2014-04-27

"政治論集" David Hume 著

啓蒙時代の哲学書に触れると、デイヴィッド・ヒュームの名をよく見かける。彼の主著「人間本性論」はなかなか手強そうだ。入門書として「政治論集」と呼ばれるエッセイ集で、お茶を濁してみよう...

ヒュームの立場は、共和主義的な自由主義に立脚している点ではありふれた思想にも映る。ただ注目したいのは、アダム・スミスに先んじて経済原理から自由主義を唱えている点である。古典的な共和主義では、宗教的な道徳感情に支配され、商業的な欲望を悪習と見做す禁欲主義が旺盛であった。自由の基盤には、土地が中心に据えられてきた。言い換えれば、自己存在を確認できる場所を中心にした考え方である。ヒュームは、まず土地への執着に疑問を投げかける。そして、商業的な欲望と禁欲的な欲望の差異に対して、人間本性から迫ろうとする。商業活動は、自由精神とすこぶる相性がいい。土地への従属精神は、商業活動によって解放されてきたとも言えそうか。
しかしながら、土地依存症は、人間社会の発達とともに組織依存症から情報依存症へと変化してきた。自己存在の確認できる場所もまた仮想空間へと移行する。精神現象そのものが幻覚なのだから問題ないってか。俗世間の泥酔者には、仮想と幻想の違いがとんと分からん...

当時の政治の理想像では、トマス・モアのユートピアが思い描かれるようである。ヒューマニズムを信奉する点では、時代的差異をほとんど感じない。ただ、労働を奨励しておきながら富を憎む思考回路は、マルクス主義に通ずるものがある。労働に励めば生産物を潤し、商業活動が盛んになり、富が増大するのも道理であろうに...
ヒュームは、商業を強欲と結びつけて断罪する社会風潮に、我慢ならないようである。彼は、そんな時代にあって経済的自由主義を大胆に提唱する。そして、富と徳は本当に両立できないのか?と問いかける。伝統的な道徳観念では、奢侈を怠惰の代名詞とし、快楽を悪徳としてきた。だが、勤勉によって富が獲得されるのも事実。貧困のために書物も買えないようでは、知識を得る機会までも奪われる。勤勉を放棄した道徳的堕落と、自由活動に執着した欲望的堕落は、どちらも人間の本性だ。富を欲することも、権力を欲することも、名誉を欲することも欲望ならば、健康を欲することも、愛することもまた欲望、抑制することも、禁欲もこれすべて欲望なのである。欲望は人間の本性であって、その一部を抹殺すれば、精神のバランスを欠き、他の本性を剥き出しにする。歴史を振り返れば、修道士ですら征服者同様、残虐行為に及んできたではないか。幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり人間は冷酷になるようである。
「人びとが快楽に関して洗練の度をまぜばますほど、どんな種類の快楽にも過度に耽ることはますます少なくなる。」

本書は、商業、貨幣、利子、貿易差額などに関する論説において、哲学者と政治家の役割を語る。資本と労働の生産利用という経済原理の確立では、スミスに譲ることになるのだが...
ヒューム以前の政治学は、経済問題を軽視してきた。重商主義は、空虚な理想主義への反発から生じたとも言えそうか。オランダは、ヨーロッパのどの国よりも先んじて、商業共和国を謳歌した。やがてイギリスが追い越し、自由主義との結びつきから、商業ヒューマニズムを形成することになる。欧米式資本主義は、契約の原理に支えられている。ひいては、神との契約であり、そこに帳簿の正当性を与える。実践的には商法の進化であり、法律が商業活動の後ろ盾となる。民衆の商業活動が、法律を庶民化させてきたという見方もできるかもしれない。
とはいえ、宗教的政治による既得権益を、自由主義的商業が解放したとしても、やはり不正は蔓延る。そればかりか、過度の経済活動がしばしば災いをもたらし、極度の貿易不均衡が戦争の火種となってきた。公債や金融は有益な公共財ではあるが、度を越して用いれば経済危機を招く。いまや、信用経済は国家の枠組みを越え、手に負えない怪物となった。
ヒュームの視点には、商業と自由の結びつき、あるいは平和を前提とした産業がある。そして、強欲を克服し、自由を制御し、平和で安定した社会を築くにはどうすればいいか?これを問うている。頼みとするものは知性と徳性であろう。だが、いまだ人類は強欲を克服できないでいる。金銭欲とは不思議なもので、金持ちほど旺盛になるらしい。権力欲とて同じようだ。政治家になるべき者ほど自ら資格を疑い、自分の道徳に自信満々な者ほど目立ちたがる。これが政治の世界というものか。哲学者が統治する国家を理想像とするのは、やはり夢想ではなかろうか?プラトン君!

1. 政治の世界
ヒュームは、人間本性的に政治論、経済原理、人口論を語ってくれる。それは、利害関係を楯にした嫉妬の力学とでもしておこうか。嫉妬、憎悪、競争心、見返り... こういった思惑が本音を建前で偽装する。ナショナリズムは感情論と結びつきやすいだけに仮想敵国をでっちあげ、かたや経済や文化が繁栄すれば、流言蜚語の類いから陰謀や罠まで仕掛ける。平和に寄与する経済交流や文化交流に励む人々にとっては、はなはだ迷惑であろう。
そもそも、国連という世界規模の同盟が存在すれば、わざわざ国別に友好関係を斡旋する必要があるのか?いかに国連が独立権限を持たず、各国の思惑が絡み、本来の機能を果たしていないかという証でもあろう。本来の政治活動とは、人類の普遍的価値を求めるための集団的行動とならなければならないはず。それとも、政治とは、人間の醜態を曝け出すためにあるというのか?いわば、理性の捌け口として。なるほど、理性のない者に理性の捌け口はいらない。法律の限界実験をしながら、自分の理性の限界を試しているとでも言うのか?陰謀が渦巻くところに、必ず政治力が働く。政治力や権力のないところに陰謀は成り立つまい。
「浅薄な思想の人間は誰も、健全な知性の持ち主までも、思想家、形而上学者、改良家だと非難しがちであって、自分の弱い理解力が及ばないことは何であれ正しいとは認めたがらない。」
政治が、慢性的に矛盾を抱えるのは、強欲が絡み合うからなのか?確かに、政治には大義が必要である。だが、政治家どもの理屈では、野心と志を混同させ、国家の面子よりも政治家の面子が優先されるではないか。おまけに、人を貶め、蔑むことに懸命で、公の場ではパフォーマンスで勝つことに懸命だ。ヒュームは、政治が突発性や偶然性、あるいは少数の人間の気まぐれに依存してはならないと語る。そして、嫉妬の競争原理を、建設的な競争原理へ向かわせる術を模索するものの... やはり、毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかないのではないかい!
「すべての人間のうちで、政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力をもたなければ、これほど滑稽なものもない。」

2. 自由と公信用
人間社会には、生まれるとすぐに強制的にどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人間は、生まれる地を自由に選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人間はまず不自由を体験することになる。だから、本能的に自由に憧れるのかは知らん。おまけに、無条件に租税の義務までも背負わされる。こうしたシステムが機能するのは、ひたすら慣習が支えているからであろう。人間には、本性的に当たり前という感覚に慣らされる性質がある。本書は、こうした性質に「公信用」という語を当てる。
犯罪を見れば、警察に知らせるという性質が、自動的に治安システムとして機能させる。だが、公信用が崩壊すると、国家は成り立たない。私有財産を守る権利が維持されない社会に、信用など担保できない。すべてを自己責任に委ねれば無法地帯となろうし、すべての判断を世論に委ねれば法治国家を放棄することになろう。自己責任と公信用の按配こそが、社会を維持させるというわけか。慣習の力、恐るべし!
となれば、いくら自由を唱えたところで制限されることになる。自由精神の本質は、自らの自由をいかに抑制できるかにかかっているのかもしれん。人間社会には、哲学的、思弁的な原理体系が必要であろうが、民衆は思弁的な点では極めて粗雑となりがち。空気を大切にする社会は空気に呑まれやすく、村八分社会では哲学することも難しい。
一方で、自分の利益を放棄してまで、他人の意思のままになろうとする人も少ない。主権者に正義の保護が前提されなければ、義務を課すこともできない。人間は何らかの代償がないと動かないというのか。その代償が、正義と結びつくかは別にして。なるほど、神に対してですら見返りを求めてやがる...
「貧しい農民や職人が自分の国を離れる自由な選択権があると、まじめに主張できるであろうか?外国の言葉も生活様式も知らず、稼いだわずかな賃金でその日暮らしをしているのだから。ある人が眠っているあいだに船に乗せられ、船から離れようとする瞬間に、大洋に落ちて死んでしまうにもかかわらず、船内に留まっていることによって、その人が船長の支配に自由な同意を与えているのだ、と主張するのと同然であろう。」

3. 民主主義の本性
民主主義には、議会を支配すれば都市を乗っ取ることだってできるという危険がある。ある地方議会を、圧倒的過半数で占拠すれば、外国から動員された移住者によって現地人の発言を沈黙させ、部分的に別の国家に組み込むことだってできる。また、偽装貨幣の鋳造が、貨幣量を増大させることによってインフレを引き起こし、ライバル国の経済を転覆させようとする目論みも、よく機能する。古来、このような政治的な陰謀がしばしば実施されてきた。
現在ですら、ライバル国を蹴落とすことによって自国の安泰を図るという思惑は、当たり前のように実行される。政治は正義などという心地よいもので支えられているのではなく、政治家たちの集団的動物性によって支えられている。だから、いつの時代も、政治不要説ならぬ政治家不要説がくすぶるのか。あるいは、自己の幸福を確保するためには他人の犠牲が必要だという人間の本能が、そうさせるのか。政治現象とは、突き詰めれば、自己存在、ひいては自己愛の強調なのであろう。その具体的な解決手段が、暴力か話し合いかの違いぐらいなもの。この違いが大きいのも事実だけど...
クセノフォンは、「ソクラテスの饗宴」の中で、アテナイの民衆の暴政をごく自然に叙述しているという。
「かつて富をもっていたときよりも、貧乏な現在のほうが私ははるかに幸福である。それはちょうど恐怖よりも安心な状態にあるほうが、奴隷よりも自由人が、機嫌をとるより取られるほうが、疑われるより信頼されるほうが、幸福であるのと同じである。以前は、私はあらゆる密告者に気を使わざるをえず、いくばくかの賦課金がいつもかけられ、また都市を留守にすることはけっして許されなかった。ところが、貧乏な今では、私は偉そうな顔つきをし、他人を脅している。金持ちは私を恐れ、あらゆる種類の礼儀と尊敬の念を示してくれる。だから私はこの都市で一種の僭主になっている。」

4. 老齢と成熟
宇宙を永遠ないし不滅と断定できる根拠は、何一つ見当たらない。いつか宇宙が滅亡するならば、幼年期、青年期、壮年期、老年期といった段階があるのだろう。人間社会にも。
しかしながら、幼年期よりも青年期が、壮年期よりも老年期が、成熟していると言えるだろうか?人間社会は、若年であれ、青年であれ、壮年であれ、老年であれ、文句を垂れる量で存在感を強調する力学の世界である。寿命が延びれば、新たな世代層が生まれる。かつて人間50年という時代があったが、いまや60代ですら老齢と見なされない。高齢化社会や少子化社会と言われながら、世界全体では人口増加に歯止めがきかない。地球資源は限られているというのに。自発的に人口を抑制する傾向が生じるのは、悪いことなのだろうか?日本の人口がたった半世紀で、8千万人が1億2千万人にも膨れ上がったことは自然現象で片付け、ちょっとぐらいの人口減少を民族滅亡説のように目くじらを立てる。現在の世代バランスの歪は、過去の人口増加率に問題があるとは考えず、現在の繁殖意欲や養育制度の問題だとする。
はたまた、歳を重ねれば、決まって過去を懐かしみ、現在の有り様を嘆く。自己存在に自信が持てなくなるからか?そして経験を積めば、寛容性が増すと言えるだろうか?短気になり、イライラを募らせ、文句を垂れるようになるのは、人生の終焉に焦りを感じるからか?組織に隷属してきた連中が高度成長時代を謳歌し、今度は老後を謳歌する権利を要求するどころか、年金をご褒美だと考えている。惰性的な制度によって企業年金をたかり、現役社員の収入をたかる。歳を重ねると、若者以上に欲望をむき出しにし、パイの争いは世代間闘争となる。社会制度が崩壊するのも時間の問題か。尤も、褒美をあげるべき者ほど、そんなものに期待せず、自発的に生きようとするのだろうけど。
いずれ、社会制度や年金、国家の支配までも、グローバル企業に委ねる時代がくるのかもしれん。国防産業がアウトソーシングされるように。政治に哲学が期待できなければ、国会議員も、国家元首も、スポーツの代表監督のように、海外で実績を積んだ政治哲学者が雇われる日が来るのかもしれん...

5. 王位と中立性
人間社会では、しばしば集団性の気紛れによって論争が巻き起こる。権力者を巻き込みながら偏見に満ちた応酬となり、嫉妬が嫉妬を呼び、憎悪が憎悪を呼び、公共の自由は興奮のるつぼと化す。民主主義社会では、支持するのも批判するのも自由。だが、その基準が好き嫌いで判断されるとすれば、それは議論に参加する資格があるのだろうか?後援会だから、地元出身だから、ライバル政党だからという動機では、ただの応援団に過ぎない。すると、冷静に議論できる立場は、どの党派にも依存しない哲学者のみということになりそうだが、そんな人はこの世にいるのか?人間は誰しも群れるのがお好き!自分の意思で考えているつもりになって洗脳されることが、いかに心地よいかを潜在的に知っている。それは、催眠療法が示している。
政治において中立の立場に置くことがいかに難しいことか、これをヒュームは匂わせる。そこで、国家を統一する上で、都合のよい立場にイギリスには王室の役割がある。英国王のスピーチが、歴史的な窮地でいかに励みとなってきたことか。パパラッチの餌食にされるのは、なんとも気の毒である。我が国にも、似たような立場に象徴天皇がある。どんな政治的意見にも肩入れしないことが、唯一、国民の統一的立場に立てるという原理を成立させる。安直に言葉にできないという窮屈な立場であるが、一旦言葉を発すると首相のそれとは重みがまるで違う。それは、大震災で発せられた言葉を見れば、一目瞭然であろう。政治や世論が悪しき方向に向かった時、唯一歯止めとなる可能性を秘めた立場である。政治利用しようなどとは言語道断!だが、戦後においても、天皇の存在を政治利用しようとする目論見がいくつも見られる。したがって、皇居は永田町とは距離を置き、京の都あたりに設置する方が相応しい気がする。

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