プラトンは、イデアという精神の原型のような存在を唱えた。ルソーは、かつて人間は自己保存という欲求の元で、ほとんど不平等のない自然状態にあったと説く。だが、社会進歩の過程で堕落し、人間の根源的な状態を忘れ、ついに「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけを求めるようになったと嘆く。
そして、二つの不平等を定義する。一つは、自然的、身体的不平等。二つは、約束に依存する社会的、政治的不平等。本書の主題は、後者の不平等について、その起源は何か?またそれは、自然法において容認できるか?である。人間社会は、暴力に対して権利で対抗し、悪徳に対して理性で対抗し、これを法の下で実践する上で正義の概念を編み出した。法ってやつは、正義との癒着が強いだけに、乱用されやすいことに留意したい。
また、この書が「社会契約論」の下地となったように、教育論「エミール」でもそうであったようである。教育論ってやつは、理性をまるで欠いた酔いどれには、まったくもって煙たい存在であるが、いつの日か、その禁書にも挑戦してみたいという気にさせてくれる。
尚、「人間不平等起源論」の翻訳版がいろいろある中で、本田喜代治、平岡昇訳版(岩波文庫)を手にとる。
ロックは知性論の中で、すべての観念の生得性を否定した。さすがの賢人の主張も、ここだけは、ちとひっかかる。対してルソーは、人間の根源的意識に自己保存の欲求を位置づけ、自己愛を結びつける。さらに、自尊心を自己愛と区別し、自尊心はむしろ利己心に近いものとして自然状態から遠ざける。
アリストテレス曰く、「自然というものを、堕落した人々の中にではなく自然に従って行動する人々の中に、研究しなければならない。」
ところで、物心がつくとは、いかなる状態であろうか?既に純真な心を取り戻すことのできない状態であろうか?ルソーが問題とするのは、既に社会状態にある人間が、いかに自然人に立ち返ることができるかである。社会が形成され、集団規模が大きくなるにつれ、その中で生き抜くために自己を改善せずにはいられない。世間では、社会の適応能力と呼ばれる。だが、知識を知らなかった頃の自分が、何を考えていたかを思い出すことは難しい。外的要因ばかりを研究すれば、その外的要因によって変質し、もはや自己の姿すら見えなくなる。人間ってやつは、自分自身にどんなに関心を持とうとも、内的な自己には無知であり続け、外側の方がよりよく見えるようである。人間社会を賛美し、ばかげた傲慢と権威に憑かれ、なんとも知れない空虚な自己礼賛に陥り、自己を偏見へと誘なう。そして、理性を発達させることが、自然人を窒息させるのかは知らん...
「もっとも痛ましいことは、人類のあらゆる進歩が原始状態から人間をたえず遠ざけるために、新しい知識を蓄積すればするほど、ますますあらゆる知識のなかでもっとも重要なものを獲得する手段をみずから棄てるということであり、またわれわれが人間を識ることができなくなっているのは、ある意味においては人間をおおいに研究した結果だということである。」
1. 自然法について
国家の強制は、どこまで容認できるだろうか?政府が法律を国民にゴリ押しするような国家では持続性が危ぶまれる。法が神聖であるための条件は、いかに自然に適っているかが問われる。そして、自然法のもとで、常に政治システムは検証されなければなるまい。ルソーはもう少し踏み込んで、法律が自然法から逸脱するから、国家が不合理な不平等を生み出すとしている。
うん~... そもそも社会状態が、自然状態とは相容れないように映るのは気のせいであろうか?いくら自然法に近づけても、集団の規模が政治の許容範囲をとっくに超えているような気がしてならない。おそらく人口に適した政治の規模というものがあるのだろう。地方分権は機能しているだろうか?もしかして人間社会を生きること自体が、自然状態を放棄していることになりはしないか?
つい最近、スコットランドの独立を問う住民投票が行われた。現在の近代国家の枠組みが大方出来上がったのが18世紀前後で、まだ歴史は浅く、普遍的な枠組みと呼ぶには程遠い。今後も、国家という概念に対して疑問を投げかけられるであろう。
確かに、法を尊重できるかどうかは、誰もがある程度納得できるものでなければならない。法律が、私利私欲やご都合主義、あるいは支持者への利益供与のために編み出されては尊重されるわけがないし、すぐに改変されるような法律では人々に蔑まれる。改善するという口実で慣習を排除すれば、新たな悪行へ導く。現実に、時限立法と称しては支持を集め、しかも有効期限が過ぎても都合よく延長させ、却って社会を混乱させている。悲しいかな、悪徳は法の網を巧妙にかいくぐり、法律は悪徳の進化にともなって進化し、複雑化してきた。人間社会のエントロピーを元に戻そうとすれば、一旦リセットして再契約しなおすしかなさそうだ。氷河期や地軸変動といった地球規模の環境変化は、契約をチャラにしようという神の魂胆であろうか...
2. 自然社会と文明社会
「結論を述べよう、... 森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要としないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。
偶然なにかの発見をしたとしても、自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見をひとに伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重ねていった。
そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。」
ルソーの描く自然人は、現代的な個人主義とは相容れない。自然人ほど臆病な存在はないのかもしれない。それだけに、知覚は極めて敏感で、危険の察知能力に優れる。文明化によって知覚能力は衰え、仮想空間に認識を求めれば、いずれ空想だけで生きていけるようになるのだろうか?食糧という実体ですら、サプリメントの進化で栄養分は集積化され、それで食べた気になれるとすれば、排泄の必要もなくなるのだろうか?性交の必要もなく遺伝子を伝播させることができれば、愛という幻想は精巧(性交)ロボットへ向けられるのだろうか?だが、生命体である以上、寿命という時間的な実体からは逃れられない。いや、肉体から完全に分離した精神だけで、生命を自覚できるような状態がありうるのだろうか?などといえば、霊媒師が喜ぶ。
文明社会では、寿命の対処においてですら不平等が生じる。権威者や金持ちは最先端の医療が受けられ、貧困層は放置される。いくら政治が平等を唱えても、食糧も、医薬品も、社会サービスも、文明が高度化するほど格差は広がる。はたして政治は自然の産物であろうか?
しかし一方で、文明社会が理性を育み、共同生活を安住の地とさせてきたことも事実である。弱者に対してそこそこの憐れみや施しがあるからこそ共存できるのであって、単純な弱肉強食の社会では持続できない。その意味では、個人の徳と悪徳は、集団性においてなんとか相殺されている。理性を高めるには、悪徳というリスクを避けられないのかもしれん。尚、ユスティヌスの歴史書には、こんな句があるそうな。
「ある人々にとって悪事を知らないことは、他の人々にとっては善事を知っていることよりも有益である。」
3. 自己愛と自尊心
本書は、自然人の固有の感情は自己保存の欲求とし、これが自己愛の根源だとしている。そこから派生する同胞への憐れみの情念が人間愛となり、やがて隣人愛や祖国愛へと広がると。対して、自尊心は、人間社会の腐蝕作用によって、自己愛が利己心へ変質した情念だと考えているようである。自己愛が自然的感情であるのに対し、自尊心は人為的感情ということか?自己愛も自尊心も利己心と相性が良さそうだし、言葉の堂々巡りのようにも映る。このあたりは用語のニュアンスの違いもあろうし、翻訳の難しさが伺える。
いずれにせよ、善人と悪人を区別しないような社会は、いまだかつて存在しない。ヘシオドスは、人間の進化を、黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族の五世代で物語った。黄金の種族は、クロノスが支配する時代で、人間は神々とほぼ同じ生活をし悩みや労苦を知らずに暮らす。銀の種族は、ゼウスが覇権を握った時代で、スケベえな雷オヤジが、あらゆる女神の寝所に忍び入っては子を孕まし、その子供たちが神々への敬意を忘れて争いを起こすようになる。青銅の種族は、さらに暴力的となって青銅製の武器を用いる。英雄の種族は、トロイア戦争で活躍した英雄たちの時代で、戦争をやるから英雄という概念も生まれる。鉄の種族は、正義や希望のない悪事が横行して退廃を極めた段階、すなわち、現世。
やがて、政治的な強者と弱者、経済的な富裕層と貧困層、社会的な知識人と無知人など、あらゆる面で二極化していく。物流と情報が発達すれば、都市と地方で差がなくなるかと思いきや、密集化と過疎化はむしろ顕著になる。情報社会が高度化すれば、誰でも平等に情報が得られそうなものだが、情報意識や情報収集意欲の格差が拡大し、情報主権が民衆へ移ってきた。あらゆる面で主権が民衆へ移行すると、能動的に生きる者と受動的に生きる者の意識格差は拡大するものらしい。
ならば、不平等を嘆くよりも個人の能力を自然に伸ばすように仕向け、最低限の自己存在の保障を規定する方が、よほど実践的であろうに。不完全な人間をエゴイズム的な完全像で描こうとするから、メフィストフェレスに付け入る隙を与える。そして、誰もが尊敬を受ける権利を主張するやかましい世の中になろうとは...
「各人は他人に注目し、自分も注目されたいと思いはじめ、こうして公の尊敬を受けることが、一つの価値をもつようになった。もっとも上手に歌い、または踊る者、もっとも美しい者、もっとも強い者、もっとも巧みな者、あるいはもっとも雄弁な者が、もっとも重んじられる者となった。そしてこれが不平等への、また同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑とが、他方では恥辱と羨望とが生れた。そしてこうした新しい酵母によってひき起された醗酵が、ついには幸福と無垢とにとって忌まわしい合成物を生み出したのである。」
4. 私有と共有
「ある土地に囲いをして、これはおれのものだ!と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。」
本書は、社会的不平等の起源を私有制度に求める。ロックの格言に、「私有のないところに不正はありえない」というのがあるそうな。確かに、人間社会のすべての構成員に、私有の意識がなければそうかもしれない。しかしながら、自己保存の欲求の根源には、自分の身体は自分のものという意識がある。私有意識だけ明確に持ちながら、無理やり共有しようとすれば、むしろ不正の餌食となろう。共産主義的搾取の類いだ。現実に、すべての財産を共有すると宣言すれば、すべての管理は政府が担うことになり、そこに権力が集中し、癒着が生じ、搾取が始まる。あるいは、無条件な平等によって恩恵が受けられるとなれば、怠け者ほど得をする。純粋な自然状態に相応しい善は、社会状態では適合しなくなり、悪の道具となるばかりか、善自身が悪徳へと変質するだろう。
また、才能は誰のものか?と問えば、圧倒的多数が個人の努力の賜物と答えるだろう。真理に近づいた天才の中には、人類の叡智と答える者もいるが、人間社会の構成員の圧倒的多数は凡人である。才能が社会において有利となりうる条件だとすれば、ここにも不平等の起源がある。才能が優れていれば、それをもっと伸ばす環境を整えるべきだし、そのことが人類の叡智を保存することになろう。だが実際は、人類の叡智に貢献するよりも、はるかに経済的な成功者の方が評価される。勝ち組と負け組とは、まさにそんな概念だ。人類の叡智に貢献する者ですら負け組に種別される。もっとも本人に、そんな意識はないだろうけど...
所詮、そんなグループ分けは、他人よりも優位な立場に位置づけて、優越したいという欲求でしかない。経済に隷属すれば、貨幣量でしか価値判断ができない。知識に隷属すれば、知識量でしか価値判断ができない。土地の大きさに満足を求め、支持者や人気の数を競うのも、同じ原理であろう。身分と財産の格差、情念と才能の相違、有害な技術、つまらない学問といったものから、無数の偏見が生まれる。経済的な貧困と精神的な貧困では、次元が違うようである。どちらが高次にあるかは知らんが...
本書は、人間社会の構成員が国家という枠組みに組み込まれると、集団的な殺戮や復讐がより顕著になり、血を流すことが名誉や美徳となり、恐ろしい偏見が生まれるとしている。その偏見は、同胞ですら犠牲にする。今日、グローバル化の進む中で国家の枠組みが曖昧になり、経済交流や文化交流が戦争のリスクを軽減している。だがその一方で、帰属意識の不安からか?ナショナリズムが高揚し、その意識も二極化する傾向にある。自国民を優越させたいという欲求は、自尊心の類いから発す。その優越意識はオリンピックなどの祭典にまで及び、個人の名誉を国家の名誉と言わんばかりに罵り合う。政治家同士のネガティブキャンペーンのごとく。公私混同の甚だしさは、人間の悲しい性(さが)というものか...
名誉、友情、美徳を誇りとする情念は、いまや悪徳を誇りとする秘訣を見出す。愚者が賢者を指導し、大多数が飢えているにもかかわらず、ほんの一握りの者たちが奢侈に溺れるとは、これいかに?自ら犬と称したディオゲネスは、最も人間性に優れた都市アテナイを歩き回るものの、一人も人間を見出すことができなかった、と豪語した。社会状態とは、もはや不自然な集合体に成り下がる。人間の潜在意識に、狂いたいという欲求があるはずがないと、どうして言い切れよう...
2014-09-28
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