ルネサンス風の詩文とは、こういうものを言うのであろうか...
前記事「ルネサンス画人伝」では、絵画の写真がほんのわずかしか掲載されず、文章で美術を語り尽くす酒肴(趣向)に魅せられた。もはや続編へ向かう衝動は抑えられない。ジョルジョ・ヴァザーリのトスカーナへの想いは、ガウディのバルセロナへの想いに似ている。どちらも地中海に面した地域だが、優雅なデッサンの力や鮮やかな発明の才、あるいは、村落風景や人間物語の語り手となる資質... こうしたものを育む土壌でもあるのだろうか。そこには数多の歴史の背景や条件が融合し、調和という形で露わになる...
ルネサンスという時代が、これほど多くの画人を輩出したとは...
達人の手にかかれば、静の手段をもって動よりもはるかに動的な物語を語らせる。絵画が精神空間の投影であるならば、再生や復活といった思想回帰に縋らなければ生きることの難しい時代であったのか。現在に絶望すれば、美化した過去を懐かしみ、根拠のない未来に希望を託す。人の心は移ろいやすい。特に希望ってやつは危険だ。甘美であるがゆえに依存症に陥れるのだから。
本書には、画家たちの豊かな個性と発想力に対して、彼らが選んだ題材の崇高な共通性が配置される。いわば、多様性と普遍性だ。この二つの価値観は一見相反するように映るが、中庸の哲学の下で調和をもたらす。キリスト物語に執念を抱きながら幾多の寓意を創出し、思い上がりの情念と対照に、哲学、天文学、幾何学、音楽、数学といった学問を擬人化する。あるいは、聖人聖母の誕生と受難、死と昇天、あるいは愛徳と博愛、謙遜と節度に対して、悪徳と享楽、欺瞞と嫉妬を配置。さらに、主要な福音だけでなく、マイナーな福音をも引き出し、壮大なカノンを奏でる。画家たちに集団的な意志などあろうはずもない。しかし、個性の集団が時流に乗った時、集団的な意志が生起する。もはや技巧の継承などでは説明がつかない。意志の継承だ。この時代に、量子論的な進化論を重ねずにはいられない。芸術家たちの集団エネルギーの蓄積が、突然変異として開花する様子にである。人類の歴史には、普遍的な何かを求める意志が働いているのか?これらの芸術は、そこから外れた人生を浪費だと教えているのか?真理へ向かわないものは、すべて浪費であると... そうかもしれん。
ところで、真理ってなんだ?これまた一神教のごとく、一つの教義で定義できるものなのか?はたして人類は、個性に裏付けられた多様性を求めているのか?あるいは、個人を超越した普遍性を求めているのか?いずれにせよ、斬首刑は、大衆の忌み嫌う価値観を、斬首するかのごとく振る舞う...
自然に対して法を定め適用し
国と時代を制する者から
すべての善がやってくる
とはいえ、悪も適度には許されて、生き長らえる
そこで、この姿を見ればわかるだろう
着実な足取りで、一つの世紀が前の世紀に取って代わるのを
そして、悪なるものが善となり、
善なるものが悪と代わるのを。
悪魔の巡礼の旅が始まる...
神様の最大の敵は、悪魔だと聞かされてきた。好敵手がいなければ、神の存在も締まらない。相対的な認識能力しか発揮できない人間どもが、崇高なものを描こうとすれば、その対極に何かを配置せねばなるまい。となれば、絵描きにとって悪魔は手強い対象となろう。聖人聖女を描くために、まず悪魔の正体を描かねば。身体の腐蝕を嘆き、憐れな精神を嘆き、様々な醜い姿から目を背けるわけにはいかない。そして、絵画に描かれれば永遠に伝えられる。内面は悔恨で渦巻き、精神を破綻させ、やがて始まるて死人の遠吠え!これが昇天する姿だというのか。まるで道化だ。狂気しなければ、真理にも近づけないのだから...
「才能を持つ人間につきまとう危険、その人間が実生活のなかで直面する不都合に思いを馳せると、才能などを天から与えられることなく、才能から遠ざけられている人の方が無難ということになろう。持って生まれた才能から、華やかな天才が生まれ出すとしても、なかには、常人とは異なった変わり者も出てきて、日常生活から逃げ出し、ひたすら孤独な生活を愛するようになる。自分に都合の良いものを見つけようとしても、実生活では不都合なことにばかり当たることになる。何をしてもうまくいかず無気力感に捉えられている時でも、ちゃんとした自分自身の哲学を持って行動するのだが、やっていることは一般人にとってみればむしろ悪ふざけである。」
1. 続 画人伝
1550年、ジョルジョ・ヴァザーリは「画家・彫刻家・建築家列伝」を出版した。「ルネサンス画人伝」では、その中から代表的な15人が描かれていた。この続編では、さらにヴェネツィア派とシエーナ派の41人が紹介される。
尚、本書で偉大とされる画家たちは、今日の評価と必ずしも一致するわけではない。ヴァザーリ自身がフィレンツェ派の画家で、それよりも二百年前のシエーナ派についてはよく知らず、重きを置いていないようである。これだけ丁寧でありながら、シエーナ派の記述は短く、誤りも多いそうな...
ピエートロ・ロレンチェッティ、ブオナミーコ・ブッファルマッコ、アンブロージョ・ロレンツェッティ、シモーネ・マルティーニ、ドゥッチョ、マゾリーノ・ダ・パニカーレ、アントネルロ・ダ・メッシーナ、アレッソ・バルドヴィネッティ、アンドレーア・ダル・カスターニョ、ドメーニコ・ヴェネツィアーノ、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ、ピサネルロ、ベノッツォ・ゴッツォリ、ロレンツォ・コスタ、エルコレ・デ・ロベルティ、ドメーニコ・ギルランダイオ、アントーニオ・ポルライウオーロ、ピエーロ・ポルライウオーロ、フィリピーノ・リッピ、ピントゥリッキオ、ピエートロ・ペルジーノ、カルパッチョ、ルーカ・シニョレルリ、コルレッジョ、ピエーロ・ディ・コージモ、フラ・バルトロメーオ・ディ・サン・マルコ、ロレンツォ・ディ・クレーディ、ボッカッチーノ、アンドレーア・デル・サルト、ポルデノーネ、ジローラモ・ダ・トレヴィーゾ、ロッソ・フィオレンティーノ、パルミジャニーノ、パルマ・イル・ヴェッキオ、ロット、ジューリオ・ロマーノ、セバスティアーノ・デル・ピオンボ、ヤーコポ・ポントルモ、ヴェロネーゼ、ソードマ、ブロンズィーノ。
2. 裸体と戯れる!
裸体を題材にするのは、ある種の自然回帰であろうか。すべてを脱ぎ捨て、すべての情念をさらけ出し、ありのままの姿を描く。聖体への憧れを、露出狂に求るがごとく。それでいて、遠近法を用いて少し距離を置く。しかも、少し斜めから観察する。露出狂と正面から向かい合うのは、ちと恥ずかしいと見える。遠近法で奥行きをつけ、明暗法で影を背負わせ、心の闇を暗示することでリアリティを演出する。人生とは、まさに明と暗で構成される。詩に焦がれ、死に焦がれるのは、自己の廃墟を描くようなもの。ならば、すべてをチャラにして、身を清めるようと願うのも道理か。芸術に触れることの意義とは、自分の心を洗う手段としての洗礼へ導くことか。
本書は、良運とともに徳を身につける精進がなければ、結果を生み出さないという。だが、その良運に恵まれない才が実に多い。運だけに信頼を置く者は、やがて運に欺かれるであろう。凡人は運に溺れ、見返りを求めれば真理の道は途方もなく険しくなる。ならば、見返りを求めず、純粋に精神を解放することを望めば、真理の道は心地良いものになるというのか?相手の殺気を消したければ、自ら隙だらけになって、自己の殺気とともに飲み込む。春風駘蕩の奥義とはそういうものであろうか。ただし、純真な凡人は間違いなく身ぐるみ剥がされる...
3. 悪魔も捨てたもんじゃない!
優れた才能を持つ芸術家が、自然に対して負うところは大きい。では、鑑賞者が芸術作品に対して負うところとは、なんであろう?天才ならではの細かい配慮は、鑑賞者の側から高みに登らなければ、到底理解することはできない。凡人は、目の前にある幸せにも気づかない。いかに日常の幸福を浪費していることか。近づきすぎて調和が見えないとすれば、少し距離を置くことに意義を求めるのが遠近法ってやつか。画家の遠近法は客観性の眼を与え、明暗法をもって人生の明暗をあぶり出す。
しかしながら、芸術家にも悪辣きわまる嫉妬羨望の情念があろう。人間の徳の裏腹に悪徳が孕む。なにも聖なる世界を描くのに、聖人である必要はない。才能は、嫉妬やコンプレックスから覚醒することもあれば、憎悪と憤怒がやがて忍耐と謙遜へ導くこともある。寒さ、飢え、不憫、羞恥、嫉妬、抑圧、疲労... こうしたものをもろともせず、反発する力が潜在意識を覚醒させたりする。金持ちだからこそ、裕福だからこそ、満たされているからこそ、閉ざされる偉大な道がある。真理への野心には曇りがなく、権力への野心のような揺るぎはない。根源的な自由精神を存分に解放し、やがて権力欲や金銭欲を凌駕するのを待つ。
とはいえ、いくら仏門に入ろうとも、本当に正直者でいられるだろうか?罪悪を知らずして、純真な、清廉潔白な、ましてや聖人などと。だから、神に縋るというわけか。悪い奴ほどよく眠るというが、悪い奴ほど神に縋るというのは本当かもしれない。そして、もっと悪い奴は、悪魔に縋る...
「非常の才能を身に備えているのでないくせに、運命に助けられる人が数多く世にいる。そしてちょうどその逆に、才能を身に備えていながら逆運にいじめられて泣く人も数限りなく多い。それだから運命の女神が寵愛する子供というのは、まったく才能の助けなしに、運命の女神にすがるものだということがよくわかる。」
2016-02-28
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