宗教をも巻き込んだ科学革命の大エピソードには、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインといった人物をあげることができる。だがそれは、歴史における便宜上の問題でしかないかもしれない。科学の大転換点は、突如として出現する一人の天才だけのものではない。ささやかな観測技術の発明、細々とした理論、こうしたものが蓄積された結果、ある日、科学体系として開花させてきた。それは、進化論に通ずるものを感じる。継続的な意識がエネルギーの蓄積を伴って突然変異を引き起こすような、連続性と離散性の協調のようなものを。
科学史家トーマス・クーンは、「科学革命」に「通常科学」という用語を対置させる。通常と呼ぶからには、異常について語るということだ。彼は、「パラダイム」という概念を持ち出した人物として知られ、変革時に出現する変則性とその必然性を語る。革命ってやつは、官僚主義に陥った惰性的精神を打倒するために生じるところがある。健全な懐疑心を失った社会に、進化の道はない。
一方で、安定した周期を持つ慣習ってやつが、魂に安住の地を与える。不変の周期があるとすれば、それは世代を超えて持続されてきた知への渇望であろうか。ゲーデルは晩年... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と語った。この発言は、おそらく正しい。真理の概念は必然的な存在であり、概念が歴史の道を散歩しているようなもの。誰がその概念を歴史の舞台にあげるかは、大した問題ではないのかもしれない。
すると、人間は何のために存在するのか?人間は真理を暴くための使命を帯びているのか?人口増加とは、その確率を高めるためのものなのか?戦争とは、怠け癖のある人間を尻たたきするためのものなのか?競争の原理とは、その最終目的は宇宙法則を導くことなのか?神は随分と遠回しな思わせぶりを、人間社会に埋め込んだものよ...
知るには、まず観ること!思考の礎がここにある。そして、知識は押し付けがましいところがある。さらに、学ぶには知識の前提が必要である。学ぶとは、受動的な活動が能動的な活動に昇華する過程を言うのであろうか。知性に優れた者ほど寛容さを発揮できるのは、知識を欠いていた頃の自分自身を鋭く観察してきたからであろうか。そんな境地に達してみたいものだが...
科学理論は、後から出てくるものほど真理に近いとは、よく耳にする。アリストテレス力学よりもニュートン力学が、さらにアインシュタイン理論が優ることに疑いはない。科学は着実に客観性を進化させているかに見える。ならば、人間は主観性をも進化させているだろうか?はたまた、客観性が主観性を打倒しようとしているのか?どちらか片方でも失えば、人間を失いそうだ。真理の勝利とは、人間性を失わせることなのか?まさか...
では、真理ってやつは、本当に存在するのか?仮に存在するとして、人間の認識能力で説明できるような代物なのか?それでも真理は存在すると信じたい... などと語れば、科学もなかなかの宗教である。客観性や論理性ってやつは、崇めるに値するものなのか?いや、科学とて論理崇拝主義だけでは心許ない。社会学は心理学を経て生物学に、生物学は化学を経て物理学に還元され、そして自然学へ昇華し、やがて形而上学へ帰するのかは知らん。帰納法と演繹法とでは、どちらが王道なのかも知らん。
真理への道は、はたして抽象化が正しい作法なのか?それとも多様化が正しい作法なのか?仮に、宇宙法則という観点から正しい道というものがあるとして、それは主観的な人間にとって可能な道なのか?やはり邪道も必要である... とすれば、酔いどれだって居場所が得られる。
本書は、科学であっても、たまには社会学的に、心理学的に語ることの大切さを教えてくれる。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。間違いなくセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ...
1. パラダイムとパラドックス
「パラダイム(paradigm)」という言葉の響きには、「パラドックス(paradox)」と同じ音律を感じる... のは気のせいであろうか。アインシュタインは、同時性が相対性であることを示したのか?それとも、同時性自体の概念を変えたのか?同時性と相対性にパラドックスを感じるのは、誤謬を犯しているからか?あるいは、形而下で矛盾するものは、形而上では矛盾しないとでも言うのか?このフレーズを眺めるだけでも、パラダイムという用語に多義性があることが分かる。
「ニュートンの法則は、時にはパラダイムであり、時にはパラダイムの部分であり、時にはパラダイム的である。」
哲学的な用語とはそうしたもので、真理を探求すれば必然的に言語の限界に挑むことになる。言語システムは、真理に到達していない人間が編み出したものだから。にもかかわらず、専門家の間でも用語の解釈で食い違いがあると、理解が足らないと馬鹿にする。露出狂の有識者ほど、その傾向を強めるらしい。明確に定義できないから新たな語を必要とするのであって、人によってニュアンスの違いが生じるのも自然であろうに。そもそも用語を的確に理解している者などいるのか?言葉を編み出した本人でさえも...
例えば、「抽象化」という用語でも、学問分野によってニュアンスが違う。政治屋や経済人は、曖昧さという意味を込めて、具体化しなければ無意味として片付けがちだが、社会学や歴史学では、一般化という意味合いが強いだろうか。科学や哲学では、普遍性という意味合いが強く、コンピュータ工学では、データ構造の隠蔽という意味合いで用いたりする。「客観性」という用語でも、学問分野によって度合いが違い、数学のそれは他を寄せ付けない。「信用」という用語では、道徳家は大切に用いるが、経済人は担保がなければ受け入れられない。
さて、パラダイムという用語は、コンピュータ科学やソフトウェア工学、はたまたマネジメント論やビジネス書でも見かけ、いまや一般的となっている。それは、ある学問分野を席巻する理論の法則性や思考の方向性といった総合的体系を指す言葉と理解している。本書は、こう定義している。
「パラダイムとは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの。」
あくまでも科学に発した言葉というわけだが、研究における思考の傾向を示すからには極めて社会学的となろう。実際、論理実証主義者から非難された経緯がある。科学理論が論理的実証の立場から支えられているのも事実だ。おそらく世界は、絶対的な宇宙法則に支配されているだろうし、純粋客観にこそ真の合理性があるのだろう。
しかし、だ。人間の持つ合理性という観点からは、どうであろうか?主観すなわち直観が、思考力を牽引するところがある。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、最初から客観性を得ることなどできないばかりか、獲得した客観性ですら主観性に惑わされ、おまけに、それすら気づかないでいる。ならば、人間の持つ合理性は、主観と客観の双方を凌駕するしかないのではないか。だが、どちらも完全に凌駕することは不可能ときた。やはり主観と客観の調和を求めるのが、現実的ということになろうか。
一般的な科学の方法論では、まず仮説を立て、それを検証するものと言えば、もっともらしく聞こえる。だが、研究に携わった経験のある人には陳腐に聞こえるだろう。現場では、極めて直観的な思考を試しては、泥臭くそれを繰り返している。そして、科学的な思考には、芸術的な思考がよく適合するように映る...
2. 科学者集団の社会学
客観性を崇める科学者集団の世界とて、人間社会であることに違いはない。そこには権威や名声もあれば、嫉妬や憎悪も生じる。科学界の論争で醜態を演じたものの一つに、微積分学の功績を巡るニュートンとライプニッツのものがあるが、アルキメデスの功績が明るみになると、彼らも少しは遠慮したかもしれない。
専門用語の揚げ足をとるような論争に巻き込まれると、肝心な用語の定義を忘れ、正論を語ることを怠り、ミイラ取りがミイラになることもしばしば。論争とはそうしたものである。
そこで、仮説嫌いのニュートンに、ちょいと反論しておこう。誤った仮説も全然ないよりはましよ。仮説が誤りであることは、恥でもないだろう。科学者としての恥は、概念が固定化され、広く承認され、一種の信仰告白となって誰も疑うことが許されない風潮を作ることである。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。かつて学問は、総合的で学際的な知に支えられた。現代の聖人は、古代の聖人ほど神秘的である必要はない。現代の芸術家は、古代の芸術家ほど威厳を持つ必要はない。現代の知識人は、古代の知識人ほど迷信的である必要はない。そして、現代の科学者は、古代の科学者よりも知性的である必要はないのかもしれん。実際、劣っていそうだし。だからこそ専門に特化し、そこに人生を賭けることができる。
しかしながら、専門化が進めば視野を制限し、パラダイムの変革を妨げることになりはしないか?深く学ぶことと多面的に学ぶことを両立させることは、まさにパラドックス。だが、どちらも怠ることはできない。したがって、研究のどの立場に身を置くか、これも人生の賭けだ!理論が検証され、否定されたら研究人生も終わるのだから。科学者はそれを覚悟し、研究に没頭する冒険心が求められる。自分の立場を正当化しようと固執するのは、人生の無駄を認めたくないからであろう。しかし、間違いを証明できれば、それはそれで有意義な無駄となる。無駄の概念をちょいと変えるだけで、そこに居場所が与えられるという寸法よ...
真理の探求者は、けして自己否定を拒まないものらしい。真理とは、自己愛や自己陶酔の類いよりも、遥かに心地よいと見える。パラダイムとは、理論体系だけで説明できるものではなく、研究者の意識傾向も含めて体系化された結果であろう。人類の叡智とは、知の永劫回帰のようなもの。それは、思考実験の繰り返しに支えられている。正しいことばかりを求めている人は、まったくリスクを背負えないばかりか、正しいことを何一つ掴めず、他人の後追いをしているに過ぎない... ということになろうか。そして、知識の抗争では、後出しジャンケンの原理に縋って非難攻撃を展開することになる。正しいことを掴んだ者は、多くの間違いを犯してきたはず。失敗をしたことがないと主張する者は、とこか失敗の概念を間違えている... と言わねばなるまい...
2015-10-11
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