2014-09-21

"社会契約論" Jean-Jacques Rousseau 著

おいらは、説教じみた話が嫌いだ。ルソーといえば教育者の印象が強く、避けてきたところがある。ただ、モンテスキュー思想に批判的な立場であることを知ると、ちと興味がわく。おまけに、モンテスキューの「法の精神」は禁書目録に加えられ、ルソーの主著「エミール」もまた禁書に指定された。それだけで反社会分子には、ルソーを読む理由となる。彼はこう釘を刺す、「注意を払おうとしない読者にわからせる方法を、わたしは知らない。」と...
尚、「社会契約論」の翻訳版がいろいろある中で、桑原武夫、前川貞次郎訳版(岩波文庫)を手にとる。

これは人民主権論を説いた書である。当時、政治理論の多くが支配者の立場から語られたのに対し、ルソーが民衆の立場から語ったことは注目すべきであろう。その観点が、ロックを継承しているのは間違いなさそうだ。必然的に、統治者たる資格を持つ崇高な道徳観を求めるよりも、俗的な意志に則した政治体制が議論されることになる。とはいえ、立法者の資格に限っては、超人的能力を求めているものの...
その精神はフランス革命の引き金になったと評され、日本においても自由民権運動に影響を与え、近代デモクラシーの宣言書とも呼ばれる。本書は、国家は個々が結合した状態で、互いの自由と平等を最大限に確保するための契約によって成立するとしている。はたして社会の運命は、契約などという人の力で変えられるや、否や。いずれにせよ、人の意志につられる運命と、運命につられる人生とがあるように思う。
「いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利を生み出すものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけがのこることになる。」

モンテスキュー式権力分立は、立法、執行などの政治機能を同列に配置する並列型機構である。対して、ルソーは立法能力を国家形成の根幹に位置づけ、他の機能に対して優越すべきだとし、その下に執行などを従属させる階層型機構を唱える。そして、「一般意志」という概念を持ちだして、ルソー流「自然状態」と絡めながら意志の階層化を暗示している。個人の意志から集団の意志へ、さらに究極目的たる国家の意志へ昇華させるといったところであろうか。
個人的意志は目先の欲望に吸い寄せられる傾向があり、しばしば社会的意志と大きく乖離する。では、人間の自然状態とは、どの意志の段階であろうか?理性は自然状態に含まれるだろうか?政治学の伝統には、人間は社会的市民であるといったアリストテレス的な考えがある。社交的な性質が生まれつき具わっているとすれば、理性は自然状態に含まれることになろう。
しかし、ルソーは、社会関係は個人の利害関係から生じるものであり、これに対抗すべく道徳観念が生じるのは、既に自然状態から社会状態へ移行した結果だとしている。生まれたばかりの子供は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人とは、どういう状態であろうか?歳を重ね、経験を積んだからといって、理性的になるとは言えまい。むしろ、頑固になり、せっかちになり、僻みっぽくなり、おまけに嫌味の一つでも言わないと気が済まないとくれば、説教することでストレスを発散する。熟練した政治家ですら、しばしば憤慨するではないか。集団に属すことで安住し、慣習に従っていれば思考せずに済むとは、まさに奴隷状態!社会状態とは、堕落の象徴とでも言うのか?そして、一旦自然状態へ回帰し、新たな契約を結び直せとでも言うのか?... そうかもしれん。
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」

1. 自然状態と社会状態
最も自然な社会は、家族で構成される。ただ、子供が親に結び付けられるのは、自分自身を保存する上で親を必要とする間のみ、この状態は家族という暗黙の約束によって維持され、ここに法的な服従と義務の関係が結びつくという。服従も義務も自然的自由の下で成り立ち、運命的自由、あるいは人間本性的自由と言うべきかもしれない。そもそも人は生まれる国や両親を自由に選べない。生まれる地すら与えられない人もいる。自然淘汰的な競争原理において、人間の存在意識が防衛本能と結びつくのは自然であろうし、最も原始的な掟は自己保存に対する配慮となろう。ただ、親子の絆は血縁や愛などで結びつくが、支配者は民衆に対して愛を持たないばかりか、支配行為を快感とする。
では、国家と個人の結びつきは、何に頼ることになろうか?ルソーの政治論では、それが契約というわけだが。契約は人格と人格の結びつき、すなわち信頼によって成り立つ。国家はその信頼に値する存在であろうか?そこで、人間社会に課せられる最も素朴な権利が問われる。個人が国家を信頼するには、自己存在の保障が原則となる。そう、基本的人権の類いだ。
しかしながら、約束とは破られるもので、聖書との契約ですら心もとない。どんなに優れた政治理論をもってしても、最終的に縋るものが人間性だとすれば、政治家不要説が燻る。ルソーの描く国家像も、ブルジョワ的な立憲君主国家や議会主義国家などではなく、全人民を主導者とする革命的民主制、もっと言うなら、人民独裁国家に映らなくもない。革命ばかりでなく、暴力的な政治運動までも正当化されそうな。実際、フランス革命では、支配者が民衆の自由を奪ったのと同じ原理によって、民衆が自由の権利を取り戻したが、その反動に恐怖政治が訪れた。僭主による権利剥奪も、民衆による権利剥奪も大して変わらない。いや、集団性による専制の方がタチが悪いかもしれない。言葉が乱用される社会では、ささやかな事に目くじらを立て、言葉の揚げ足をとることに執心し、正義ですらストレス解消の道具とされる。
自然状態が自己保存における権利の保障に基づくとすれば、社会状態は集団的な保存における権利の実践ということになろう。それは秩序の上に成り立つ権利であって、自由奔放という意味ではなく、当然ながら自由も平等も制限されることになろう。主権者とは、社会契約を結んで一体となった人民全体のことを指すのであって、決して一個人を指すものではないという。
「精神的な事がらにおいては、可能性の限界は、わらわれが考えるほど狭いものではない。限界を狭くしているものは、われわれの弱さ、悪徳、偏見である。」

2. 一般意志と国家
自然状態において、すべての人間は生まれながらにして自由と平等が与えられる、とはよく耳にする。世界人権宣言にも似たような事が綴られる。だが、社会状態において自由と平等が制限されるということは、主権が制限されることになる。
では、個人が主権の制限を受け入れる動機は、どんな理由から発せられるであろうか?本書は、それは国家を作る根本原理、すなわち公共の幸福を求める「一般意志」だとしている。この用語は多数決的なニュアンスを与えるが、むしろ普遍的な意志と解すべきであろう。人間社会が不完全であるとはいえ、秩序なるものが自然に育まれてきたのは、義務の声が肉体の衝動を抑え、欲望を権利に置き換え、だいたいの方向性において集団的な理性が働いているからであろう。
しかしながら、公共利益を普遍性において定義することは、絶望的なほど難しい。集団の意志は、しばしば個人の意志と大きく乖離する。代議士は、本当に民衆の代弁者となっているだろうか?選挙運動は、純粋に政策を議論するよりも、血縁や地元出身を推したり、あるいは宗教的活動となりやすい。自分で思考することを放棄すれば、民主主義の義務を放棄しているようなもの。だからといって、立候補者の人格など分かるはずもない。結局、利益供与という動機が、票田とたかり屋の構図を生み出す。多数決の原理を本当の意味で機能させるためには、公共的な悟性の下で普遍的な意志を持つ側を多数派とするしかないだろう。だが、既に絶望的な状況にある。人間社会はいろいろな意味で格差が拡大する。経済格差、知識格差、認識格差... 民衆の意志は二極化し、おまけに報道屋が対立構図を煽り、世論はそれを面白がる。いまや国家は、国の枠組を超越した一つの概念のような存在であり、政府の意志で決定できるような単純な存在ではない。

3. 立法者の資質
「立法者は、あらゆる点で、国家において異常の人である。彼は、その天才によって異常でなけれならないが、その職務によってもやはりそうなのである。それは、行政機関でもなければ、主権でもない。共和国をつくるこの職務は、その憲法には含まれない。それは人間の国とは何ら共通点のない、特別で優越した仕事なのである。」
ルソーは、立法者に無の権威者となることを求める。人を支配するものが法であるならば、やはり人が法を支配してはなるまい。実際、日本国憲法第41条によると、国会は国権の最高機関で、国の唯一の立法機関とされ、これも一理ある。
しかしながら、立法者とて神ではない。国会議員は人間を超越した存在とでもいうのか?彼らは、司法の支持に従って、彼ら自身が当選してきた選挙制度を、中立の立場から不利な方向に修正できるだろうか?絶対的な安定多数を確保すれば、ドサクサに紛れて他の法案まで通過させてしまうような連中が。法を編む者、あるいは、それに口出しする者が、現実に執行権と結びついている。三権分立なんてものは、民衆の御機嫌とりのためのものか?ローマの十二表法を起草した十人委員会ですら、自らの権威を掲げるほどあつかましくはなかったという。そして、民衆への提案をこう語ったとか。
「君たちの同意がなくては、何一つ法とはなりえない。ローマ人よ、君たちみずから、君たちの幸福を生み出すべき法の作成者となれ。」
完全な立法においては、個人的意志は皆無でなければならないという。そりゃそうだろうが、主観が作用する意志において自己を排除することなどできようか。正義の根源ですら主観的に発するではないか。実際、有識者たちの憤慨する姿を見て、これが全体の意志に映るだろうか?普遍的な意志においては全体と個人は一致するのだろうが、そこに自信を深めた時、人格は暴走を始める。論理的な検証を怠り、意思決定を急ぐところに、ろくでもない条文が大量生産される。やはり、ルソー式階層型機構より、モンテスキュー式並列型機構の方が凡人に適っていそうな気がする。好みの問題かもしれんが...

4. 法の慣習性と硬直性
法には大まかに三つの種類がある。一つは、主権国家として規定される憲法。政治法や根本法とも呼ばれるそうな。二つは、構成員の相互関係や、社会との関係を規定する民法。三つは、これらの違法行為に対する罰則を規定する刑法。さらに本書は、四つ目の種類として最も重要な概念を加える。それは、市民の心に刻まれる規定で、いわゆる慣習法である。
特に民主政において、執行権が立法権と結合していることが弱点であると指摘している。権力との癒着構造が政治の腐敗を招くのはどんな政体でも同じだろうが、政府が法律を乱用する方がまだしも弊害が少ないとしている。どっちもどっちのような気もするが。裁判官の判決が世論の御機嫌伺いとなれば、もはや法治国家ではない。感情論に振り回されては、魔女狩りの類いとなんら変わらない。
「国家が解体するときには、政府の悪弊は、それがどのようなものであろうと、アナーキーという共通の名前で呼ばれる。これを区分すれば、民主政は衆愚政治に、貴族政は寡頭政治に堕落する。つけ加えれば、王政は僭主政治に堕落する。」
政治制度を強固にしようと欲するあまりに、その働きを停止する力まで失ってはならないという。古代スパルタでさえ自ら法律を休ませたことがあるそうな。ただし、公共の秩序を変えるような危険を冒してよいのは、最大の危機の場合だけと釘を刺しながら。最大の危機とは祖国の存亡にかかわる事態で、それ以外は法の神聖な力を止めてはならないという。
「法の非柔軟性は、事が起ったさい、法がこれに適応するのを妨げ、ある場合には、法律を有害なものとし、危機にある国家をそれによって破滅させることにもなりうる。形式の秩序と緩慢さとは、一定の時間を必要とするが、事情は時としてこれを許さない。立法者が少しも考えておかなかった場合が無数に起りうるから、人はすべてを先見することはできない、ということに気づくことが、きわめて必要な先見なのである。」

5. 政教分離
本書には、政教分離の原理を匂わせる部分がある。いや、絶望しているのか?支配者たちは世論を支配するために、しばしば神を利用してきた。改宗の義務までも、法によって被支配者に課してきた。人間の欲望は、土地を侵略するだけでは飽きたらず、精神までも征服せずにはいられない。その原理は、分かりやすい説得力や宣伝力を駆使して洗脳にかかる多数決の原理に受け継がれる。政教分離は古くから唱えられてきたが、本当の意味で政教分離を果たした国家は、まだ出現していないようである。
「市民的不寛容と神学的不寛容とを区別する人々は、わたしの意見によれば、まちがっている。この二つの不寛容は、分けることができない。のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神をにくむこととなろう。彼らを正しい宗教につれもどすか、迫害するかが絶対に必要である。宗教的不寛容が認められているところでは、どこでも、それは市民生活に何らかの効果を生まずには済まない。そういう効果が生まれるやいなや、主権者はもはや、世俗的な事がらについてすら、主権者ではない。」

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