2016-02-07

"告白(上/下)" 聖アウグスティヌス 著

書の歴史を振り返ると、自伝の類いは枚挙に遑がない。ローマ帝国時代にあってはアウレリウスの「自省録」、ルネサンス期にあってはチェッリーニの「自伝」、啓蒙時代にあってはルソーの「告白」等々。紀元前に遡ると、司馬遷の「史記」の末尾に「太史公自序」なるものが添えられると聞く。いまだ人類は、人間自身を語り尽くしていないということか。そもそも言葉なんぞで語れる代物ではないのかもしれん...
自我ほど手に余る存在はあるまい。この手の企ては、自己欺瞞や自己嫌悪との葛藤を強いられ、最も手強い自己愛を相手取ることになる。人生とは、臆病を隠しながら恥の中を生きるようなもの。自分自身の弱点を曝け出せば、どんな醜態にも弁明せずにはいられず、美化や正当化の誘惑を断ち切るのは至難の業。無知に自省の魂を売ったところで、自制の魂を呼び覚ますことができようか。
とはいえ、酔いどれ天の邪鬼ですら、昔は随分と間違ったことをしてきたものだ... などと思うことがよくある。懺悔というほどの意識はないものの。あと十年もすれば、今やっていることも同じように思うのであろう。アバンチュールな性癖の持ち主は、永遠に神の祝福を受けられそうにない。盲信者が無神論者より幸せだというのは本当かもしれん。酔っ払いが、しらふより幸せだと言うように...

ヒッポのアウグスティヌスは、若き日の過ちを告白する。熱狂、不義、姦淫、窃盗... そして低い志と低レベルの友情に隷属していた様を。人格の形成は、記憶と経験に負うところが大きい。過去を原点に据えなければ、現在も未来も展望が開けないというわけである。ならば、記憶力がなければ過去はチャラにできるってか。おいら幸せ!
アウグスティヌスは、生まれた時からキリスト教と異教の間で葛藤に巻き込まれてきたようである。北アフリカのタガステというところで生を受け、母モニカはカトリック教徒、父パトリキウスは異教徒。父はカトリック教徒となって死んでいったという。
当初、アウグスティヌスはマニ教の熱心な信者で旧約聖書を嘲る立場。カルタゴで修辞学の学校を開くが、後にミラノへ渡り、プラトン派の書を漁る。影響を受けた書に、キケロの「ホルテンシウス」やアリストテレスの「範疇論」を挙げている。アカデメイア派の態度を尊重し、建設的な懐疑心を育むものの、知識は開けたが、同時に傲慢さも増長させたと回想する。そして、これらの知識だけでは霊的なものを語れないと気づき、キリスト教を目覚めさせていく。特にパウロを読んで、闇を一掃したという。回心後は、マニ教を激しい論敵とし、罪深い生活から真の道へ導いてくれた神の恩寵を讃える。マニ教を攻撃するならば、キリスト教の弱点も受け入れなければなるまい。これが回心というやつか...
本書に示される思考過程は、主観的な見識だけでは宗教は危険な存在であることを暗示している。そして、哲学的、科学的な書物を経て、いよいよ旧約聖書へと突入していく。啓蒙とは、蒙(もう)を啓(ひら)いて、そこから救い出すということ。ここに啓蒙思想の発端を見る思いである。
しかしながら、聖書の解釈では、寛容性という問題を若干抱ていることは否めない。宗教が抱える最大の問題は、まさしく寛容性であろう。大罪人が告白によって赦され、両手を広げて迎えられるというのに、異教徒には迫害の仕打ち。異教の方が残虐行為よりも罪深いというのか。ならば、無関心な態度の方がましではないか。無神教の方がましではないか。
こうした反応は、なにも宗教に限ったことではない。とかく思想観念ってやつは、それを否定しようものなら、自己存在の否定と直結し、感情を剥き出しにするものである。解釈とは、人間の主観的行為であり、そこに多様性が生じる。対して、普遍の真理とは、一神教なんぞで定義できるものなのか?アウグスティヌスは、キリストのみが真実の仲保人としているが...
無限が偉大に感じられるのは、人間の理解を超越しているからである。学問に熱中することによって無我の境地に達し、そこに自己の無存在が感じられることも、自己の理解を超えている。もし、多様性と普遍性が相反するものだとすれば、人間は神という無限の存在に永遠に近づくことはできまい...

1. 無知の告白
聖人ともなれば、神に告白する特権が得られるのかは知らん。自己を非難できる自己を求めて、神に祈るのもいい。罪は無知にあるとすれば、ソクラテス哲学に通ずる。だが、まだ知り得ないものを知るには、神に縋るしかないというのか?呼び求める神が心の内にあるというなら、心の内にないものをどうやって求めるというのか?そして、凡人は自己の無知を神のせいにできる。
回心によってしか悟ることができないと知れば、ますます悪事を知り、ますます悪徳を知り、悪魔になろうとする。これは、必要悪の類いか?全能者が善しか創造しないというなら、悪もまた善を意識させるためにこしらえたとでもいうのか?
アウグスティヌスは、「悪は実体からではなく、意志の背反からおこる」としている。すべての悪の根源が人間の意志にあるとすれば、やはり人間は悪魔の意志を受け継いでいると言わねばなるまい。そんな強烈な意志に対抗して、人間の良心がどこまで揺るぎない意志を持ち続けられるだろうか。自分自身を欺瞞する以上に、神への冒涜があろうか。
... などと思い巡らしていると、神に告白するというより、告白することを神に命じられていると言うべきか。となると、告白という行為は、本当に能動的な態度であろうか?神に仕えるとは、聖書に仕えることなのか?人間は何かの奴隷になることを欲す。アリストテレスの唱えた「生まれつき奴隷説」は、人間そのものを語っていたのかもしれん...

2. 言葉の迷走
読書しない者は字が読めないに等しい... と言ったのは誰だったか。年に一冊も本を読まない者が肩書を持てる組織があると聞く。多忙という威厳をまとった言い訳こそ、怠惰の源泉。組織を堕落させ、ただ命じるがままに組織を存続させているということか。
 然るべき時に然るべき言葉を発せないのは無知に等しい... と言ったのは誰だったか。しかしながら、人は黙するべき時にこそ言葉を発する。神が沈黙されているのは、然るべき時はまだ訪れていないというのか?
俗人は律法を必要とし、神の意志を具体的に記した聖書を必要とする。では、具体的な言葉を欲しているのは人間どもだけか?四足獣や鳥獣類はどうだろう?人間自身が言葉を編み出し、神の代弁者になろうとは畏れ多い。誤謬から多くの虚言が生まれるのは、神の言葉だけではない。人間社会そのものが虚言で渦巻いている。
「知性の欠乏は、とかく多言を弄する。」
虚言は、聞く者がいなければ自然に廃れるであろう。虚言が旺盛なのは、それを聞く者がわんさといるからであろう。扇動者がキャッチフレーズのような分かりやすい言葉を好むのも道理である。
人間は信仰と希望を頼みとしてやまない。神の言葉を欲するあまり、天体現象や自然現象に比喩的な解釈を求めてやまない。そして、数々の出来事を神格化してきた。人間社会には、神の名を語る人間どもの迷信が渦巻いている。
「みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺く。」

3. 見返りの原理
神からの見返りを求めなければ、道徳を行えないのであれば、理性も地に落ちたものである。才能に恵まれないくせに、運命に救われる者が多くいる一方で、才能に恵まれながらも、運命に泣かされる者が多くいる。そして、運命を自ら切り開こうとしない者ほど、運命の女神に寵愛されることを乞う。
人間ってやつは、一部の人々が不幸を被ることに対しては人を憎むが、みんなで一緒に不幸を被ることに対しては容認できるものらしい。道徳は理性のみで実践されるだけでなく、脂ぎった道徳というものがある。常に苦労した分の見返りを求め、見返りが保証されない限り面倒事を避ける。神がどんな見返りを求めて、十字架を背負われたというのか...
「悪意のある善意というものがあるとするなら、ほんとうに心からあわれむ人は同情するために、あわれな人びとの存在を望むこともある。それゆえ、是認されるべき悲しみもあるが、けっして愛されるべきではない。それゆえ、魂を愛する主であられるあなたは、わたしたちよりも、はるかに清く純粋に魂を愛されるのである。」

4. チャラの原理
天地創造の前、神は何をしておられたというのか?地獄でもこしらえていたのか?地上から悪魔が出現することに備えて...
アウグスティヌスは、大胆にもこう断言する。「神は天地の創造以前になにも造られなかった」と。時間が創造される以前も、いかなる時間も創造されなかったと。過ぎ去るものがなけば過去は存在せず、到来するものがなければ未来も存在しない。存在するものがなければ現在も存在しない。現在という時間は、過去と未来の間にあって、初めて意識することができる。時間とは意識の産物ということか。意識が時間に幽閉されていることをいいことに、あらゆる行為がスケジューリングされ、納期に忙殺される。人間の認識能力ってやつは、何かに幽閉されていないと落ち着かないものかもしれん。そして、最大の納期は寿命であり、こいつに怯えながら生きるという寸法よ。
「未来も過去も存在せず、また三つの時間すなわち、過去、現在、未来が存在するということもまた正しくない。それよりはむしろ、三つの時間、すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。」
過去も未来も、はたまた現在も、現在における解釈に過ぎないということか。確かに、存在認識は現在という瞬間にしかない。では、過去の自分はいったい誰だ?時間ってやつは、魂になんらかの変化をもたらし、この現象は「成長」と呼ばれる。
ただし、時間は一方向性しか示さず、この方面でエントロピーの力は絶大である。過去を悔いても、神は「おとといおいで!」と嘲笑う。すなわち、退化もまた成長と同じ方向にある。無学な奴だと侮っていても、数年後には大人(たいじん)の風格を備えているかもしれない。数年前に借金した人格は、現在では違った人格になっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば、今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!と追い返すこともできるのだ。自己破産法とは、この別人論に則ったものである。したがって、法の裁きが求める反省には、チャラの原理が内包される。

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