2015-06-14

"エミール(上/中/下)" Jean-Jacques Rousseau 著

おいらは、教育論ってやつが嫌いだ!説教じみていて、こそばゆい。素直に耳を傾けられないのは、心が歪んでいる証であろう。しかしながら、こいつが禁書に指定されたというだけで、天の邪鬼には読む理由となる。
本書には「マルゼルブへの手紙」が付録され、ルソーは憂鬱症で精神破綻を起こしていた頃の心境を告白しながら、自らスケッチ風の自画像を描いている。惚れっぽい酔いどれは、彼の自伝書「告白」へ向かう衝動を抑えられそうにない...
尚、今野一雄訳版(岩波文庫)を手にとる。

プラトンは、徳は教えられるものなのか?と問うた。徳が知識で説明できるならば教えられるだろうし、徳の持ち主に弟子入りすれば教育によって導けるはず。だが、有徳者や有識者と呼ばれる者の子供ですら犯罪をやる。どんなに優れた教育を大勢に受けさせても、同じ人間性が形成されるわけではない。人間の個性とは、それほど多様性に富んだ手強い存在だ。
教育の場では理論よりも実践が重んじられ、理想像を語り尽くしてもなんの解決にならないどころか、却って有害になることもある。そもそも教育とは、大人が子供を教えるといった類いのものなのか。偏差値といった成績の数値化によって得意科目がなんであるか、などと子供に暗示をかけているだけということもあろう。好きな先生と嫌いな先生というだけで、興味のある分野が変わるということもあろう。むしろ大人の方が、子供から学ぶことが多いのではないか。教育の場は、医療の場と似ている。神経学者オリバー・サックスはこう語った... 病とは、医師が患者を治してあげるといったものではない... と。
教育に限らず、先生と呼ばれる分野は、どうしても権威主義に陥りやすい。義務教育で無理強いされた文学作品にずっと拒否反応を示し、ようやく読めるようになったのは悲しいかな三十路を過ぎてから。おそらく作家の名を知らなければ手軽に本屋で立ち読みをし、もっと早く文豪に出会うことができたであろうに。
しかしながら、子供には大人の権威を必要とする時期がある。まず、神学や哲学をいつ導入するかという問題がある。特に宗教を教えるタイミングは難しく、むしろ好奇心が自然に生じることを期待した方がいい。救いを得るために神を信じなさい!これほど筋の通らない教理があろうか。だから、大人になっても子供じみた神の他に、神というものを想像できない。数理学者レイモンド・スマリヤンはこう語った... 私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!... と。
宗教は盲目的に神の権威を教えるだけに、自分で思考する力を放棄させかねない。そして、神の代弁者を狂信する。哲学は論理学と相性がいいだけに、巧みな言い訳をする術を会得しかねない。そして、屁理屈屋となる。真理探求者の資質は、建設的な懐疑心と啓発された利己心に支えられている。だが、懐疑心も利己心も、一旦暴走を始めると手に負えない。
大人たちは、子供の気持ちが理解できると思い込んでいる。それもそのはず、自分自身にも子供の時期があったのだから。だが、知識が精神を歪ませ、もはや知識を知らない頃の自分を思い出せない。十代と五十代では、もはや人格が違う。金銭や地位で人間の価値が評価される社会に慣らされれば、それ以外の価値が何の役に立つのか!と大人たちはもっともらしい事を言う。いくら自然的な良心に訴えたところで、巧みに利用する法律の方が遥かに絶大な力を持つ事は、誰でも心得ている。真に有用を体得した人間が、どれだけいるというのか?知識ってやつは、受容できる心構えがあって初めて有用となる。受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を押し付けることは、人間が人間でなくなることを期待するようなものだ。そして迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。大人だって大きな子供でしかない。R-18 指定すべきは、大人たちが声高に唱える理性や知性の方かもしれん...

ところで、おいらには恩師と呼べる先生が二人いる。
一人は、小学校一、二年生と五、六年生の時に担任だった女性教師。一年生の時は何度ビンタを食らったことか。ちょっとでもズルをしたり、誤魔化そうとするだけで猛烈に叱られ、当時、恐怖心しかなかったような気がする。おまけに、母親と同年代で妙に気が合ってやがる。今時こんな教育をしたら、体罰問題で失職するだろう。ところが、上級生になると、優しく諭す態度に変貌していた。諭すというより暗示すると言った方がいい。鬼から穏やかに間違いを匂わされると、余計に応える。やがて妙に通じ合い、ある日、優しくなったのはなぜですか?と尋ねたことがある。すると、子供の教育は小学校低学年までが勝負!と熱心に教育論を語ってくれた。あまり幼い子を叩くと、それこそ虐待になる。間違いを犯した時に徹底的に叱る!そのようなことのできる時期は、意外と短いのかもしれん。教師に自尊心があれば、子供にも自尊心があるということだ。
もう一人は、中学校三年生の時に担任だった理科の男性教師。やたらと「節度」という言葉を口にしていた。哲学的に重々しく語るわけではなく、はしゃぎ過ぎたり、天狗になったりなど、子供っぽい態度を具体的に注意する。当時は大して気にもかけなかった言葉だが、もしかしたら哲学用語の「中庸」という意味で使っていたのかもしれない、と思うようになったのは大学生の頃。ちなみに、中庸の原理を唱えない偉大な哲学者を、おいらは知らない。
さて、積極的に学ぶという意志を起こさせるにはどうすればいいか?教育とは、これに尽きるような気がする。教師は、そのきっかけをつくることだけに専念すればいいのでは。自発的な好奇心こそが自由精神の源、弟子には常に積極的に学んでいるという意識を植え付けたい。専門的で高度な知識を学びたければ、書籍という良い教師がある。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...

1. ルソーの批判対象
本書は、エミールという平凡な人物の誕生から結婚まで、自然という偉大な教師に従って、いかに導くかを提示した物語である。そして、子供の発達状況に応じた教育をすべきだというテーゼを持ち込む。哲学者と教育者の違いは、哲学者はいつも正論を語ろうとするが、教育者は必要な時に少しずつ語る、といったところであろうか。お喋りでは、教育者は勤まらない。エミールの教育法が段階的に、しかも具体的に提示されるだけに、自分の子をすっかりこの通りに育てようとする親もいると聞く。だが、それはルソーの本意ではあるまい。教育哲学が教育論の奴隷になっては本末転倒、そこまで期待しては宗教教育となんら変わりはない。
「ああ、徳よ、素朴な者の崇高な学問、これを知るにはそれほどの労苦と道具が必要なのだろうか。その法則はすべての人の心のうちにきざみこまれているのではないか。だから、それを学ぶには、自分をかえりみ、情念をしずめて、良心の声にかたむけるだけでいいのではあるまいか。これこそほんとうの哲学だ。わたしたち平凡な人間はこういうことで満足することにしよう。」
ルソーは、人間は生まれつき善で、人間社会こそが人間を堕落させるとし、自然礼賛と人為排斥の教育論を展開する。そして、ロックやホッブスの自然状態を教育の場に持ち込むことを批判している。子供の感情的な情念に訴えるには、論理学的過ぎるきらいがあるのは否めない。
あるいは、女性にも男性の仕事や訓練をさせよとしたプラトンの国家論を批判している。女性にしかできない授乳や妊娠という仕事があり、自然的な平等主義に対して人為的な平等主義を否定している。
確かにプラトンやロックを批判しているが、結局は同じ哲学に帰するように映る。
また、ルソーは、法が自然的な存在であると主張したモンテスキュー思想を批判したことでも知られる。「法の精神」も同様に、教会や司祭の権威が自然的でないと批判したがために、禁書目録に加えられた。
いずれも、ルソーの批判対象はどうも腑に落ちない。愛情表現の裏返しとして、わざと悪く言う人はいる。称賛しているからこそ批判対象にもできる、という見方もできるかもしれない。そもそも精神を完璧に語れる者などいるはずもなく、どんなに偉大な哲学書でも、言葉の揚げ足を取ろうと思えばいくらでもできる。ルソーの性格までは知らんが、もしかして皮肉屋か?皮肉や愚痴ほど本音が出やすいものはあるまい。ちなみに、おいらは愚痴屋である。チームには、常に愚痴の言える空気を漂わせておきたい。しかも笑って言えるうちに...

2. 教育の矛盾
「世間の教育は二つの相反する目的を追求して、どちらの目的にも達することができないのだ。それは、いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間をつくるほかに能がない。ところが、そういう見せかけは、すべての人に共通のものだから、だれもだませない。すべてはむだな心づかいということになる。」
ルソーは、公共教育と家庭教育の双方の思惑から矛盾を生み出し、中途半端な教育を生み出し、人間形成もまた中途半端に終わると指摘している。ただ、教育にもいろいろな形があり、教師や教科書によって教えられるものとは限るまい。思慮分別や判断力ってやつは、極めて経験的で、学習的で、反面教師という形で実践されることもある。自然的な教育を掲げたところで、いつの時代も人間は自然を解せないでいる。そりゃ、公共教育で自然的な最低基準を示すことができれば、それに越したことはないが...
また、社会が知恵と称するものは、卑屈な偏見に過ぎないと指摘している。習慣というものは、屈従と拘束に過ぎないと。確かに、社会人は奴隷状態を生き、その中で死んでいく存在でしかない。むしろ教育論の対象は、純真な子供心を思い出させる大人の側にあるのかもしれん。まず、第一の義務は自分に対する義務、それは自分を欺かないことであろうか...
「人間の運命はいつも苦しんでいることにある。自分をまもろうとする心づかいにも苦労がともなう。子どものころ肉体的な苦しみしか知らなかった人は幸せだ。肉体の苦しみはほかの苦しみにくらべればはるかに残酷でも、そのために生きることを断念するようなことはめったにない。痛風を苦にして自殺する人はいない。絶望に追い込むのは心の苦しみ以外にはないといっていい。わたしたちは子どもの状態をあわれむが、あわれむべきはむしろわたしたちの状態だ。わたしたちのもっとも大きな苦しみの原因はわたしたち自身のうちにある。」

3. 言葉の欺瞞
言葉は人を欺く。語彙の数よりも観念の幅の方が重要か。言葉を知れば泣く必要がなくなり、これは自然の進歩である。だが、泣く行為が喋る行為に代替されるだけで、精神が成長しているとは言えまい。そして、泣くという抽象的な行為よりも、喋るという具体的で合理的な行為を知った結果、苛立った相手を叩いたり、殴ったりするよりも、より高度な言葉で陰湿に攻撃する方がダメージは大きい、ということを知るに至る。自分に欠けているものを探すのは、自然の欲望であろう。そして、知識の源となる言葉を求め、精神の成長を図ろうとする。問題は、何が欠けているかを見失うことだ。酔いどれには、人間らしい生き方が一向に見えてこない。やはり惨めな存在か。人間が創りだしたものは、愚劣と矛盾だらけ。歳を重ねるごとに命を惜しみ、ますます自己保存に執着する。人間五十年と言うが、五十を過ぎてもまだ生きたとは言えないとしたら、実際に死ぬことは辛い。執着するものすべては人間が創りだしたものだ。人生の長さほど不確定なものはない。子供の学ぶ貴重な時間を奪っているのは大人の方かもしれん...
「子供の語彙はできるだけ少なくするがいい。観念よりも多くの言葉を知っているというのは、考えられることよりも多くのことが喋られるというのは、非常に大きな不都合である。都会の人に比べて一般に農民がいっそう正しい精神の持ち主である理由の一つは、彼らの語彙が限られていることにあると思う。」
大人は子供に嘘をついてはならないと説教を垂れる。だが、現実を嘘で塗りたぐっているのは大人どもだ。本音と建前は、教育なんぞで学ぶものではなく、自力で獲得するもの。つまり、大人を反面教師にした結果である。イジメは悪いことだと教えても、メディアが集中砲火を浴びせかければ、なんの説得力もない。国会という最高権威の会議でヤジが飛び交えば、生徒会でも真似をする。しかも正義漢ぶって。大人は子供に義務を押し付けるが、大人自身が義務から逃避している。高度な道徳の持ち主とされる政治家ですら、説明責任を果たせないでいる。大人たちは子供を導くために、競争心、嫉妬心、自尊心、羞恥心、虚栄心、恐怖心といったものを利用するが、これらは同時に精神を腐敗させる情念である。人間の精神力は、自然の事象に対してじっと耐えることができても、人間の悪意に対しては我慢できないものだ。尚、この言葉は、ジャンク長文を書き続けるアル中ハイマーには実に耳が痛い!
「一般的にいって、わずかなことしか知らない人は多くのことを語り、多くのことを知っている人はわずかなことしか語らない。無知な人間は自分が知っていることをなんでも重要なことだと思い、だれにでもそれを話す、これはわかりきったことだ。」

4. 幸福論
同情は快い。悩んでいる人の位置に自分を置き、しかもその人のように自分は苦しんでいないことを確認できるのだから。羨望の念は苦い。幸福な人を見ることは、自分の不幸を確認することだから。すべては人と人の関係から生じる情念に支配されている。ならば、本当の幸福は孤独の方にあるのでは。だが、真の孤独を味わえるのは、恋愛や友情を謳歌した者であろう。人間関係を謳歌できる者もまた、孤独を知らねばなるまい。結局、同時に知ることになるとすれば、孤独もまた人間関係の中にある。双方を味わうことでしか知り得ないのは、相対的な認識能力しか持ちえない者の宿命か。
ルソーは、幸福に関する三つの格率を提示している。

第一の格率「人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。」

第二の格率「人はただ自分もまぬがれないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。不幸を知っていればこそ不幸なかたをお助けしたいと思う。」

第三の格率「他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。」

5. サヴォワの助任司祭の信仰告白
第四篇には「サヴォワの助任司祭の信仰告白」と題する章があり、ルソー研究には欠かせないものだそうな。どうやら彼自身の体験談のようである...
30年前、イタリアのある町で窮乏に陥った青年が、馬鹿げたことをしでかして逃亡者になったとさ。もともとはカルヴァン派であったが、パンにありつくためにカトリックに鞍替えし、改宗者のための救護院に入る。そして、議論によって導く教育を強制され、経験のない者を盲目という教理によって閉じ込められる。少しでも疑念を抱けば断罪され、盲目の中で共犯者が大量生産される。
「宗教は利害をかくす仮面にすぎず、神聖な儀式は偽善をかくすものになっているにすぎないと青年は見ていた。微妙なむなしい議論のうちに天国と地獄がことばあそびの褒美になっているのをみていた。」
そんな中、一人の誠実な聖職者が逃亡を手助けしてくれたという。サヴォワ生まれの貧しい助任司祭で、彼もまた若い頃の過ちのために国外へ逃亡した経験がある。聖職者は、恩恵を売りつけたり、説教することもなく、いつも青年の能力に応じて物事を語ったという。
「知力の低下がある程度に達すると魂は生命を奪われる。そして内面の声は食うことだけを考えている者にはどうしても聞こえない。不幸な青年があと一歩で精神的に破滅しようとしているのを救ってやるために、聖職者はまず青年に自尊心と自分自身にたいする尊敬の念をめざめさせようとした。」
人間は、単純な存在か、複合的な存在かは知らん。ただ、神秘があるだけといえば、そうかもしれん。真理という得たいの知れないものを、存在するかどうかも分からないものを、探求することで心地良さを感じるのだから。だが、虚偽で固められた哲学の信仰は、盲目に崇める宗教となんら変わりはない。知識は自ら知性へ導くものであるはずが、いつの間にか議論によって相手を説き伏せようとする道具に成り下がる。神を信じる人々の中から無神論者が生じ、無神論者の中から神を信じる者が現れるのも道理であろう。深い無知の状態こそが人間状態というものであろうか。哲学をやること自体が、堕落への道なのかもしれん。人は混沌の中を生き、裕福でもなお自殺しよる。動物たちが幸福そうに見え、精神を獲得した王者が惨めだとはこれいかに?人間と動物の違いは、人為的な奴隷か、自然的な奴隷かの違いか。人間は自然よりも下等な人間社会の奴隷に成り下がる。
では、人間社会で持ち上げられる義務とは何か?盲目的に秩序を維持することか?自然の秩序を都合よく解釈しては社会の秩序に置き換える。社会風刺の映画や小説の活況ぶりが、それを示している。善人が幸福になり、悪人が不幸になる社会ならば、皮肉や風刺といった文化は生じないだろう。正義は、いつも政治の手段に成り下がる。
「神というものはないなら、悪人だけが正しい推論をしているのであって、善人は愚か者にすぎない。」
おそらく神は聡明なのだろう。ただし、どんな風に聡明なのかは知る由もない。おそらく神は正しいのだろう。ただし、どんな風に正しいかは知る由もない。大人になればなるほど、良心を誤魔化す術を会得し、しかも道徳的な判断と大層な看板を掲げる。人間は生まれつき善だとしても、どうせ堕落するならば、生まれつき悪だとしても結果は同じなのでは?ルソー先生!いや、生まれつき悪だとすれば、逆に善へ変貌するかもしれない。いやいや、この方面でエントロピーの法則は絶大のようだ...

6. マルゼルブへの手紙
マルゼルブという人物は、名門の出で、図書局長官の職にあり、進歩的な思想家に好意を寄せていたという。「エミール」の出版にも便宜をはかったとか。
ルソーは憂鬱症だったとも言われている。引き篭もると、その態度がキザと見られ、哲人気取りの犠牲になって惨めな状態にあると評判されたという。その反論が手紙に綴られ、特に友人たちが言いふらしていることを残念に思っている様子がうかがえる。これは、ある種の精神破綻であろうか。哲学者なら誰でも孤独愛好家となる資質を持っているだろう。それは虚栄心との戦い、自己嫌悪との戦いである。一度名声を獲得すると、不幸な人間と思われることが、それほど辛いのか?それほど悔しいのか?ルソーほどの人物でも、尊敬を得たいという願望は心の底のどこかに残っているようだ。そんなことが虚しいことだと自己を説得したところで、完全に捨て去るにはよほどの精神修行が必要であろう。
引き篭もりの原因は、手の付けられないほと強い自由な精神にあると告白する。地位や財産や名声までも無意味とする精神にあると。自由な精神は、傲慢な心からきているのではなく、むしろ怠惰な性質からきていると。社会生活のほんのちょっとした義務にさえ耐えられないと。評判に惑わされている自分自身が情けないのかもしれん...
また、ルソーは、エミールの本文中で読書家を批判している。
「書物の悪用は学問を殺す。人々は、読んだことは知っているのだと思い、自分はそれを学ぶ必要はないと思い込んでいる。あまりたくさん読むことは、なまいきな無学者をつくるのに役立つにすぎない。文学が栄えたすべての時代のなかで、現代ほど書物が読まれていた時代はないし、現代ほど人々がものを知らなかった時代もない。」
彼自身が、日々読書を重ねてきた。読書を嫌悪するのは、真の読書家の宿命であろうか。そして、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは、哲学者の宿命であろうか。それでもなお、その衝動が抑えられないのは、真理に身を捧げることがいかに心地良いものかを物語っている。宗教は、精神を病んだ人の心の隙間に巧みに忍び寄る。真理は、健全な精神の持ち主までも虜にする。やはり人間は、慢性的に依存症を抱えているようだ...

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