2015-10-04

"色彩論" Goethe 著

人類は、光に特別な地位を与えてきた。魂の難題を迎え入れては開眼を求め、絶望の淵にあっては神に乞う。光を与えよ!と。人間が知覚できるものの中で、これほど幻想的で、神秘的なものがあろうか。しかしそれは、闇をともなって、はじめて成り立つ情念。光は盲人を区別しない。俗世間は、相も変わらず眼の前の事象に惑わされる。物事が本当に見えているのは、どちらであろうか。絶望を見た者にしか見えない何かがある。その何かを見るためには、純粋な集中力をともなった精神活動を要請してくる。
一方で、物理学では、光は可視光線と呼ばれ、電磁波の一種に過ぎない。闇は光の存在しない状態、すなわち無であり、光学的に意味をなさない。
だが、芸術の巨匠たちは、闇の方に深い意味を含ませ、光をより効果的に用いて見事な陰影を仕掛けてくる。人間にとって、闇は光の引き立て役なんぞではない。光と闇が対照に配置されると、神と悪魔、あるいは自然と人工が同列に扱われ、物理現象に精神現象が結びついた結果、薄気味悪い無限とやらを彷彿させる。色彩が心象に現れ、ある種の有機体のようなものが生起するのである。その状態は薄明のままに留まり、いつまでも明確な意識として説明できず、もはや自分自身を啓蒙するしかない。それは精神そのものが、幻想的で神秘的な存在だからであろうか。未だ人類は、精神の正体を知らないということか。
ゲーテは、物理的現象と化学的現象に生理的現象を結びつけ、客観的な光学現象を主観的な色彩現象として考察する。無味乾燥な周波数スペクトルだけでは、色彩を語ったことにならないというわけである。とはいえ、いくら陰翳を礼賛したところで、人はみな色仕掛けに弱い...

ゲーテの自然研究は、植物学、動物学、地質学、鉱物学、骨学、色彩学、気象学など多岐に渡る。これらの共通点には、16世紀頃の汎知学に影響された神秘的な自然観があるらしい。この文豪が自然研究に没頭したことは、現在でも毀誉褒貶が絶えない。ニュートン批判に及ぶと、素人が何を言うか!と。
だが彼は、自然は物質的存在であると同時に精神的存在であるという立場を変えようとしない。学問にもそれぞれの立場がある... 利用する人、知識の人、直観する人、包括する人... そして、包括する人を最高位とし、ゲーテ自身その段階を極めようとする。学問は、専門家だけのものでもなければ、専門家が支配するものでもあるまい。科学者も元を辿れば、同じ自然愛好家であったはず。現実に素人の発想が専門知識を補完することはよくあり、専門的な知識が邪魔をして誤謬を犯すことだってある。それ故、全生涯を学問に捧げることができない者であっても、学問に寄与できないなどとは言えまい...
「芸術を高次の意味で考察した場合、願わしいのは、名匠のみが芸術にたずさわり、弟子は厳格に能力をためされ、愛好者は芸術にうやうやしく近づくだけで幸福に感じるということである。なぜなら、芸術作品はほんらい天才から生ずべきものであり、また芸術家は内実と形式を彼自身の存在の奥底から呼び起こし、素材に対して支配者としてふるまい、外面的影響はたんに自己完成のために利用すべきだからである。」

ところで、波という物理現象が人間の感知できるというだけで特別扱いされるのは、視覚だけではない。物理学的には雑音も同じく音波でありながら、人間の魂に何か訴えるものがあると、それは音楽と呼ばれる。music の語源は、ギリシア神話の詩歌の女神ムーサ(ラテン語形の musa, 英語形の muse)に遡る。いま巷で騒がれるハイレゾ音源は、人間の耳の持つ可聴帯域を超え、精神的に安心感や快感を与えるという研究報告がある。光もまた、人間の眼の持つ可視帯域を超えた領域で、身体全体で光線を浴びて感じとっているのだろうか。人間の知覚能力は、五感だけでは説明できないところが多分にある。人体構造を司る遺伝子メカニズムは、スイッチをオン/オフするだけで多様な細胞形態をこしらえる機能を具える。とすれば、人体を形成するあらゆる細胞に、なんらかの周波数感知能力が潜在的に眠っている可能性はないだろうか。それが、第六感ってやつかは知らん...
「人間は世界を知る限りにおいてのみ自己自身を知り、世界を自己の中でのみ、また自己を世界の中でのみ認識する。いかなる新しい対象も、深く観照されるならば、われわれの内部に新しい器官を開示するのである。」

1. 光学 vs. 色彩論
本書には激しいニュートン批判が込められている。そこで酔いどれ天の邪鬼は、ニュートンを少し弁護したい気分になる。
そもそもニュートンが研究したのは光学であり、ゲーテが探求したのは色彩論であり、ここに決定的な違いがある。光も色彩も自然現象であり、同じ物理学の研究対象であることに違いはない。
ただ、芸術の観点から色彩は重要な要素であり、光よりもむしろ闇の方に大きな意義が与えられる。それ故、ゲーテが陰影現象に主眼を置くのも道理に適っている。
物理学がいくら客観性を主張したところで、観察するということは人間が認識することを意味する。人間が認識するということは、主観が関与するということだ。科学実験は、客観と主観の仲介役とでもしておこうか。客観性と主観性の重きの置き方に違いはあれど、どちらも興味深い研究であることは間違いなく、互いに補完的な立場に置きたい。学問と芸術はすこぶる相性がよく、けして分離できないものであろうから...
「われらの書きしもの、正誤いずれにせよ、われら生くる限り、それを弁護してやまず。われらの死後、いま遊び戯れる子らが裁き手とならん。」

2. 生理的色彩と陰翳礼讃
医学的に健康とされる眼に映る色彩は、生理的色彩と呼ばれる。対して、病理的色彩というものがありそうだ。それは、有機的に異常に発達した状態、あるいは劣化した状態ということになろうか。
ただ、正常を明確に定義することも難しい。生理的色彩を語るからには、心理的領域に踏み込むことになり、それは、空想的、想像的、あるいは妄想的ですらある。人間の認識が五感だけで説明がつかないとすれば、色覚異常と精神異常を区別することも難しい。いずれにせよ、色彩で最も単純な構造は、白黒画像ということになろうか。そこに物体の像を浮かび上がらせるのも、認識脳の中で物体が再構築されるからである。
人間の知覚能力は、危険との関係、すなわち自己存在との関係から発達させるところがある。生まれつき盲目な人が青年期に手術を受けて視力を回復させても、目の前の像から危険を察知することができない、と聞く。はっきりと何かが見えるのだが、その像が自分にとって何を意味するかが分からないと。ならば、危険を感じない領域では、客観的なものの見方ができるのだろうか。それはそれで、無感動、無価値、無駄、無意味として通り過ぎるだけのことかもしれん...
一方で、認識脳ってやつは、物理現象に享楽が結びつくと、あらゆる幻想を見せる性質を持ってやがる。真理が心地良い存在となれば、光がさすところに開眼や悟りの像を見せる。それは、陰影から育まれる像であって、そこに多彩な色が副次的に結びついて、より豊かな感情を呼び覚ます。色彩を超越した心的エネルギーの覚醒とでも言おうか。バーの空間が薄暗く演出されるのも道理である。余計な情報を排除してこそ味覚も研ぎ澄まされ、五感を総動員しなければ真の愉悦は得られまい。となれば、色彩論の本質はむしろ無彩色の方にあるのかもしれん。
尚、ゲーテは見事なほどのロウソクの妙技を語ってくれるが、このお爺ちゃんが七十を過ぎて二十歳前の娘を口説く時、陰影の妙技を演出したのかは知らん...

3. 色相環の巡回符号
三角形は、数学者によって特別な地位を与えられ、神秘主義者たちは崇拝の源泉としていきた。実際、三角形を用いると実に多くのことが図式化される。正三角形の向きを反転させて重ねると、神秘の代名詞となった。
ゲーテの色彩論もまた、赤(深紅)を頂点とし、底辺に青と黄を配置した三原色論を導入し、さらに、逆三角形の頂点(底点)に緑を置いて、菫と橙を底辺に配置し、赤(深紅)、菫、青、緑、黄、橙の色相環を形成する。そして、最高の深紅色を尊厳ある色とし、その対極の緑を希望の色として、神秘的な解釈を試みる。緑は自然の中で最も始源的な色で、青や黄へ枝分かれしながら精神の高進が始まり、深紅という一致する高貴な対象へ向かうというのである。
確かに、緑は目に優しい色とされ、植物の放つ緑は最も自然的な存在で、心を落ち着かせる。目の悪いおいらは、眼科のお医者さんに、遠くの緑の風景を見るようにするといい、と助言されたことがある。対して、赤は情熱的な色とされ、何か駆り立てるものがある。その段階的な色彩で、古くから階級を区別したり、心理学では精神状態を重ねるといった試みもある。
一方で、色彩現象では、色の混ざり具合によって色相、明度、彩度といった状態が近似され、色の伝達、除去、同化といった感覚的相殺が生じる。実際、錯視という現象がある。同じ物体でも、色の明るさによって大きさが違って見えたり、色の領域がはっきりと区別されても、遠くから見ると一つの色に見えたり。ミュラー・リヤー錯視、ツェルナー錯視、ヘリング錯視... など幾何学的錯視の事例は腐るほどある。
こうした感覚は、認識脳の都合上の問題であろうか。テレビが動画としてそれなりに見えるのは、視覚能力の追従性の鈍感さを利用して、誤魔化しているに過ぎない。そう、残像効果ってやつだ。人間の知覚能力には、認識脳と協調して、うまいこと補完する機能を具えている。それは、誤り訂正能力、いや、都合よく見せる技と言うべきか。宇宙人の眼には、ノイズだらけの情報で熱中する地球人が滑稽に映ることだろう。だから、近づかないようにしているのか?
無限にある色彩の状態は、いまだ精神の過程にあるとすれば、精神状態は常に色彩循環を求めているのだろうか?ちなみに、符号理論では、巡回符号を誤り訂正の手段として用いられる。認識の誤りを色彩循環によって補正しようとするならば、ここには一種の巡回符号が形成されている... と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、このお爺ちゃんは深紅を崇めつつ、七十を過ぎてもなおバラ色のテクニックを駆使したものの、二十歳前の乙女の心を射止めるには至らなかった...




4. 像を写しだす境界面と接合芸術
人間の眼に色彩を写しだすためには、ガラス、水面、鏡、スクリーンなどの境界面を必要とする。しかも、その境界面で色を重ねたり相殺したりすると、別の色に見せたり、無色に見せることだってできる。あらゆる色が空気中を浮遊しているにもかかわらず、境界面においてのみ眼に見えるとは、どういうわけか?その境界では、色彩エネルギーが心的エネルギーに変換されるとでも言うのか?
ニュートンのプリズム実験は、光線のエネルギー境界を示したという重要な意味があり、単に屈折を示したわけではあるまい。液晶ディスプレイは、それ自体発光しない液晶組成物を利用して光を変調することによって像を映し出す。太陽の像にしても、目に危険を冒してまで直接見なくても、反射面を利用すれば間接的に観察することができる。実は、色彩の物理的意味は、物事を間接的に観察するってことかもしれん。
さて、色彩現象の度合いは屈折の度合いに比例すると考えられ、屈折の強弱は媒体の密度に依存するとされる。実際、大気中の空気や霧の密度が高まるほど、像の変位の度合いを増す。また、屈折の原因は物質的性質の他に、化学的性質を加える必要があるとしている。屈折の増加は酸性によって規定され、減少はアルカリ性によって規定されると。
本書は、最初に実用化されたクラウンガラスとフリントガラスを紹介してくれる。望遠鏡の設計で欠かせない概念に、色収差というものがある。接眼レンズの設計は、単純に屈折率や拡大率を調整すればいいというものではなく、収色性や余剰色といったものの補正を考慮する必要がある。この点は、光学と色彩論が協調して振る舞う部分である。精度の高い望遠鏡は、見事な接合芸術というべきであろう...
「有色の輪の現象が最も美しく生じさせられるのは、同一の球面に従って研磨された凸レンズと凹レンズを接合させる場合である。私はこの現象を、色収差のない望遠鏡の対物レンズの場合ほどすばらしく見たことはいまだかつてない。その対物レンズの場合、クラウンガラスとフリントガラスとじつにぴったり接触していたに違いなかった。」

5. 自然に恋したゲーテ
「自然!われわれは彼女によって取り巻かれ、抱かれている。彼女から脱け出ることもできず、中へより深く入っていくこともできない。頼まれもせず、予告することもなしに彼女は輪舞の中へ引き入れ、われわれとともに踊りつづけるが、そのうちにわれわれは疲れ果て、彼女の腕からすべり落ちる。
...
彼女は比類のない芸術家である。いとも単純な素材から最大の対照物をつくり上げ、苦労のあともなく最大の完成にいたる。緻密な確実さを有しながらつねに何かを柔弱なものでおおわれている。彼女の作品はいずれも独自の存在をもち、彼女の現象はいずれもはっきりと孤立した現実ではあるが、すべては一つをなしている。
...
自然は一つの芝居を演じている。彼女がそれを自分で見ているかどうか、われわれは知らない。しかしながら彼女はそれをわれわれのために演じ、われわれは片隅に立っている。
...
自然の冠は愛である。愛によってのみ人間は彼女に接近する。彼女はすべての個物のあいだに間隙をもうけたにもかかわらず、すべてのものは互いにからみ合おうとする。彼女がすべてのものを孤立させたのは、すべてのものを引き寄せるためである。愛の酒杯からほんのすこし飲むだけで、彼女は苦労に充ちた生活の償いをする。」

ドイツ語の Natur が女性名詞であることは、偶然ではなさそうである。掴みどころのない永遠の謎!自然の中に生きながら、その正体をまったく知らない。自然は人間を支配し続け、人間は自然ばかりでなく、自分自身ですら支配できない。自然は、常に運動を続け、停滞することを許さない。静止とは、ある種の呪いであろうか。永劫不変とは、永遠に未完成であることを意味する。人間ってやつは、完成の美よりも、はるかに未完の美に恋焦がれる。どうりで男はみな色仕掛けに弱い...

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