生物学に触れるのに、進化論を避けて通るわけにはいかない。ただ、科学の中でも極めて社会学的な印象が強く、遠ざけてきたところがある。自然淘汰説では、自由放任や市場原理と結びつけて、弱肉強食と重ねる経済学者も少なくない。それでも、科学者から芸術家に至るまで実に幅広い分野でダーウィンを称賛する声を耳にするし、遺伝子工学が量子力学と深くかかわる様子から徐々に興味を惹き、いつかはダーウィン!と意気込んでいた。案の定、つまらないイメージを払拭してくれる。尚、多くの翻訳版が混在する中、比較的新しい光文社版(渡辺政隆訳)を手にとる。
「種の起源」は、専門家向けの学術書ではなく、一般読者向けに発行されたそうな。当時、大著「自然淘汰説」の執筆を進めていたところ、諸般の事情から要約を刊行する必要に迫られたとか。確かに、感情的批判の避けられない説ではある。要約にしては大作だが...
この時代、まだ遺伝の仕組みが皆目解明されておらず、ダーウィン自身、遺伝の法則についてまったく分かっていないことを表明している。この真摯な態度こそ自然科学者たるもの。彼はなにも、人類の祖先を猿と言っているわけでもなければ、ヒトの祖先についてすら触れていない。ひたすら飼育栽培や家畜、あるいは野生の動植物を観察しながら、進化の原理を論証しているだけだ。もちろんヒトの種も含めてのことだが、批判を想定し、言葉を選びながら語っている。要するに、あらゆる生物種が共通の祖先を持つと言っているだけで、現存する生物種の優劣を語っているわけではない。
「私は類推から出発して、地球上にかつて生息したすべての生物はおそらく、最初に生命が吹き込まれたある一種類の原始的な生物から由来していると判断するほかない。」
その本旨は、地上を豊富な生命で満たすための条件として、多様性と分岐の性質を主軸に置く。そして、すべての生命は指数関数的に増殖する性質を持ち、そのために生存闘争が生じるのは必然で、数を抑制するために大量絶滅の機会は避けられないとしている。これは、T.R.マルサス風の人口論ではないか。自然淘汰の原理が機能しなければ生物の分布は偏り、地上がこれほど多様な種で満たされることはないというわけだ。
近年、個々の生物種のDNA配列が明らかにされると、すべての生物種に共通点が多いことが発見される。見た目が明らかに違う生物でも、DNAレベルでは驚くほど似通っているというのは、自然の驚異を感じずにはいられない。構造を司る遺伝子メカニズムは、スイッチをオン/オフするだけで多様な形態をこしらえる機能を具えている。まるでプログラマブルデバイスのように。地上に存在する構造体は、すべて選択と分岐で説明がつくのかもしれない。これが偶然性ってやつの正体であろうか。生ってやつは、死を運命づけられてこそ生となる。だからこそ次の生を夢見るのであろうか。しかも、子孫の複製では、ほとんどの動植物が二つの個体で結ばれることを望む。雌雄同体であっても、やはり結合を求める。生の複製だけなら単体で生殖する方が合理的であろうが、遺伝子にはほんの少し変身願望があるようだ。生活環境が不変ではないことが、結合と分岐の原理を育み、適応能力を身につける。この意志こそ進化の正体であろうか。運命には、切り開く運命があれば、逆らえぬ運命がある。双方を調和させる意志こそ運命とうまく付き合う術なのだろう...
「個々の事象は神の力が個別に介入することで起こっているわけではない。神が定めた一般法則によって起こっているのだ。」
... W.ヒューエル「ブリッジウォーター叢書」より
自然淘汰説は、ある種の利益主義と言えなくはない。だが、自然的な利益と人為的な利益を区別する必要がある。個々の生物が具える体制、構造、習性を厳密に精査し、よりよいものを選択しながら保存すると同時に悪いものを排除する。自然の力とはなんと偉大であろう。だが、人間は自然の意志を解しているだろうか?人間精神はそこまで進化しうるだろうか?ダーウィンはこれを問うているようでもある。
人間の意志は、無意識の領域では自然の意志に適っているのかもしれないが、その一方で、意識できる領域ではどうであろう。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。底なしの欲望を抱いているのは人間ぐらいなものだ。人為的に遺伝子操作された食物ばかり食べていると、その生命体はいずれ報いを受けるのかは知らん。
ところで、進化論といえば、お馴染みのイメージ図がある。腰を曲げて腕を引きずりながら歩く猿から、背筋を伸ばして直立歩行する人類へ段階的に変化していく、あれだ。ダーウィンの生きた19世紀は、すべての生物は神が個別にこしらえたとするキリスト教的な創造説が支配的な時代。人類の住む地球は、既に宇宙の中心でないどころか太陽系の中心ですらないことが証明され、生物の起源は神の御手が介在できる最後の砦であった。当時、ダーウィンは猿になぞらえた風刺画で揶揄される。
現在でもなお、人間の祖先はチンパンジーなどという誤解がある。ヒトに最も近い種といえば、そのあたりではあるが。おまけに、進化論を教育の場に持ち込むべきではないと主張する道徳者どもがいる。人間自身を崇めれば、人類のルーツに敏感に反応する。これも、ある種の民族優位主義のようなものか。人間社会では多数決が崇められるのに、宇宙では生命が存在する地球はごく稀な存在で、変質や奇形の類いとなろう。だが、これまた神の祝福を受けた天体と解す。人間のご都合主義、恐るべし。マスコミ連中が面白おかしく書きたてれば、興味本位で群がる民衆によって真っ当な学説が捻じ曲げられる。単に注目されたいという脂ぎった欲望が、真理を探求したいという純粋な欲望を圧殺にかかる。そんな構図は現在とて変わらないが、はたして自然淘汰の原理に適っているのやら。尤も俗世間に惑わされない資質を持った天才たちが、真の意味で人間社会を支えているであろうし、どんな状況下でも必要以上のドーパミンを発することはないのだろう。ダーウィンは、あの世でつぶやいているに違いない。戯言を科学に持ち込んで人類の叡智を崇める種が祖先だと言うのなら、自分自身は哀れな類人猿を祖先に持つ方がましだと...
1. 連続性と離散性
自然淘汰説は、想像を絶するほどの長い時間によって徐々に変化する過程を前提にした説である。つまり、連続性の概念によって支えられている。よって、ダーウィン批判は、地質学調査が示す不連続性によって巻き起こる。それは、最古の化石が堆積するシルル紀や、多様な生物が爆発的に出現したカンブリア紀を、どう説明するかにかかっている。
ダーウィンは、地質学的調査の不完全性を指摘する。種の絶滅は、隆起や沈降といった地質学的に保存の難しい状況で生じやすいために、連続的に移行する生物の連鎖を地質学に求めても難しいというわけだ。その信念は、「自然は飛躍せず」という自然史学の古い格言に沿っている。ただ、ちと言い訳じみていて、やや苦しく、かなりくどい言明を感じる。素人目にも、気候の大変動期が鍵になりそうなことは想像できそうなものだが...
そこで、ダーウィンをちょいと擁護してみよう。今では突然変異説ともうまく融和しているので、そんな必要もなかろうが、酔っ払いはお喋りよ...
社会学的、経済学的な観察において、連続性という概念に因われ過ぎるのは、現代とてあまり変わらない。人間の思考力は、記憶や知識といった元手を拠り所にするだけに、連続性とすこぶる相性がいい。その一方で、物理現象の多くがは離散的に生じるのも事実で、それは量子力学が示している。原子構造は、原子核の周りに電子が安定した軌道を描く。引力が一様に働けば電子は徐々に原子核に近づき、いずれ原子核に落ちそうなものだが、実際の電子軌道は整数倍で安定し、電子の存在数まで制限されている。電子に欠落が生じれば、化学反応を起こして安定状態へ戻ろうとする。そぅ、エネルギー状態には安定を求める性質があり、エネルギー準位は極めて離散的だということだ。だからといって、力の作用が離散的というわけではない。力が連続的に加えられながらも、状態遷移では離散的なのである。宇宙における物質分布にしても、均等ではなく、島宇宙や銀河といったクラスター化が生じる。気候の大変革もまた一夜にして起こる。The Day After Tomorrow... 映画の見過ぎか。
社会現象もまた離散的に生じる。革命や金融危機といった類いがそれだ。あれだけ巨大なソビエト連邦ですら一夜で崩壊した。社会学には、ティッピングポイントという用語がある。小さな民衆エネルギーがある閾値を超えた途端に、突如として大きな変化を見せる。今まで見向きもされなかった商品が、口コミによって突然売れ始めることだってある。人間社会では、出る杭は打たれる!の原理が常に働き、既得権益を守ろうとする種が変種への移行を拒み続ける。変種がとって代わるには、種の持つエネルギーの閾値を超えたエネルギーを蓄積する必要がある。微妙な変化を果たした中間的な変種が生まれては、既存の種によってすぐに絶滅させられる。
その一方で、種が限りなく数を増やせば、居場所を拡大するために、形質を分岐させていくしかあるまい。群れる習性が、狂った変種を多発させるのかは知らんが。その避けられない結果として絶滅が多発し、すべての生物は離散的に配列されることになろう。保存しようとする意志も、変異しようとする意志も、エネルギーの塊のごとく機能する。したがって、むしろ進化の過程が離散的であることが、自然淘汰説を後押ししている、と解するのはどうであろうか...
ところで、種と変種の違いとはなんであろう?人間の認識力では、多数派を種とし、少数派を変種とするぐらいなもの。少しぐらい疑問を持っても、多数派で安住する方が楽だ。一人の欲望が支配する独裁主義も恐ろしいが、多数派というだけで正義とされる民主主義も恐ろしい。ならば、頭がおかしいと言われるぐらいがちょうどいいのかもしれん...
「種とはきわめて顕著な特徴をもつ永続的な変種にすぎない。」
2. 性淘汰の原理
飼育下では、雌雄の一方だけに奇妙な特徴が出現し、その特徴が遺伝的に固定される例が多いという。性淘汰は、生存闘争ではなく、異性をめぐる闘争によって決まり、精力絶倫な雄がその場所で最も適合する個体となり、最も多くの子孫を残す。性の勝者だけに繁殖が許され、不屈の闘争心が武器となる角や爪、あるいは腕力を身に付けさせる。こうした形質的な差異が生じるのも、二次性徴の類いであろうか。ライオンの鬣のように見かけで脅す性質もあれば、人間社会では金銭や権威という空虚な武器も生み出される。雄どうしの戦いが熾烈を極めるのは、一夫多妻制への夢が隠されているのかは知らん。
その一方で、嬢王蜂に雄が群がる社会もある。性の同質化が進めば、雄の運動能力が雌に追い越されることもあろう。人間の種では、精神力や腕力で既に逆転した事例がわんさとあり、男性が子を産むという変異が生じる日が来るのかもしれん。
さて、雌と雄に分かれる生物は、子が生まれるにあたって、二つの個体がその都度結ばれることになる。それはそれで不合理に映るが、ことはそう単純ではない。交尾は単なる性的快楽を求めるためだけではない。奇妙なのは、雌雄同体の動植物でさえ受精が起こることで、究極の男女平等社会でもなさそうである。雌雄同体のカタツムリ、ミミズ、ヒルなど大部分のものは二個体間の交尾によって生殖する。遺伝子コピーのために二つの個体が協力しあうとは、何を意味するのか?死を運命づけられたものの生への執着か?いくら子供に夢を託したところで、親の言うとおりにならないのが人の世。
ただ、性淘汰の作用は自然淘汰ほど厳格ではないらしい。死をもたらすわけではないし、単に子孫を残さない選択をするだけ。しかも、二次性徴の変異性は高いという。生命の潜在意識には、命の保障付きで変身してみたいという願望でもあるのか?成長過程も個人差が大きい。人間では、女性の方が二次性徴の発現時期が早いとされる。こうした傾向は、精神的な作用も大きいだろう。子どもの頃は、女子の方が妙に大人っぽかったりする。
また、変異作用が大きいと、遠い祖先に逆戻りする形質も見られるという。しかも、失った形質を取り戻す傾向は、一時的な変種状態となるのではなく、何世代にも受け継げられるとか。人間社会にも、古典回帰といった文化活動が度々起こる。その代表はルネサンスだが、社会に幻滅すれば思想回帰も生じよう。
生命ってやつは、亜変種を試みては形質を戻すという作用を繰り返しているようである。変異とは、生命的危機とのリスクの大きさによって、必要なエネルギー準位で決まる現象とすることはできそうか。だとすると、生命的危機のないところでは、いくらでも変異が生じていることになる。個性ってやつも変異の一種であろうか。現代社会も亜変種の一つであろうか...
3. 退化の原理
「自然淘汰は、有益な変異をもつ個体は保存し、不利な変異をもつ個体は排除するという、生と死の使い分けで作用する。」
自然界とは、不要なものが淘汰されるという、そんな単純なものであろうか?少なくとも、その基準が人間の都合で決まるものではあるまい。不要そうに見える器官でも、そうでないかもしれない。確かに、身体の中で必要とされる部分の発達は著しい反面、使用されない部分は劣っていく傾向がある。人間の盲腸は小さく、不用の代名詞のような言われようだが、草食動物にとっては意味があり、そこに微生物を飼ってセルロースを分解させる。そして、微生物のたまり場を虫垂と呼んだりする。痕跡器官ってやつもある。本来の用をなさなくなった器官が、わずかに形だけが残しているような。尾骶骨が、それだ。
「一般に自然史学の研究書では、痕跡器官は "対称性を保つため" とか "自然の計画を全うする" ために創造されたものだという言い方がされている。しかしそれでは何も説明したことにならないと思う。単に事実を言い換えているにすぎないからだ。」
自然条件下よりも飼育栽培下の方が、変異がはるかに生じやすい上に奇形が生じる頻度も高いという。生殖機能は、生活環境の変化に影響されやすく、精神的に、肉体的に乱されると、変異も生じやすい。同じ種であっても、気候や気温の違いで血液の流れ方が違うだろうし、性格や運動機能も違うだろう。器官だけでなく生物体そのものの大きさも、住みやすいように相対的な関係から適切な大きさに保たれるだろう。恐竜が絶滅したのは、その巨大さにあるという説もある。地球の重力に対して、適切な重量と数というのがあるのだろう。
また、知覚能力は、生活環境の危険性との関係から生じる。洞窟や深海など暗闇で生活する動物は視力がほぼ消滅し、その代償に触覚や聴覚を発達させるといった変質をもたらす。アヒルが空を飛べないのは、飼育慣れしたからであろうか。視力や聴力が衰えるのも、恵まれた環境の裏返しであろうか。利便性にどっぷりと浸かれば認識能力を衰えさせ、なんでも周囲のせいにし、他人のせいにし、精神だけが旺盛になるのだろうか。仮想映像ばかり見慣れていると、そのうち実質が見えなくなるのだろうか...
4. 交雑と雑種形成
なぜ、かくも多様な生物が存在するのだろうか?その答えを求めて、ダーウィンは雑種形成にこだわる。このあたりも宗教的批判は避けられない...
雑種を作る簡単な方法といえば、遺伝的に異なる種どうしを交配させることであろう。しかし一般的に、異種間では雑種はできないとされるし、もしできたとしても、雑種個体には生殖能力がないとされる。トラの雌とライオンの雄の間のライガーや、ライオンの雌とヒョウの雄の間のレオポンは、いずれも不稔とされる。ラバやケッティも。それは、人工的に仕向けられたからであろうか?種間によって生殖的隔離があるかどうかは重要である。
ダーウィンは、新種が誕生するのは、既存の変種から独自性を獲得した結果だとしている。そして、雑種に生殖能力がないというのは、自然淘汰の直接的な作用ではなく、あくまでも二次的な作用だとしている。
では、生殖能力が保てる程度においての交雑はありうるのだろうか?人間と他の動物の交雑で子供が生まれるとすれば、ぞっとする社会となりそう。その一方で、血縁が近すぎると奇形が生まれやすいというのは、何を意味するのだろうか?異種間でも、適当に近縁で適当に離れているのが望ましいということはあるかもしれない。ちなみに、人間同士でも相性があるようだ。子供ができないからと相手のせいにして離婚すると、再婚してそれぞれの夫婦に子供ができたという話も聞く。なんのために離婚したのやら?子供を作ることだけが、夫婦の使命でもなかろうに。
それはともかく、自然淘汰説では、祖先が共通であっても、不稔性が生じることが重要だとしている。雑種が生存競争において不利となれば、雑種を作ることを拒む意識が働くだろう。しかし、雑種が有利となる場合もありそうなもの。それが、現存する雑種ということであろうか?偉大な生物史において、雑種が生じる現象も、既に安定時期にあるのだろうか?人間も、猿も、ゴリラも、過去の生物よりもちょいと有利な雑種というだけのことかもしれん。
一方で、植物には容易く交雑できるものがあるという。機能の抽象度という意味では、動物よりも植物の方が高等という見方ができるかもしれない。おそらく、動物よりも植物の方が先に繁栄した時代を迎えたであろう。生命力の逞しさでも、樹齢何千年と生きるものがある。余計な動きをせず、つまらないことも語らず、実にシンプルな生命体モデルだ。無駄な活動をしなければ縄張り争いで揉めることもないし、余計な存在感を示す必要もないし、精神の進化に集中できそうだ。交雑を受け入れる能力においても、多様性の受容能力は、植物の方がはるかに高等なのかもしれない。種子植物がミツバチに花粉を運ばせる受精モデルは、うまいこと動物を奴隷化している。しかも、本能を操って。夜の社交場に漂う美しい花びらや甘美な香りに惑わされるのは、動物の因果な習性よ...
5. 本能の起源
本能と習性は似ているが、起源が違うという。そう言いながら、ダーウィンはこの言葉の定義を諦めている感がある。古来、本能は先験的なものか?経験的なものなか?という哲学的論争がある。本能には普遍的な目的があるのだろうか?判断力の基底になっている直観も本能の類いであろうか?気まぐれとも、ちと違いそうか。習性は本能よりも経験的であろうか。
さらに、経験とはなんであろうか?記憶を根源にしているとすれば、DNAにも情報が記憶されている。本能と習性には、無意識の領域において類似点が多いような気がする。やはり、自然の意志と、人間の意志を区別せねばなるまい。本能とは、習性を昇華させた意志であろうか?もしそうだとすれば、習性を本能にする段階とは、直感を直観に昇華させるような過程であろうか?
習性は生活環境において育まれる。本能が習性の積み重ねから生じるとすれば、環境の変化によって本能もまた修正されるだろう。奴隷狩りや人種差別といった意志が、本能からきているとは思えない。だが、働きアリの奴隷振りはどうであろう?彼らに奴隷という自覚はないだろうけど。植物の意志がフィナボッチ数列や螺旋パターンを求め続ける一方で、人間の意志は十進数に囚われて金銭勘定を毎日繰り返す。こんなところに普遍的な意志が生じるかは知らんが、アリストテレスの生まれつき奴隷説も生あるものの宿命に見えてくる。自律神経系ですら自分の意志で説明できそうにない。自然淘汰説をもってしても、本能の起源を説明するとなると、やはり手強い...
2014-09-07
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