2016-02-21

"ルネサンス画人伝" Giorgio Vasari 著

ルネサンス期... この時代が、宗教弾圧から宗教改革へ、さらには対抗宗教改革へ導かれる一連の流れと重なるのは偶然ではあるまい。思想弾圧に対抗して過激な自由運動で応戦すれば、弾圧はより強化され、社会全体が過激派の坩堝と化す。神を一つに定義すれば、悪魔がいかに多様であるかを思い知らされる。残虐や迫害の連鎖の中では、運命論に身を捧げるしかないのか...
「絶え間なく襲い来る凶事の洪水は、哀れなイタリアをおし流し溺死せしめるに至り、およそ建築と呼ぶに値する建築をことごとく破壊したばかりでなく、芸術家をひとり残らず消滅に追いやってしまった...」
この文化運動が、いや精神運動が、地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方、特に大都市フィレンツェに端を発したのも、経済活動が自由精神と相性がいいということがあろう。詩人ダンテがフィレンツェを追放され、流浪中に「神曲」を書き上げたのも、ちょうどその頃。本書に登場する画人たちにも、ダンテの影響が強いことが伺える。そして、ビザンチン帝国のコンスタンティノープル陥落(1453年)の時期に、多くのギリシア知識がイタリアへ避難し、一神教の窮屈な教義から、多神教の自由な神々の時代を懐かしむ土壌が育まれていった。
「画家は自然に対して多くを負うている。自然のなかから一番良いところ、一番美しいところを取り出して、たえず自然の模写と再生につとめる画家たちに対して、自然はいつも模範の役割を果たしてくれる...」
ダ・ヴィンチやミケランジェロをはじめ、この時代に多くの万能人を輩出したのは、芸術だけでは人々は救えない、そして自分自身をも救えない、という境地に達したからであろうか。しかも、互いに切磋琢磨し、互いに協調しあうとは。より普遍性を求め、より真理に近づき、自然の殉教者となった画人たちの旅路が、そこにある。かつてのアテナイがそうであったように、かつてのアレクサンドリアがそうであったように、この時代にあってはフィレンツェが知の宝庫となっていく。叡智の相乗効果とは、こういうものを言うのであろう...
「いかなる分野の仕事であれ、秀でた人物が出現するとき、多くの場合たった一人だけでないのが自然の摂理である。」

1550年、ジョルジョ・ヴァザーリは「画家・彫刻家・建築家列伝」を出版した。この書は、ルネサンス期のイタリア美術研究家の間では、聖書に次ぐバイブル、そして、ダンテの「神曲」と肩を並べると評されるそうな。そこには、絵画の写真がほんのわずかしか掲載されず、言葉によって美術を語り尽くす凄みがある。ヴァザーリ自身は画家であり、建築家であったが、文章家としても名高いことが伺える。時代に隠された本音とやらを垣間見るには、政治的な思惑から距離を置く芸術活動こそ、うってつけ。これも、ある種の遠近法と言えようか。画家の職人気質が文学と融合した時、絵画の遠近法は精神の遠近法を覚醒させる。ちなみに、彼には、妻よりも遠近法を愛したという逸話もあるそうな。
「もし僕がいつも遠くに離れているのが君の気に入らないのなら、親愛なる妻よ、それはやはり僕の気にも入らず、僕の嘆きの種である。この僕の心の苦しみがおさまらぬうちは、太陽が空にも上がらず、また地にも沈まぬようにと祈る次第だ。」
遠近法とは、二次元空間に人間の視覚をおしどどめる技法であり、いわば視覚の欺瞞である。それは、事象を精神空間へ投影する手段であるが、芸術が精神の投影ならば、まさに自分自身を描いていることになる。伝記とは、遠近法に幽閉された人物の描写か。いや、文章家によって踊らされる人物像と言うべきか...

ところで、芸術とは奇妙なものである。描かれた自然の対象物には興味すら寄せないのに、描いた人工物には最高の称賛を与えるのだから。それは、自然を支配することが不可能であることを暗示しているのか。それとも、自然への嫉妬がそうさせるのか。威厳をもって描こうとするうちに、自己の内に沈潜していく。天国へ導かれることで活力を満たしてくれるように、自分の芸術でもって自分の芸術以上の境地に達することは、ありうるだろうか。そこに、芸術の弱点がありそうだ。哲学愛好家が、自己存在にも疑問を投げかけなければならぬように。自己矛盾の脆弱性から逃れる方法があるとすれば、それは無力を悟ることか。確かに、圧倒的な芸術の前では、無力感こそが心地良いものとなる。まるで自然に征服されたかのように。逆に、人工物に征服される無力感ほど気分の悪いものはない。ラファエロが、ダ・ヴィンチやミケランジェロの域に達し得なかったことを自覚できたのは、幸せだったのかもしれない。では、普遍性へ向かわない人生は浪費だというのか?真理へ向かわない人生は、すべて浪費だというのか?ミケランジェロは、こう呟いたそうな。
「金持ちでありたがるかぎりは、ずっと貧乏でありつづけるさ!」

1. 画人伝
本書は、「画家・彫刻家・建築家列伝」の中から15人が厳選される...
チマブーエ、ジョット、ウッチェルロ、マザッチョ、ピエーロ・デルラ・フランチェスカ、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ベルリーニ、ボッティチェルリ、マンテーニャ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョルジョーネ、ラファエルロ、ミケランジェロ、ティツィアーノ。
中でも、ダ・ヴィンチへの讃辞が最上級であることは間違いない。
「この上なく偉大なる才能が、多くの場合、自然に、ときに超自然的に、天の采配によって人々の上にもたらされるものである。優美さと麗質、そして能力とが、ある方法であふれるばかりに一人の人物にあつまる。その結果、その人物がどんなことに心を向けようとも、その行為はすべて神のごとく、他のすべての人々を超えて、人間の技術によってではなく神によって与えられたものだということが、明瞭にわかるほどである。人々はそれをレオナルド・ダ・ヴィンチにおいて見たのである。」
しかしながら、ミケランジェロへの思いは特別に熱い。紙面に割く量も、ダ・ヴィンチの20項、ラファエルロの50項に対して、130項と厚い。ヴァザーリは、生きている者の伝記を書かなかったそうな。年老いた者も例外ではない。しかし、ミケランジェロだけは違っていた。そして、ミケランジェロに一冊を献じると、自作ソネットを送ってくれたと嬉しそうに語る。

 君は筆と彩色をふるい
 その技芸を自然の域まで達せしめた
 むしろ自然からその誉れを感じさせた
 自然の美以上の美を描くから

 そしていま 君が学の手で
 文筆の高貴の業を始めれば
 かつては不可能の 自然の価値を奪い去る
 人びとに新たな生命(いのち)を与えるのだ

 かつていつの世も 美しい作品で
 自然と技を競っても とかく道を譲るもの
 限りある結末に行くのが事の常だから

 けれど失せし人らの記憶をゆりおこし
 かくある生命を与えれば 君はまた
 自然の定めにかかわらず 永遠に生きながらえる

ミケランジェロは、友人の僧侶から「妻を娶らないのは罪ですよ。たくさんの子供を得たら、彼らにすばらしい多くの作品を残せるのですよ」と言われた時、こう答えたという。
「私には芸術というたいへんな妻がいるのですよ。それがいつも私を悩ませるです。私の息子は、私の残す作品です。」
これが、独身貴族の美学というものか。子供を残したところで、財産は売り払われる。真の芸術は、血縁なんぞで受け継がれるものではなく、人類の宝物として受け継がれるものでなければなるまい...

2. 孤独の摂理
芸術に憑かれる者の常として、孤独を愛するということがある。芸術は、ただ一人で思索に耽る者を要求する。そのために、人付き合いを避ける性癖を背負い込む。だが、それを空想とか異様とか考えるのは間違いであろう。どんな研究分野であれ、専心する者が良い仕事をしようとすれば、余計な心配事や煩わしさから遠ざかろうとする。
とはいえ、その事をわきまえ、時には積極的に人と向かい合うことも大切である。キリスト物語を描く人物が聖人である必要はない。善良で温和な性格の持ち主と評されても、聖人を自称する者などいない。エロスを覗き、恋多き、多感さを発揮しなければ、心の豊かさを欠くだろう。だからといって、けして俗世の罠に嵌らない。真理とは、それほど心地よいものなのか...
ダンテ曰く、「死せる者は死せる者のごとく、生ける者は生ける者のごとくなりき」
死者の復活を描くのに、どういう境地に達しているというのか?大地なるものから骨や肉を、いかに取り戻すというのか?こうした試みは、ある種の欺瞞である。それでもなお人々を感動させるのはなぜか?芸術とは、恐ろしいものだ。だからこそ、政治的な野心家どもの道具とされる。
「恐ろしいほど研究に打ち込む人間が自己本来の自然の性に無理強いをする者であることは疑いない。それだから、一面では天分を鋭敏に研ぎ澄ますことができるとしても、そうした人のすることはどれもこれも、どうしても素直な優雅さに欠けるものである。それに反して、慎重に配慮して、節度を心得、しかるべき点にしかるべき力を注ぐ人は、ある種の鋭利な芸を避けるから、かえって自然に素直で優雅な作品を作ることができる。細かい芸や工夫というのは、時が経つとたちまち、作品になんともいえぬ努力した、という重苦しい、無味乾燥な感じを与えるが、そうした拙な方法は見る人々の同情を呼ぶことはあっても、見る人々を感嘆させるということはない。というのも、天分が作動するのは、知性が作用し、かつ感興に火がともる時のみだからである。」

3. 万能人の不完全な哲学
「よく知られていることだが、レオナルドはその知性的な技倆により多くのことをはじめたが、何も完成しなかった。彼にとっては、思い描いていたさまざまなものに必要な完璧なる技倆に、自分の手腕が達していないと思われたのである。彼の観念においては微妙にして驚嘆すべき困難な事柄が形成され、彼の手がいかにすばらしいものであっても、それを表現することができないのであった。その上彼の移り気は多方面に向かい、自然の事物について哲学的思索にふけり、草花の特性を理解しようとしたり、天空の動き、月の軌道や太陽の運行を観察しつづけた。」
神の思し召しのままに為せる境地とは、いかなるものであろうか?全身全霊を捧げようとも、真理の道は不完全のまま残され、真理を貫く信念は、生前よりも、むしろ死後に開花させようとは。出来上がった作品が作者自身の理解を超え、鑑賞者の理解によって独り歩きを始める、ということもある。不完全であるが故に、移り気も激しいというのか?いや、真理への執念が、多彩な知識へ向かう衝動を抑えきれないのであろう。驚嘆すべきは、けして完成しないと知りながらも、希望を絶やさぬ持続力である。成熟してもなお、学び足らぬというのか。天才たちの葛藤が、死後の天上において報われるのかは知らん。ただ、ミケランジェロの晩年のソネットが、いつまでも時代を奏でる...

 私の人生はいま港にたどりつく
 はかない小舟で荒海を渡って
 悪行善行の申し開きをしようと
 すべての人が降りねばならぬあの港へ

 芸術が私には偶像や君主であるという
 あの親愛なる想いが
 いかに誤りであるかをいま私は知るのだ
 人それぞれの望みに反することを

 虚しくもうれしかった恋の思い
 私が二度死ぬばそれも何が楽しかろう
 最初の死は確かなら第二の死が脅かす

 もはや絵画も彫刻も魂を静めてくれず
 魂は神の愛へと向かい
 愛は我らを迎えんと腕を十字架に拡げたもう

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