2014-06-29

"数について" Richard Dedekind 著

かつて、数(かず)というものに対して、ここまで率直に考えさせられたことがあったであろうか?その最も単純な概念は、「より大きい、より小さい」という関係で言い尽くせる。リヒャルト・デーデキントは、有理数の最も重要な性質をこう述べる。
「順序よく整った集合体で、二つの相反する向きに無限に延びた一次元の領域を作っていること。」
そして、「切断」の概念を用いて数の連続性を規定し、無理数の正体に迫ろうとする。連続性を規定できる便利な道具といえば、微積分であろう。微積分の導入時に幾何学的な直観に助けを借りるのは、幾何学と連続性の相性の良さを示している。だが、デーデキントは、連続性に対する科学的見地が甘いと指摘する。
「科学においては証明なしに信頼すべきではない。この要請がこんなにも明白であるように思われるのに、私の信ずるところでは、最も単純な科学、すなわち数の理論を取り扱う論理学の部分の基礎を研究するに当ってさえも、最近の叙述によってさえも決して満たされているとは見なせないのである。」
彼の言う科学とは、ユークリッド原論が幾何学の公理と証明を示したように、代数学にも同様な要請をすることであろう。実際、本書は集合の観点から公理的に語り、集合論こそが数の概念の抽象化した姿であることを実感させてくれる。集合論の創始者と言えばカントールであるが、デーデキントの貢献が大きいことは言うまでもあるまい。
尚、本書には「連続性と無理数」と「数とは何か」の二篇が収録される。

数論とは、「数える」という最も単純な行為から発する必然的な結果であろう。だから、整数論とも呼ばれる。人間が思考する数の性質は、極めて離散的である。しかし、数を図形で表そうとすれば、直線や曲線などの連続性に支配される。はたして精神空間において、離散性と連続性のどちらが居心地良いであろうか?おそらく適度な連続性ということになろう。忌々しい出来事にはアルコール濃度で忘却の渦に連続性を絶ち、小悪魔とのひとときには永遠の連続性の中で夢想を続ける。
ピュタゴラス教団は「万物は数である」という思想を崇拝し、すべての数を自然数で規定しようとした。分数を定義すれば、分子と分母を限りない自然数で規定でき、どんな二つの有理数の間にも第三の有理数を埋めることができる。二つの有理数の間には必ず大小関係が生じ、これを数学者は「全順序集合」と呼ぶ。そうなると、有理数で数直線上のすべての隙間を埋め尽くすことができる、と信じたのもうなずける。だが、聖なる正方形の対角線に √2 という異様な成分が紛れ込んでいることを知ると、彼らを動揺させた。
一方で近代数学が、このような数の信仰に憑かれていないと言い切れるだろうか?最新鋭のコンピュータをもってしても、実数演算には冪乗の壁が立ちはだかり、実際、分子と分母の関係から便宜上の近似値を与えているではないか。アルキメデスは、円に内接する多角形と外接する多角形の関係を考察し、円周率が 22/7 と 223/71 の間にあることを見出した。もっと良い近似値では、355/113 で代用される。
確かに、数学は有理数では表せない数があることを証明した。だがそれで、無理数の意義まで知ったことになるのだろうか?無理数とは、ピュタゴラス教団が唱えたように理性を失った状態なのだろうか?自然数によって世界のすべてを表そうとする古代人たちの野望は途絶えた。自然数の欠点は、減算や除算を行うと答えが自然数の系からはみ出すことにある。算術によって系が閉じられない現象は、数の概念を整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。そこに集合論が結びつくと多項式までも呑み込まれ、体、群、環、イデアルへと抽象度を高めてきた。
しかしながら、どんなに数の概念が高度化しようとも、すべての数が大小関係によって規定されることに変わりはない。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体は、何かを認識しようとすれば何かと比較せずにはいられない。人間社会では、数の大小関係はそのまま地位の上下関係と結びつき、収入や資産や知識の量で競い合う。人間ってやつは、大小関係という意識に幽閉された存在というだけのことかもしれん...

そして、読み終えると、いつもの愚痴が蘇る...
現代数学では、実に多くの微分方程式が解けないという事情から、大小関係によって迫る方法が編み出された。ε-δ論法が、まさにそれだ。このヘンテコな理論が大学初等教育で扱われるのは、数学の偉大さに屈服させようという魂胆か。やはり、酔っ払いを落ちこぼれにするための陰謀であったか...

1. 無理数と称すべきか?無比数と称すべきか?
連続性の問題は古代からある。尤も、離散性という意識があったかは知らん。自然数を理性の象徴として崇めれば、数では表せない存在に困惑する。神は不完全な世界を創出したことになるのだから。古代人は、1 + 2 + 3 + 4 個の順に並んだ点の正三角形の配列を崇め、10 を宇宙秩序を表す完全な数とした。テトラクテュスってやつだ。尚、今日で言う完全数とは違う。
1 から 10 までの自然数には奇数と偶数が同数ある。ついでに、素数 {1, 2, 3 , 5 ,7} と合成数 {4, 6, 8, 9, 10} も同数ある。ちなみに、鏡の向こうには「十の時が流れる」という名を持つ野郎がいると聞く。ヤツはテトラクテュスの申し子か?いや!単に顔が赤いだけらしい。
それはさておき、{1, 3, 5, 7, ...} を平方に配列したものを四角数と呼び、{1, 4, 7, 10, ...} を五角形に配列したものを五角数と呼ぶ。そして、六角数、七角数... と続く。これらの配列の組は、三角数では自然数、四角数では奇数、五角数では初項 1, 公差 3 の等差数列となり、図形との関係を表す重要な数とされた。こうした発想から、無限級数が考察されるようになる。オイラーが解いたバーゼル問題を眺めれば、無限和が固定値に収束することに数論の神秘を感じる。その答えに円周率という無理数が含まれることがミソだ。
ピュタゴラスの和音理論による視覚と聴覚の調和は、数の哲学の真髄である。そして、宇宙は音響調和の元で構築されていると考え、真円の下で正多角形が崇められ、真球の下でプラトン立体が崇められた。そういえば、無理数という用語は邦訳の誤りという意見を耳にする。比で表せないから無比数とすべきだと。なるほど...

2. 代数学の意義
方程式の解を求めようとすれば、有理数に頼るだけではすぐに限界に達する。数学者たちの野望は、2次方程式、3次方程式、...、n次方程式へと向けられた。直線定規とコンパスによる作図法は、代数学では2次方程式の解に相当する。言い換えれば、3次方程式以上の解は幾何学的には求められない。それを人類が知ったのは17世紀頃。代数学には、直線定規とコンパスだけでは作図できない領域があり、その本質は、数では表せない数を探求することにある。もし円周率が有理数ならば、すべての図形は四角形に帰することになり、古代人は幸せを謳歌できたであろうに...
自然数にしても、実数にしても、特定の数の体系を崇めたところで、それは人間のご都合主義というもの。神は数の概念を区別しないはずだ。人間のできることと言えば、十分に大きいか、十分に小さいか、それを規定するぐらいであろうか...
「無理数の理論は、有理数の領域に生ずる現象に基づくもので、それに私は"切断"という名をつけてはじめて精密に研究したし、実数の新たな領域の連続性の証明でその頂点に達した。」

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