2014-04-20

"功利主義論集" John Stuart Mill 著

功利主義という用語は、掴みどころがなく手強い。古くから道徳哲学を信奉する人々に批判されてきたのも、ジェレミ・ベンサムの唱えた最大幸福原理が、快楽の総和として計算されるからである。いわば、GDPのような経済指数として。現在でも、経済人の価値観に偏っていると叩かれる一方で、その批判者たちもまた客観性を欠くと反撃を食らう。この用語を曖昧にしているのは、正義と幸福の観念を支柱にしているからであろう。人間社会はこの二つの観念なくしては成り立たず、共通の合言葉として君臨している。
しかしながら、厄介なことに、正義にしても、幸福にしても、個人によって求めるものが違う。人間は本性的に利己的で、この性質を完全に排除しようとすれば、今度は別の本性が暴走を始める。多様性もまた人間本性的で、これを軽視すると、正義の観念は、すぐさま宣伝やバフォーマンスの類いで扇動され、幸福の観念は、幸福の使者を自負する者によって有難迷惑を撒き散らす。
人間の本性の一部を、単純に悪だと片付けて抹殺すれば、そこに残されるのは人間なのであろうか?功利性にしても、正義にしても、道徳にしても... こうした用語は、真の自由人にとっては強力な武器となろうが、群衆心理や自己欲望に隷属する俗人には危険な道具となる。自由人ってやつは、真理の探求という険しい道ですら、快楽の美酒に変えてしまうようである。本書は、まさに高次の快楽とは何かを問うている。
「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。」

功利主義が唱えられたのは18世紀頃、最初はペイリーらによって神学的功利主義として提示され、後にベンサムやミルらによって理論体系化がなされた。
しかしながら、功利主義的な発想は、既に古代ギリシア哲学に見つけることができる。プラトンは著書「国家」の中で、政治の役割は国家全体ができるだけ幸福になるよう仕向けることだとし、アリストテレスは著書「政治学」の中で、私有財産の観点から政治算術のような考え方を匂わせている。ミルは、こうした古代哲学に立ち返ってベンサム主義と一線を画し、改良した功利主義を唱えている。
本書の特徴は、ミルの思考過程を辿るかのように論説集が組み立てられていることにある。まずセジウィックの論説を批判し、次にベンサムの功利主義を語り、ヒューウェルの道徳哲学を批判した後に、ミルが再構築した功利主義を論じている。ベンサムへの批判は、だいたいにおいて道徳感情や倫理観が欠けているというもの。確かに、功利性ってやつは、経済的な損得勘定や利害関係と相性がよさそうに映る。ミルも、ベンサムの人間観察が浅はかであることを指摘している。快楽の所在についてはあまり論じていないと。ベンサムは、人間の道徳判断が結局は利己的であり、道徳感情にあまり期待しないという立場のようである。それでも、ミルは積極的な評価を与えている。宗教的な道徳感情の強い時代に、科学的な観点からの思考習慣を政治学に取り入れたとして。そして、ベンサム主義を足がかりに、人間の多様な価値観を認めつつ、多面的な功利主義を構築しようと試みる。
「徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきものである。」

ところで、建設的な批判とは、こういうものを言うのであろうか...
ミルは、相手の主張を否定するのではなく、うまくいなしている感がある。批判的論争ってやつは、互いに言葉の揚げ足をとり、本質的な問答から乖離して泥沼化しやすく、聴衆者はどちらにも加担したくない、といった構図になりがちである。
「すでに社会的感情を発達させている人は、自分以外の同胞を幸福の手段をめぐって相争う競争相手と考えたり、自らの目的を達成するために同胞たちの目的が挫折するのを望んだりすることはありえない。」
例えば、キリスト教の根源的な営みにしても、多様性に満ちている。ローマ教会に頼らず独自に修正したキリスト教を唱える者もいれば、神の定義を宇宙法則に求めるようなキリスト教徒もいる。そもそも宗教原理ってやつは、寛容性を伴うから救われるのであろうに...
「キリスト教を批判する人がその真理や好ましい傾向をイエズス会士あるいはシェーカー教徒が抱いている見解に基づいて判断するとしたら、その批判者はどのように思われるだろうか。」
批判や議論のあり方とて、同じようなもの。どんなに優れた哲学書でも、まったく隙のない記述などありえようか。すべての状況を想定して記述することが不可能となれば、偉人の残した書は言葉足らずに欠席裁判を強いられる宿命を背負う。後出しジャンケンの餌食よ!そして、不合理な批判が別種の不合理な批判を呼び、批判の堂々巡りを始める。人間ってやつは、なにかと揉め事がお好き!人生とは、よほど退屈なものらしい...
「ロックが用いなければならなかった以外の議論が彼の結論のいくつかを立証するために不可欠であるという理由で彼を攻撃することは、証験論を書かなかったという理由で福音主義者を非難するようなものである。問題は、ロックがどのようなことを述べていたかではなく、彼が現在に至るまでの自分に対する反論すべてを聞いたとしたらどのようなことを述べるかということである。」

1. セジウィックの論説
地質学者で聖職者でもあるアダム・セジウィックは、直観主義の立場からジョン・ロックの経験論と、ウィリアム・ペイリーの神学的功利主義を批判したそうな。セジウィックは、正義をなすための道徳判断を下す能力、いわば道徳感情は生得的であると唱え、道徳感情を経験的とすれば、計算高い思惑と結びつくとしているらしい。
だからといって、直観的な道徳感情を、神聖視するのは行き過ぎであろう。確かに、閃きやア・プリオリな認識を与えてくれる直観は、偉大である。おいらには、気まぐれこそ崇高な精神に映る。しかし、その直観から生じた観念を、科学的、論理的に検証してこそ、より確信へと導くことができよう。ミルは、なにも直観的思考を批判しているわけではない。なによりも芸術心が拠り所にする思考法であることは、誰もが認めるところである。本書は、不可解な先天的能力を学術的に説明できるまで理解し、後天的能力として道徳観念を導くべきだとしている。直観学派に対して、功利主義を帰納学派としているところにも、その意識が見える。

2. ヒューウェルの道徳哲学
ウィリアム・ヒューウェルは、セジウィックと似た立場で、直観主義的な立場からベンサムを批判したそうな。ミルは、残念ながらイングランドの大学は、正統とされる思想以外は受け入れない宗教的組織だと指摘している。真理よりも、宗教、保守主義、平和といったものが重要視されると。言うまでもなく、後ろ盾はイングランド国教会であるが、その傾向がヒューウェルの哲学思想にも顕れているらしい。キリスト教に限らず、宗教的な道徳観念では、苦痛を美徳とする傾向がある。それは、精神修行や苦行といった形に顕れる。逆に言えば、快楽は悪徳の象徴とされる。ミルは、ヒューウェルが功利主義を利己主義と取り違えていると指摘している。
ベンサム主義の原理では、快を増大させ、苦痛を予防することが、道徳への道と考える。それゆえに、快を悪とする主張に対して、すべて反対者と見なす。宗教的禁欲主義とは、まさにこの類いであろう。宗教的道徳観では、苦痛こそ追求するもので快は避けるものと考え、自虐行為ですら賞賛する。そのために報酬や将来の恩恵を期待したりはしないかと言えば、そうでもない。ベンサムは、こうした考えを一般化して禁欲主義としているそうな。ベンサム主義者は盲目的に忠誠を誓ったりはしないという。
だが現実社会は、宗教思想や会社組織の創始者というだけで崇められる。その功績や考え方を理解するのではなく、人物を盲目的に崇め、いわば神格化させてしまう。批判する側もまた盲目的に人物を攻撃する。ベンサムは、このような流動的な見識に、道徳の基礎を置いたのではないという。最大多数の最大幸福とは、普遍的価値観を前提にしているのであって、単純な多数決に委ねたわけではないということか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、正義がなんであるかを説明できず、感覚で正義を押し付け、義務がなんであるかを説明できず、感覚で義務を押し付ける。彼らは、直感を直観へ昇華させることができないでいる。有徳者や有識者ですらこんな有り様なのに、酔いどれごときがどうして理性なんぞ理解できようか...

3. ベンサム主義
ベンサムの格言にこういうものがあるそうな。
「すべての人が一人として数えられ、誰も一人以上として数えられない。」
多数決の原理は民主主義と相性が良さそうに映るが、そこには落とし穴がある。実際、多数決を民主主義の象徴として崇める政治屋は多い。そのために多数派工作に余年がなく、選挙屋になりさがる。正義ってやつは、道徳を基準として実践されるわけではない。法と道徳は一致すべきなのだろうが、現実にそうなっていない。幸福にしても道徳観念から構築されるべきなのだろうが、道徳観念もまた普遍性に達していない。人類は、いまだ善悪すらきちんと規定できないでいる。正義がこれほど脆弱にもかかわらず、政治屋どもは堂々と正義を主張する。なんと厚かましいことか。
デヴィット・ヒュームの言葉に、こんなものがあるそうな。
「世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる!」
正義や幸福や道徳という用語は、心地よく響くだけに、民衆を欺瞞する道具とされる。義務という用語も怪しい。自分で判断できず、ただ組織の命令に従うことが義務なのか?義務の正体をきちんと説明できずに、義務が果たせるのか?そして、権利とは、義務をともなうもののはずだが。平等という用語も危険である。公平とは似ても似つかぬ。ベンサムの唱える個人目的にしても、少々経済的動機が優勢のようである。
「最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが前提に置いたのはこのことだけである。」

4. 功利主義
功利主義とは、功利性を究極的な価値の原理とする理論であるという。倫理的な観点では、正義は善悪という道徳基準によって決定されるとし、社会的な観点では、個人の功利性に結びついた社会的功利性の向上が社会目的とされる。本書は、その特徴を四つ挙げている。
  • 帰結主義... 正義は結果的に社会的な善で規定される。結果主義とも言えそうか。
  • 福利主義... 共同体全体の幸福を考慮する。
  • 総和主義... 人員に優劣をつけることがなく、全体幸福量の総和を志向する公平性。
  • 最大化主義... 幸福の総量を最大化するとは、まさに経済原理か。
ミルの主張する功利主義には、道徳権利が前提される。しかしながら、多様な価値観を総合的に解決するには、最低基準を規定する方が実践的であろう。これが、基本的人権というものであろうか。法律の役割にしても、正義をなすことではなく、なるべく不正義をなさないようにする。推定無罪にも、功利性が働いていると言えよう。
... などと言えば、なんとも消極的な動機にも映る。神に縋るのと大して変わらないような。しかし、真の自由人は、法律や神も、理性や道徳も、意識せずとも自然に振る舞い、自然に義務を果たせるのであろう。逆説的ではあるが、高次な快楽を求めるには、最低限の規定を与えるだけで、なるべく自由の余地を与えた方がいい、とすれば積極的な動機となろうか。
「人生における個人的な楽しみを放棄することによって世界の幸福の総量を増大させることができるとき、楽しみを自ら放棄することのできる人々は本当に賞賛されるべき人々である。しかし、何らかの他の目的のためにそうしていたり、他の目的のためにそうしていると公言したりしている人は、自分が念頭においているような禁欲主義者と同じ程度にしか賞賛に値しない。」
功利主義を端的に言えば... 一般的な価値観の基準では最低限の道徳性を規定することぐらいしかできない、そして、社会全体では高次の快楽を求めるように意識を向けることで集団的な利益をもたらす... といったところであろうか...

0 コメント:

コメントを投稿