2014-06-01

"不思議宇宙のトムキンス" George Gamow, Russell Stannard 著

懐かしやトムキンス!物理学を専攻した者で、トムキンス冒険物語の存在を知らぬ者はいないだろう。たとえ読んだことがなくても... 定常宇宙説と膨張宇宙説の論争が旺盛な時代、物理学者ジョージ・ガモフは、時空の歪曲や膨張宇宙といった難解な物語を、初心者向けに書き下ろした。近年、この手の科学啓蒙書は当たり前のように書かれ、おいらも学生時代、ブルーバックス教の信者であった。しかし、その先駆者の存在感は衰えるどころか、むしろ輝きを増してやがる。
本書は、ラッセル・スタナードによる新版で、時代に即してオリジナル版からかなり改訂されている。尚、主人公C.G.H.トムキンスは物理学に興味を持つ平凡な銀行員、イニシャルは光速c, 重力g, プランク定数hに由来する。

さて、相対性理論に触れると、最初にぶつかる疑問がこれであろうか。すべての運動が相対的と言っておきながら、光速だけは絶対速度とは、これいかに?やはり神は存在するのか?なぁーに、心配はいらない!光速が不変ならば、時間や空間の方を可変にすればいい。神だって、ご都合主義よ。
人間は、3次元 + 時間という認識空間を生きている。だが、時間次元だけは明らかに異質だ。こいつだけは逆戻りできない。これを説明するために、アインシュタインは時間と空間を区別しない時空という概念を持ちだした。時間と空間は光速に対して数学的に対称性がある、ということにすれば、双方を入れ替えても物理法則が成り立つという寸法よ。そもそも時間が一定などというのは疑わしい。心地よい事は瞬く間に過ぎ去るくせに、忌わしい事はいつまでも居座ってやがる。死に際には走馬灯を見ると言うではないか。時計なんぞで一定に刻まれるとするから、時間依存症で苛む。
人間が何かを認識するには、なんらかの比較の対象を必要とし、その対象を一時的にスタックする機能が求められる。格納された情報は前後関係で結びつけられ、情報を取り出す順番が時の流れを作る。これが記憶のメカニズムだ。人間ってやつは、事象をなんらかの関係で結び付けないと、思考することすらできない。つまり、時間なんてものは、関係によってもたらされる概念であって、認識の産物に過ぎないとでもしておこうか。物事を時系列で秩序立てると、自己存在の瞬間が確認できて、心が落ち着くわけだ。ならば、何も認識しなければ、人間は自然物のままでいられるのか?と問うても、そんなことは知らん。ただ言えることは、質量を持つものはみな、相対性に幽閉された存在だということぐらいであろうか...

まさに、ニュートン力学は質量を持った物体を対象とする。この世界においては、空間と時間は完全に独立した物理量で定義され、すべての運動は時間の関数で記述される。つまり、あらゆる現象は連続性で説明できるという仕掛けだ。対して、量子力学では質量ゼロの素粒子が登場しやがる。光子やら電子やらがそれで、宇宙空間を自由に飛び回ることができる。電子が気の毒なのは、原子核に縛られることである。いや、M性が病みつきになって、自ら自由を放棄したのかもしれん。もともと自由電子と呼ばれたはずだが...
量子の存在は統計的にしか扱えない。不確定性原理は、位置と運動量といった同時に二つの物理量を決定できないという制約を課す。光が絶対速度で決定されるなら、光子の位置ぐらい決定できそうなものだが、そうもいかないらしい。素粒子などと呼んでいるが、本当に粒子なのか?質量もなければ、まるで霊感のような存在。人体が量子で構成されるからには、霊感の強いヤツがいても不思議はあるまい。
また、アインシュタインのあの有名な公式は、エネルギーと質量の等価性を示している。つまり、無から物質を作ることはできないが、エネルギーからは物質を作ることができると言っているのだ。おまけに、エネルギー状態への移行は、プランク定数の定義で離散的にしか行えないことになっている。つまり、宇宙空間のどこでも、何かが突然湧いて出るかもしれないと言っているのだ。物心がつくとは、そんな状態であろうか?実存観念の本質とは、物質よりもエネルギーの方にあるのかもしれん...

1. 同時性の問題
特殊相対性理論は、一様で一定の運動をする系における、時間と空間の関係を論じている。すなわち、等速運動を唱えている。一般相対性理論は、これに重力の作用を加えて抽象度をあげている。すなわち、重力場と加速度運動との等価性を唱えている。重力場とは、空間が曲がっていることの物理的現れであり、その曲率は光線の曲がり具合を観察すればいい。絶対速度が歪めば、時間も歪む。つまり、二点における時間差は、双方の重力ポテンシャルの差で決まることになる。太陽表面上の出来事は、重力ポテンシャルの違いにより、地球表面上よりもゆっくりと進行するだろう。象さんのように体重が大きくて動作が鈍そうに見えても、時間の長さは同じように感じているのかもしれん。
さて、絶対速度が存在するとは、何を意味するだろうか?光速を超えられないとすれば、宇宙現象の同時性なんぞに意味がないということか?少なくとも時間に幽閉された生命体には、そんな気がする。そもそも運動しているかどうかなど、どうでもいいのでは?いくら生に意義を求めてもいずれ無に帰するし、どんなに足掻いても絶対静止には敵わんよ。しかし、生に意義を求めなければ、人生なんて退屈でしょうがない。なるほど、暇つぶしに意義を与えるとは、絶対速度恐るべし!
宇宙年齢が計測できるのも、絶対速度のおかげである。ビッグバン宇宙論が正しければ、絶対速度を物差しとしながら宇宙の果てから届く光を観測すればいい。観測するということは、認識するということ。もし、完全な同時性が成立すれば、宇宙年齡どころか、自分の年齡すら認識できないかもしれない。
しかし、同時性が成立すれば、後悔せずに済みそうな気もする。何事を知るにも、直接経験しない限り、事後報告によってもたらされるのだから。実際、人間社会では既成事実を作った者が勝つ。事実よりも風説流布の方が、はるかに波動エネルギーは巨大だ。光速を絶対速度に崇めれば、それが神となりうるだろうか?いや、いつも一緒だよ!なんて神の前で誓っても当てにはならない。人間社会にとって、絶対的な同時性なんてものは邪魔な存在かもしれん。あるいは、同時性という自由を放棄したからこそ、認識能力というものが成り立つのかもしれん。

2. マクスウェルの魔物
第一種永久機関は、外部からエネルギーを受けることなく、仕事を外部に取り出す機関で、エネルギー保存則に矛盾して実現できないとされる。
一方、第二種永久機関は、何もないところからエネルギーを取り出すのではなく、大地や海や大気といった周囲の熱源からエネルギーを取り出すので、理論的にはイケそうな気もしなくはない。例えば、石油や石炭を燃やす代わりに、水から熱を取り出すといったことが。とはいえ、冷たいものから熱いものへ自然に熱が移動するのも考えにくい。案の定、量子力学は、確率が思いっきり低いというだけで、不可能とまでは言わない。それが、マクスウェルの悪魔ってやつだ。本書は「魔物」と呼んでいるが、物語にはこちらの方がしっくりくる。
個々の分子を観察すると、中にはすばしこいヤツがいる。運動方向を自在に変えられるような。熱力学の第二法則、すなわちエントロピーの法則に逆らうようなヤツが、原子や分子レベルで確率的に存在する可能性がないと言い切れるか?という問題提起である。この魔物にかかれば、瞬間的に熱を移動させ、平坦なところにも温度勾配を作ることだってできるかもしれない。宇宙が138億年も存在してきたなら、そんな現象が一度ぐらいあっても不思議ではあるまい。
なるほど、市場原理は、しばしばエントロピーの呪縛を破って、ブラックホールに吸収される。魔物を見たければ、メフィストフェレスがうようよしてそうな人間社会を観察すればよかろう。そういえば、目の前のウィスキーがいつの間にか無くなっている。突然、魔物が蒸発熱を発したからに違いない。

3. M性な電子たち
「偉大なる建築家ニールス・ボーアが建立(こんりゅう)された美しき原子構造の内部には、さまざまな量子部屋がありましてな、遊び好きの電子たちをそれぞれの部屋に正しく住まわせておくことがわたしの務めというわけです。秩序と規律を保つために、同じ軌道には二つの電子しか飛ぶことを許しておりません。三角関係はトラブルのもとですからな。おたがいに逆のスピンをするもの同士がカップルになっているのがおわかりでしょう。性格が正反対の夫婦のようなものですな。部屋がそうしたカップルで占められてしまえば、第三者の乱入は許されません。これは良くできたルールでして、破られたことはただの一度もありません。電子たちも、これが健全なルールだということはわかってくれているのです。」
良くできたルールかもしれんが、自由を謳歌したい者には甚だ迷惑!一般的に、電子殻にはエネルギー準位の低い方から、K殻, L殻, M殻, ... という居場所が用意されている。ナトリウム原子の価電子となったからには、運命を受け入れるしかない。ナトリウム原子核は、電子を11個抱えており、そこに塩素原子が近づくと、M殻に空きを見つけて穴を埋める。そう、心の隙間を埋めるのだ。電子が不足して原子核がカッカしてくれば、マイナスイオンのひとときを差し上げますわ!って。M性同士がM殻で同居するとは、よくできたものよ。
しかも、パウリの排他原理によって、一つの軌道に同じスピン状態の電子が同居できないときた。M性のくせしやがって、独占欲だけは強い。原子核が負担になる余分な電子を抱えれば、移り気が激しく精神が不安定となる。電子はいつも安定社会への引っ越しを求め、数千個に及ぶ原子が結合したりする。中にはDNAってヤツも居て、昔の思い出に縋りながら必至に忘れまいと、二重螺旋構造というバックアップ機構まで具えてやがる。男性諸君もまた女王様を囲む電子のような存在よ。どうりで、簡単には楕円軌道から逃れられないわけだ。だが、心配はいらない。強烈なオーラを放射する小悪魔が近づけば、簡単にスピンアウトできる。ただ、結婚は恐ろしい!と経験者は愚痴っている。法律という紙切れ一つで、生涯の軌道が運命づけると聞いた。
ところで、電子の寿命は永遠ではないらしい。突然消滅したり。物質とは、役目を終えれば果敢ないものよ。光子にしても光を伝え終えれば消滅する。電子の死は、衝突によって生じるという。問題は衝突の激しさではなく、衝突する相手だ。負電荷を持つ者同士であれば問題ないが、中には正電荷を持つヤツがいる。陽電子ってやつだ。ポジトロンなんてニックネームがあるが、まったくポジティブに見えない。普段は粒子として振る舞いながら、電子と出会った途端に「対消滅」を起こす。無理心中か!同じ電子同士だと思って油断していると、えらい目にあう。合体でもしようものなら身の破滅よ。

4. 素粒子はどこまで素粒子なのか?
物質はこれ以上分割できない基本要素から構成されるという考え方は、古代ギリシアの哲学者デモクリトスまで遡る。atomには、ギリシア語で「分割できないもの」という意味がある。また、物理学では、同じ原子構造を持ちながらアイソトープ(同位体)で区別する。原子核における陽子の数が同じでも、中性子の数が違えば質量も違ってくるので、もっともな見方である。
「中性子だけで置いておくと、たしかに不安定なんじゃがの。原子核内にきっちりと詰め込んで周囲を他の粒子で固めておけば、きゃつらもずいぶん安定するんじゃよ。それもまあ、原子核内の陽子の数にくらべて中性子の数が多すぎなければの話じゃが。もしそうなると、中性子は余分な塗料をマイナス電荷の電子として原子核外に放出して陽子に変わってしまうんじゃ。同様に、陽子の数が多すぎる場合には、陽子は余分な塗料をプラス電荷の電子として放出し、中性子に変わってしまう。こうした調節を、わしらはベータ崩壊と呼んどるんじゃがの。ベータというのはこうした放射性崩壊によって放出される電子につけられた古い呼び名じゃ。」
宇宙は広大なのだから、なにも原子核なんてちっぽけな住まいに、ひしめき合わなくてもいいのに。質量あるものは、満員電車を好むらしい。
さらに、陽子や中性子を構成する物質にクォークが発見されると、アイソスピンという回転の仕方で種別される。本当にスピンしているのかも疑わしいが、物理的にスピンしているような性質を持っているということであろうか。少なくとも、量子状態として見ることはできそうである。この状態を「フレーバー(香り)」と呼び、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ボトムの6種類で区別される。なぜ香り(flavor)と言うかは知らんが、気配のようなものであろうか?霊感のような...
ただ、すべてに物質が、クォークからできているわけではない。クォークからできているのは重粒子と中間子で、ハドロンと呼ばれるやつ。ハドロンは強い核力を感じるが、軽粒子と呼ばれるレプトンは感じないという。レプトンもスピンの仕方で種別される。
ところで、スピンのパターンには、驚くべき対称性の法則がある。
「自然界にはSU(3)の対称性が成り立っている」
数学には、対称性を観察するのに、群論という便利な道具がある。中でも角運動量にピッタリなのが、ユニタリってやつだ。数学オンチは、こいつで随分と悩まされてきたのだが...
SU(Special Unitary)群とはユニタリ群の部分群で、(3)とは3回転対称性を表す。つまり、±1/3(120度)、±2/3(240度)、±1(360度)で同じ状態になることを意味する。そして、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)で構成される陽子は(u, u, d)、中性子は(u, d, d)と表記される。スピン状態が離散的であるのは、電子軌道が離散的であるのと同様に、プランクエネルギーの介在を想像させる。もっと言うと、スピン状態の離散性が、量子コンピュータの記憶素子としての可能性を匂わせるわけだ。ただ、状態遷移ではかなりのエネルギーを消費するだろう。量子の世界では、なにかと「ポテンシャル障壁」と呼ばれるエネルギー障壁がつきまとう。
また、人間の対称性への思いは、留まるところを知らない。粒子には必ず対となる反粒子が存在するとされる。質量とスピンを同じとし、電荷を逆転させて存在を相殺させるわけだ。粒子と反粒子が衝突すれば、エネルギー保存則に矛盾なく、丸く収まるという寸法よ。こんな仕掛けで、質量の存在を説明できるのかは知らん。確かに、反粒子だけ消滅すれば、質量が残りそうな気がするが、反粒子の方が残るってことはないのか?いや、あるだろう。人間の認識空間に見当たらないだけで。いずれにせよ、素粒子レベルともなると、スピンの仕方の違いだけで物質の存在を抽象化できてしまう。
さらに、話題が超ひも理論にまで及ぶと、物質の存在は単なる振動でしかないってか。いくら人間の個性や人間社会の多様性を強調したとこで、しょぼい存在よ。人間ってやつは、ヒモという背後霊に憑かれた存在というだけのことかもしれん。社会がヒモになり、組織がヒモになり、家族がヒモになるとなれば、女のヒモになるのを夢見る男性諸君で溢れてやがる...

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