2015-06-28

"孤独な散歩者の夢想" Jean-Jacques Rousseau 著

自己弁明の書「告白」の余韻が残る中、ついでに自己愛惜の書にも触れてみる...
ルソーは、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールら啓蒙思想の主流派と対立し、教育論「エミール」が禁書に指定され、スイスへ亡命。そして、かつての友人らの批判と、公衆からの迫害に反論し、自伝書「告白」を執筆した。病的なほどの自己弁明のために朗読会を催して失敗するなど、晩年のルソーはかなりまいっていたようである。
「こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかにはともに語る相手もいない。だれよりも人と親しみやすい、人なつこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されてしまった。」
ルソーは思い出を考察し、自己の性格を改めて確認しようと試みる。「夢想」は、「告白」に続く付録であると語り、異常な興奮と激情のうちに綴られる。この書には、かつてのような周到な計画が見られない。そして、完成を見ることなく、パリ郊外エルムノンヴィルで世を去る。
尚、翻訳版がいろいろある中で、今野一雄訳版(岩波文庫)を手にとる。

世間では、不信心者、無神論者、気違い、過激派など、まるで怪物のような言われよう。「永久平和論」の編者が不和を鼓吹し、「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の作者が不信心者で、「新エロイーズ」の著者が狼で、「エミール」の論者が過激派というのか。必死に反論したところで、罵詈、誹謗、嘲笑、汚辱の雨は強まるばかり。個人は死んでも集団は滅びず、憎悪の情念は長く伝えられ、悪霊とともに不滅だ。
ならば対抗策はただ一つ、俗世間から距離を置くこと。 寒山拾得のごとく。忙殺の日々に、自己と語り合う時間などなかなか訪れるものではない。死までにそのような機会が訪れるのは、幸せなのかもしれない。不遇な運命がそうさせるのか。強い感受性がそうさせるのか。おまけに、孤独の試練が憐憫のある人物像に仕立て上げる。はたしてルソーは、自己を不動の境地へ導けたのだろうか?あのデルフォイの信託、汝自らを知れ!これほどの難題があろうか。孤独とは、完全な自己中心の世界。究極の自己満足の世界へようこそ!

人はみな、自己を救済できる領域を確保しながら生きている。魂の最後の砦が孤独ってやつか。不幸な思い出には、存分に言い訳し、曲げて解釈することができる。妄想の完全解放だ。人間ってやつは、自己中心的な性質を持っている。そうでなければ、自己存在の意義も薄れるだろう。それを抑制しようとするから、理性のような観念が薄っすらと浮かび上がる。おそらく自己中心的な性質を完全に排除すれば、善悪の区別もできなくなるだろう。集団生活で忌み嫌われる孤独ってやつが、真の安らぎをもたらしてくれる。孤独を恐れる者ほど、激情を爆発させやすい。ルソーは、ようやくその事に気づいたのか。幸福でありたいと願う者を、他の者が本当に不幸にすることはできまい。無我の境地を誰に妨げることができよう。
アテナイの賢人ソロンは老年になって、しばしばこんな句を唱えたという。
「わたしはたえず学びつつ老いていく。」

1. 自尊心について
ルソーは、もともと自尊心が弱く、社交界や文筆界を生きていくうちに次第に強くなったという。「人間不平等起源論」では、自己愛と自尊心を区別し、自己愛は自己存在との関係から自然に生じる観念で、自尊心こそ人間社会が生み出した悪徳の元凶だとしていた。本書でも、人を常に不幸にするものは自尊心だとしている。自尊心によって語られる理性は騒がしく、攻撃的で寛容性など微塵もないと。憎悪と敵意は愚かな自尊心によって生じると。
「自己に対する尊敬は誇りをもつ魂の最大の動因である。自尊心はいろんな幻想を描いてみせ、姿を変えておのれを自己に対する尊敬ととりちがえさせる。しかし、やがてそのごまかしが明らかとなり、自尊心が隠れていられなくなれば、もうそれを恐れることはないので、その息の根をとめるのはむずかしいが、少なくともそれは容易に押さえられる。」

2. 真実を語る義務
「告白」を書いたときほど、自分が生まれつき嘘に対して嫌悪を抱いているかを感じたことはないという。社交界の人物を実名で綴れば暴露本と化し、ヤジ馬どもが群がる。哲学書というより、芸能雑誌の類いか。真実ならば何を語ってもいいというのか?正義は、むしろ沈黙の方にあるのでは?ルソーも悩んだことだろう。その結果、臆病な性格を押し殺し、却って攻撃的になろうとは...
現在でも、普通の人は隠し事など持つはずがない!などと発言する有識者どもがいる。彼らはマスコミ天国でも唱えているのか?きっとそういう御仁は、自宅の映像をネットに公開されても、怒ったりはしないだろう。人生とは、恥の中を生きるようなもの。すべての基準は、理性に委ねられる。真偽と善悪をどう結びつけるか。偉大な文学作品とて、嘘で固められているではないか。馬鹿正直というものもある。誤謬と無知とでは、どちらが悪か?罪になる嘘があれば、罪にならない嘘がある。語るべき真実があれば、沈黙すべき真実がある。人間とは、おめでたい存在だ。自己欺瞞にも気づかないのだから。道徳本能など当てにできるか!公平無私など糞食らえ!
... などとルソーが思ったかは知らんよ。

3. 老年の意義
知らぬが仏という苦々しい経験がある。知らぬ方が望ましいという知識が確かにある。逆境は偉大な教師だが、あまりにも授業料が高い。しかも、老年で悟るには辛い。自我を研究しても、知った時にはもう遅い。だからといって、未成熟なままで、告白などという遠大な計画に挑んでも、精神を歪ませるだけ。人生とは、後悔で締めくくられるものなのかもしれん。いや、懺悔か。人間とは、知識と誤謬の狭間を彷徨う存在でしかないのかもしれん。
せめて平穏を取り戻し、死へ向かう心の準備を整えたい。これが老年の意義であろうか。社会の喧騒は、静かな瞑想など与えてくれない。欲望の騒がしい魂では、自己陶酔に浸ることもできない。詭弁の巧みな連中に、いつまで翻弄されているのか。雄弁者どもの哲学は、他人のための哲学。だから、熱心に布教しようとする。しかしながら、自我が飢えているのは、自分のための哲学だ。哲学するに、自己疑念や自己不信との全面戦争は避けられない。ルソーは、自らを励ます。
「形而上学的な小細工に、いつまでも惑わされるな!」
自分を賢いと思ったところで、実は虚しい妄想に支配されたお人好し、夢想に耽るだけの犠牲者、殉教者。自己回想では、知性や理性は無力となり、健全な懐疑心と啓発された利己心こそが試される。

4. 孤島を求めて
この領域だけ、本書全体のオアシスのような存在だ。孤独な旅行者を演出するには絶好の光景。無人島なら、なおいい...
ルソーは、休息で訪れたビエーヌ湖上のサン・ピエール島の追憶を語る。これほど深い愛惜の念に浸れる場所は他にないらしく、スイスでもあまり知られていないそうな。島には一棟の家があるだけで、管理人が家族らと住んでいる。孤独な牢獄においてさえ快い夢想が訪れ、神にでもなったかのような自己充足に浸る。抽象的で単調な夢想を味わうばかりか、魅惑的な映像までも瞼の内側に映し出す。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれは自由が欲しい!と大声で叫ぶが、想像力に富んだ天才は自由を静かに謳歌できるものらしい...
「現実に官能を刺激するすべてのものを寄せ集めて思いのままに空想を楽しむことができる夢想者にとっては、たしかにすばらしい機会だったのだ。長あいだの快い夢想からさめ、緑の草、花や小鳥に取り巻かれている自分を見、清く澄んだひろい湖水を縁どる幻のような岸べに遠く目を漂わせて、そうした愛すべきもののいっさいを自分の創作に同化させるのだった。」

5. 義務の重荷
「告白」では、5人の子供をことごとく孤児院に入れたことを弁明した。呑込みの悪い子には癇癪を起こす性癖があり、教育者たる資格はないと。このことが、世間から親の責任を放棄したと非難される。
だが、ルソーは、「エロイーズ」や「エミール」が子供嫌いの作品か?と世に問う。そして、義務と激情が衝突すると、義務が勝利することは稀だったと反省する。憤慨した自尊心は、不服な理性と一緒になり、嫌悪と抵抗を感じるだけであったと。魂を高揚させる逆境があれば、それを圧殺してしまう逆境がある。魂のうちに少しでも悪質な酵母があれば、逆境はそれを激しく発酵させて狂躁病に陥れる。ルソーを苦しめていたのは、これだという。
本当に、それだけであろうか?自己の魂が純粋な良心だけに支配されている、などと思い込むこと事態が危険である。人は誰でも傲慢な心を持っている。自分の道徳観や倫理観に自信を持つと、ろくなことはない。彼は、自由で、無名で、孤独であったなら、善いことばかりしていただろうと言っているが、これこそ傲慢ではないのか?人より劣っていることが許せないのか。子供じみた純粋さが悪いとは思わない。しかし、大人ってやつは、知恵を蓄えていくうちに狡猾になるばかりか、それすら気づかないもの。
さらに、あまりにも純粋な心の持ち主であるために、集団生活に向かず、義務の重荷に耐えられないという。不羈独立を好む天性は屈従を極端に嫌い、自由に行動する時には善良だが、束縛を感じる時には反抗的になると。
ルソーは世間を嘆く。活動的で騒々しく、野心に満ち、他人が自由であることを妬み、自分ですら自由を欲せず、ただ自分の意志を実行できさえすればいいという者で溢れていると。そして、自分自身を純粋な気まぐれの実行者であるとし、これを弁明しようとは思わないどころか、極めて道理に適っているという。
しかし、最も嫉妬と憎悪を抱いているのはルソー自身に映る。いや、彼自身もそれを悟っているのだろう。自由人は不自由人に妬まれるもの。特に、文筆の世界ではそうなのだろう。実際、言論の自由を訴える連中が自由な発言を迫害する。迫害も自由というわけか。自由人とは、なんと儚いことか...
「自分の性向に従うということ、気の向いたときに善行の楽しさを味わうということは徳とは言えないので、徳というものは義務が命じたときに自分の性向にうちかって、命じられたことを行うことにあり、これこそわたしが世間一般のだれよりもできなかったことなのである。」

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