2015-02-01

メタ化社会か、メタメタ化社会か

主体を観察しようとすれば、客体の眼を要請し、互いに立場を交換しあうことになる。客観だけでは心許無い、ましてや主観だけでは危険だ。主体が魂となれば尚更。そこで、主体が主体を導くような仕掛けを欲する。こいつは、既に自己矛盾に陥ってやがる。魂の持ち主は、永遠に己を知ろうとし、また永遠に己を知り得ないということか...

あらゆる学問分野で、それ自体を研究対象とするための「メタ(meta)」という用語を見かける。メタ認知、メタ言語、メタマテリアル、メタ数学などなど。この用語には、高次の... 超... などの意味があるが、客観性や抽象化といった意味も含まれる。自己を見つめようとすれば、自分自身を超越した能力を自我に求め、自分自身が第三者になりきろうとする。この、なりきった第三者ってヤツが厄介なことが多い。人間の欲望は衰えを知らない。知性や理性を高めれば、さらに高次の理想像を求めるは必定。そして、神にでもなろうというのか。エリートたちが上から目線となるのも至極当然。ならば、知性を高めても、理性を高めても、それだけでは危険ということになる。では、他に何を求めればいいというのか。
メタ精神に惹かれるのは、現実逃避への願望でもある。哲学することが心地良いのは、現実世界が真理からあまりにも乖離しているからであろう。それ故に、自己の及ばない次元を夢想できる。そして魂だけが、風狂の言葉を求めて放浪の旅へ出かけていくという寸法よ。幽体離脱した後には、ぺんぺん草も生えやしない。メタ精神ってやつは、自ら精神をメタメタにしていくものらしい...

ところで、メタ哲学と言うべきものに「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、超理念的な... といった思想観念を持ち上げる。対して、形あるもの、時間や空間などの物理量で測れるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神現象でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而よりも上にあると、どうして言えよう。哲学が自問の原理に支えられている以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自己にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお心が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となる。ときには、人間の掟に背き、自己に構築された原則を破り、あるいは、自分の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。ヘタすると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となり、肉体が自我に弄ばれるという寸法よ。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対しても残虐行為に及ぶ。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。惰性的な幸せを求めるだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は常になんらかの泥酔状態にあるだけに、自己陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。そう、強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでええんでないかい...

1. 騒がしい社会
主体が語り始めると、特権的な権利ばかりを主張し、そこに集団性が結びつくと、排他原理が働く。騒がしい社会では、自己の言葉ですら聞こえてこない。そして、理性者を自認する者の言葉がもてはやされる。もはや社会と距離を置き、自問の能力を取り戻さなければならない。だが、精神の限界に挑んだ者は、狂人扱いされ、社会から抹殺される。狂気を知らずして、どうして常識を知り得よう。
人間にとって、当たり前と思えることが、いかに心の拠り所となりうるか。なんの疑問もなく受け入れられることが、いかに幸せであるか。精神の存在自体が不確かなものなのだから、それも致し方あるまい。ある大科学者は、「常識とは18歳までに身につけた偏見の塊」と言ったとか言わなかったとか。ソクラテス風に言えば、無知を自覚できない者は永遠に無知であり続ける。つまり、人は誰もが無知だということだ。ならば知恵を身につけ、悪人になるしかないではないか。善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや... とはこの道か。そして、理性が暴走し、正義が暴走し、自己愛を強固にしながら一層手に負えない存在となっていく。
現代の天才は、古代の天才ほど神がかっている必要はない。現代の芸術家は、ルネサンス期の芸術家ほど偉大である必要はない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有徳者も有識者も昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。知性の凡庸化、理性の凡庸化とは、人間社会に何をもたらそうとしているのだろうか...

2. 相互理解
世間には、なんでも対話で片付くという楽観論がくすぶる。だが、互いに冷静さを欠く状況では、却って感情論を助長するだけ。仮想社会で、強いつながりよりも弱いつながりを求めるのは、それなりに合理性がある。関係が近すぎるから、互いの存在を意識し過ぎる。社会で優位に立とうとすれば、互いに弱みを握ろうとする。これすべて自己防衛本能の裏返しだ。相手が心地良い存在であり続ければ問題ないが、人間関係にそんな理想像は描けない。少しでも機嫌を損なうと、それが溜まりに溜まり、やがて罵り合い、傷口に塩を塗るような発言を繰り返す羽目に。
関係とは、間合いをはかること。互いに意識しないこと、互いに距離を置くことが効用となる場合が多々ある。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求める。個人には意思があるだけに、個人からも、社会からも影響される。そして、人間嫌いにもなれば、社会嫌いにもなり、挙句の果てに自己嫌悪に陥る。SNSを増殖させる社会では、SNS嫌いも増殖させる。相互関係で距離をはかることも、メタ思考としておこうか...

3. メタ言語
プログラミング言語には、自己ホスティングという概念がある。言語系自体が解析処理まで記述できる能力を持つということだ。古来、自然言語にもそうした試みがある。母国語の研究は、ひたすらそれ自体の言語で記述されてきた。客観的な観点を与えるために、外国語で記述すればいいというものではない。言語体系そのものが、精神を投影するという自己矛盾を孕んだ存在なのだから。すなわち、言語を語るとは、自分を語ることであり、ひいては人間を語ることになる。そして、人類の普遍性なるものを探求すれば、自然言語がどこまでメタ言語になりうるか?これが問われるであろう。
しかしながら、母国語に対しては、どうしても愛着と贔屓目で見がちだ。外国語との比較によって、母国語の特徴をより鮮明に映し出すことはできるだろう。いずれにせよ、万能な言語はこの世に存在しない。もし存在するとすれば、人間は精神の正体を知ったことになる。いや、ひょっとすると既に知っているのかもしれん。だから、躊躇なくメタメタ化社会へ邁進できるのかは知らんよ...

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