2015-06-07

"人間復興の経済" Ernst Friedrich Schumacher 著

「自明の理はいとも容易に忘れられる。既存の経済秩序も、それを再建するために進められる多すぎるほどの企ても、自明の理を無視すれば倒壊する。つまり、一般民衆は魂を持っているので、物質的な富がどんなに増えても、彼らの自尊心を侮辱し、自由を傷つけるような所業を償えるものではないという真理を無視すれば、失敗に帰するのである。経済の組織を正当に評価するには、放縦な人間の本性から繰り返される暴動によって、産業が麻痺しないように、純経済的でない判断の基準をも満足させる必要があるという事実を認容しなければならない。」
... R. H. トーニー

原題 "Small is Beautiful." には、「あたかも人間を重視するかのような経済学の研究」という皮肉な副題がつけられる。経済学者エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーは、手段に邁進する生産経済を批判する。経済学の問題は、哲学に帰するはずだと。実際、現代の経済政策は、消費を煽ることを基調としている。これは、巨大主義と物質主義のはびこる近代社会への挑戦であろうか...
「ケインジアンのご信託はしごく明白である。御用心!道徳的な配慮は全然無関係であるだけでなく、実際には障害である。不公正は有益であっても、公正は有益ではないのだから、公正の時代はまだきていない。天国への道は悪しき意図によって舗装されている。」

本書は、特に資源エネルギーの破壊的消費を問題視している。実際、エネルギー問題は常に環境問題と結びつき、これを安全に解決できる手段を、人類はいまだ見出せないでいる。科学や技術は、発明したのではなく、法則を発見したに過ぎないというわけか。地球は誰のものか?と子供が問えば、それはみんなのもの!と大人は答える。だが、天然資源で儲けているのは、一部の大人どもだ。土地も、化石燃料も、すべて所得や資本で計算される。自然資源を浪費する自滅的な活動を、自然界は不合理と呼び、経済界は合理的と呼ぶ。マルクスでさえ有用な資本をすべて労働と結びつけ、あらゆる資本を人間の価値として捉えた。人間が生きるということは、食料資源やエネルギー資源を消費することを意味する。そもそも、自然に対して多大なリスクをかけなければ、これだけの人口を支えることは不可能である。
しかしながら、経済体制と社会制度の維持といった側面からしか人口論は語られない。少子化問題ですら、大人たち自身の老後の面倒を見てもらうために、たくさん子供をつくりましょう!という有り様。どんな自然の生物にも数の限界というものがあり、過度になれば自己消滅してきた。人類が自然と折り合いをつけるならば、地球上の適切な人口というものがありそうなものだが...

「文明人はほとんどいつも、一時的に環境の主人になることができた。一番やっかいな問題は、一時的に主人であるにすぎないのに、永久にそうだという幻想を抱くことである。自然の法則を十分理解できないのに、自分自身を世界の主人であると考える。」
... トム・デールとパーノン・ギル・カーターの著作「地表と文明」より

1. 平和論
「平和のもっとも健全な基礎は全世界的な繁栄であるというのが、近代の支配的な信仰である。富めるものは常に貧しいものよりいっそう平和的であるという歴史上の証拠を探し求めても無駄であろう。しかも彼らは貧しい者に対して安全だと感ずることは決してなく、彼らの侵略性はこうした不安に根ざしている。」
富めるものが、戦争に行く理由がどこにあろう。すべての人々が豊かになれば、事情は変わるかもしれない。だが人間は、決定的な悲しい性(さが)の持ち主である。自意識過剰な上に嫉妬深く、ライバルを蹴落とさずにはいられない。自分が幸せに生きるだけでは満足できず、困窮に瀕すれば内乱に没頭し、少し余裕ができれば戦争をやりたがる。
富とは、相対的な価値でしかない。無限に求める者がいる一方で、国が豊かになり、GDPが高くなっても自殺者は減らない。はたして、全世界が繁栄することは可能なのか?自己抑制の物質主義は実現可能なのか?そして、それは平和への道なのか?泥酔者のおいらにはとんと分からん。ドロシー・L・セイヤーズは、「戦争は一つの審判」とし、こう語ったという。
「宇宙を支配する法とあまりにもひどく矛盾する思想によって社会生活が冒されているとき、そのような生活は突然戦争に襲われるものだ。戦争を不条理な災厄と決して考えるな。戦争は、思想と生活様式が耐えがたい状況をもたらすときに起こるものである。」
ここでいう戦争には、金融危機やデフォルトの類いも含めておこう...

2. 中道の経済学
ガンジーは、こう言ったという。
「地球はすべての人間の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての人間の貪欲を満たすほどのものは提供しない。」
今日、草食系人種が経済社会に閉塞感をもたらすという意見を耳にする。だが、みんながみんな肉食系となって自然資本を浪費すれば、人口を維持することも難しい。若年層の失業問題を抱えている中で、自発的に仕事を放棄する者も必要であろう。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。市場は個人主義と無責任を制度化したものかは知らんが、アダム・スミスは完全な自由放任主義を支持したわけではあるまい。
今日、成功と呼ばれるものは、本当に成功しているのだろうか?世間では、勝ち組と負け組で区別されるが、それは合理的な分別であろうか?自己を優越したいがために、そのような枠組みをこしらえるだけではないのか。真の成功者は、自ら優越する立場を必要とはしないだろう。そんな感覚すら持ち合わせないのかもしれない。貪欲と嫉妬に駆り立てられる者は、物事を立体的に、総合的に捉える力を失い、成功の概念までも見失うだろう。
「物質主義者は主として財に関心を持つのに対して、仏教徒は主として解脱に関心を持つ。しかし、仏教は中道主義であり、このため物質的福祉に決して敵対するわけではない。解脱の道に立ちはだかるのは富ではなく、富への執着であり、愉快な事柄を愉しむことではなく、それを渇望することである。したがって、仏教経済学の基調は簡素化と非暴力である。」

3. 技術の節度
アインシュタインは、こう言ったという。
「ほとんどすべての科学者は経済的に完全に依存しており、社会的責任感を持っている科学者は非常に少ないので、彼らは研究の方向を決定することはできない。」
ほとんどの人は、世論に基づいて仕事をしている。世論に依拠する政治家は、経済主義の拘束から解放されない。逆に言えば、どんなに野心的でスキャンダラスな人物であっても、おまけに危険な思想の持ち主であっても、経済政策さえうまくやれば黙認される。それを監視すべく世論もまた、最も危険な集団性の問題を抱えている。巨大化と官僚化の原理に、権威主義が絡むと、ろくなことはない。人間社会は一旦悪循環を始めると破滅までいくものらしい。
さて今日、技術思想を支えているムーアの法則には、本当に限界がないのだろうか?トランジスタの集積化にもそろそろ息切れを感じなくはないが、度々直面する問題を新技術が解決してきた。そして、量子コンピュータが更なる加速をもたらすであろうか?
そもそも、人間は電子を完全に制御できているわけではない。電流や電圧はあくまでも統計的な物理量であって、個々の電子を制御しているわけではなく、極めて確率論的だということだ。ある条件下で多数決的にスイッチング制御するという意味では、民主主義的ですらある。
したがって、明確な条件下でなければ論理的な機能を果たせず、曖昧な条件が少しでも紛れ込むと簡単に暴走を始める。人間自体が量子で構成された存在なのに、はたして量子を個々に制御できるのか?という自己矛盾を孕んでいるわけで、ごく少数派でマクスウェルの悪魔君に支配されているだけのことかもしれん...
「自然はつねに、いつどこで止まるべきかを知っている。自然の成長より大きな神秘は、自然的成長の停止の神秘である。すべての自然的事象には、規模、速度あるいは激しさにも尺度というものがある。その結果、自然の体系(人間はその一部であるが)は自己均衡、自己調整、自己浄化の傾向を持っている。技術にはそれがない。いや、技術の特殊化によって支配された人間にはそれがないと言うべきかもしれない。」

4. 沈黙思考
「思慮分別の真髄は、善いことをなすのには現実に関する知識が前提となるというものである。物事とその状況がいかなるものであるのかを知るものだけが、善いことをなしうる。思慮分別の真髄は、いわゆる善意ないし十分な考えだけでは決して満たされはしない。」
客観性は、人間の利己心を一次的に抑制する「沈黙思考」による以外には成就できないという。しかしながら、完全な思慮分別を獲得することは不可能であろう。大声で主張する者が優位な立場になれるのが人間社会というもの。沈黙が真の力となった時、人間社会が成熟した証ということかもしれん...
「正義は真理にかかわり、堅忍不抜は善にかかわり、克己は美にかかわる。そして思慮分別はこれら三つのすべてにかかわる。」

5. 知性論
教育が専門化によって没落するという考えは、誤解だという。専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることだという。つまり、形而上学的な観点が欠けていると。
今日では、政治も、経済も、科学も、技術も、あらゆる分野で手段を講ずることに没頭する。哲学的な問題はすべて解決済みと言わんばかりに。知識が豊富だからとって、知性が磨かれるわけではない。むしろ知識は、人を馬鹿にするための道具となるばかりか、危険な存在にも十分になりうる。実際、有識者たちですらいつも憤慨しているではないか。知識が豊富でも精神は平静ではいられない。有識者がこの有り様では、利己心に憑かれたおいらには、知性や理性なんぞ永遠に無縁だし、道徳なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
「知ることは悲しいことである。それをもっともよく知るものは、宿命的な真実を深く悲しまなければならぬ。知識になる木は人生の木ではない。」

6. 貧困問題
「ガンジーが言ったように、世界の貧困は大量生産によってではなく、大衆による生産によってのみ救われる。」
社会が豊かになってもなお、大量失業と都市への大量移住に歯止めがきかない。有識者たちは、社会福祉が充実していないからだと主張するが、支援殺しにしてはいないか?堕落へ導いてはいないか?豊かな者はいっそう豊かになり、貧しい者はいっそう貧しくなる。こうした状況は規模こそ違えど貧困国とて同じようで、貧困国への援助は、官僚化や腐敗化の餌となっている。貧困国における開発の問題は、経済学の問題というより、むしろ教育や政治の問題であるとの意見をよく耳にする。本書も、その例に漏れない。知識も、技術も、受け入れる度量と心構えがいる。最新技術を導入したところで、効果は上がらないし、むしろ中間的な技術が必要だと主張している。
「すべての思考の出発点は貧困であり、人間をみじめにし、堕落させ、はずかしめる貧困の度合である。この貧困の度合がどこまで及んでいるのかを認識し、理解するのが、われわれの最初の仕事である。ここでもまた、野蛮な物質主義の哲学は、物質的機会だけをみて、非物質的要素を看過しがちである。貧困の原因の中で、物質的要素つまり自然の富の不足、資本の不足あるいは社会資本の不足などはまったく二次的なものである。極貧の第一の原因は非物質的なものであり、教育、組織そして訓練の欠如の中にある。」

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