」

「繰り出す」という言葉は、大勢そろって出かけるといった複数で行動を起こす時に用いられるのではないでしょうか?
... との御指摘を頂きました。なるほど、そうかもしれません。
そもそも日本語には、単数形と複数形を曖昧にするところがあります。慣習的に、みんなで一緒に行動するというのが前提にあるのかもしれません。まぁ、お堅いことはおいといて...

しかしながら、、自我が単数だとどうして言い切れましょう。現実も、夢も、区別がつかなかれば、そこにパラレルワールドがあるかもしれません。だからこそ、どこぞの店で見かけたよ!などと言われても、それは俺じゃない!と自信満々に言い張ることもできるのですよ。そもそも、肉体と魂を一体とするところに人間の矛盾があるのかもしれません。
ちなみに、パラレルワールドを時系列で整理した状態を、「はしごする」と言うそうな。ゴージャスな夢の脇で貧相な現実が、白々しく愛想笑いを浮かべてやがるぜ!

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