2016-04-24

"土と文明" Vernon Gill Carter & Tom Dale 著

「自然」の対義語に、「人工」ってやつがある。自然法則が神の力だとすれば、人工物とは悪魔の思索であろうか。人間はそのことに薄々気づいていたから、そんな言葉を編み出したのだろうか...
「文明人はいつの場合でも、一時的には自然環境の支配者となることができた。彼らの大きな杞憂は、現世の権力が永久的なものであるという迷妄からもたらされた。文明人は自然法則を十分に理解せずに、己れを "万物の霊長" と考えた。」

生命にとって、食料の安定供給こそが長年の夢となろう。かつて人類は他の動物と同様、生きて行くためには自然環境に順応する必要があった。自然に逆らうようになったのは、農耕が定着してからのこと。それは、紀元前九千年に遡る。農耕文化の最大の意義は、穀物の大量生産によって食料を貯蔵できるようになったことであろう。食料獲得に追われる日々から解放されると、その余剰生活から文明を育むようになった。
文明ってやつは、都市というものを想像せずには考えにくい。すなわち、集団社会を。最初の文明は肥大な土地と豊富な水によってもたらされ、生産や流通の効率を求めては人口の集中が始まった。効率性への切望は経済にとどまらず、政治、宗教、学術など多岐に渡り、定住と分業をもたらす。四大文明で名高いエジプト、メソポタミア、インダス、黄河でも都市が建設された。都市建設の要件が食料と水の供給にあることは、現在とて変わらない。
ところが、人類の余剰への夢は食料にとどまらなかった。まさに近代都市は、余剰生産、余剰労働、余剰人口などの余剰価値によって支えられている。いまや余剰価値を生み出し続けなければ、経済システムそのものが維持できない。いわば自転車操業!

人間が生きるとは、消費を意味する。文明の衰亡を論ずる時、人口問題と環境問題を抜きには語れない。人類史に例を見ない人口増殖は、天然資源を消耗し尽くしては新天地に移転すればいい、というやり方は通用しない。
とはいえ、天然資源を消費し続ける習慣は、何百世代にも渡って踏襲してきたし、そう簡単に改めることはできないだろう。個人で改める意志があっても、集団では別の意志が働く。人間ってやつは、自然環境もさることながら、長年培われてきた社会慣習や社会常識にも順応しようとする。自然を大切にすべきか?と問えば、ほとんどの人が、Yes! と答えるだろう。だが、社会規模では、そうはならない。災害などで危機的な状況にあっても、少し余裕のある人の声は届くが、本当に危機にある人は声を発することもできない。そして、集団社会は不満を垂れる連中に乗っ取られる。ほんのわずかな人間の思惑で社会が動くとすれば、それは本当に民主主義であろうか?
「資源が枯渇して富が満足に全体に行きわたらなくなると、決まって弱者は強者に自由を捧げる。しばしば大衆は、富者から富を奪い、貧者に施すことを約束する煽動政治家たちに追随する。隣国に打ち勝てることを約束する独裁者に従う場合もあり、内乱を起こして闘う場合もある。弱小国のなかには、いち早く隣国による征服に屈服するものもある。個人の自由の究極は必然的に同じである。」

経済合理性は、しばしば自然合理性を破壊する。ほとんどの道路は舗装され、肥沃な土地はコンクリートで埋め尽くされ、気温は鰻登り... しっかりと地球温暖化に貢献している。
経済学は、資本 + 労働 + 原料 + 管理 = 生産 といった数式で生産効率性を算出する。自然環境に依存する原材料の供給は一定である、ということを前提にしながら。経済政策では、消費を煽ることしか能がなく、政治屋は相変わらずハコモノづくりに御執心だ。経済循環は意義ある投資によって機能するはずだが、現実の投資は産業振興よりもサヤ取り信仰へ向かう。金は天下の回り物!とは、浪費家がよく使う言い訳だ。
そこで、環境破壊、天然資源の枯渇、生活水準の低下を食い止めるために、二つの荒療治が提起されてきた。「人口ゼロ成長」「経済ゼロ成長」が、それである。本書はさらに第三の目標を加える。「浸蝕ゼロ率」というものを。ただし、究極的には不首尾に終わるかもしれないと、やや悲観的に語られる。高齢化社会は、この社会モデルを暗示しているように映る。おそらく文明そのものは、賞讃に値するものなのだろう。だが、人間は自惚れが強く、中庸の原則をすぐに置き去りにする。人類がどんなに開化しようと、どんなに野蛮であろうと、自然の産物であることに変わりはない。そして、自然法則から酷く逸脱すれば、その定めに従うことになろう...

1. 人口論
自然破壊はエネルギー問題だけではなく、人口にも深くかかわる。にもかかわらず、エネルギー問題が声高に唱えられる一方で、過剰人口については声が小さい。生物が異常繁殖すれば自己消滅に追い込まれるのが、生物界の掟。戦争にも皮肉な役割があった。20世紀型の大量殺戮は人口減少に寄与した。理性的な存在が、毒を以て毒を制すの原理に縋らなければならないとは。しかし、戦争で死んでいくのは若者たちだ。本当に社会を支えていく人たちだ。余剰人口なんぞではない。
自然に人口増加に歯止めがかかる国がある一方で、政治的、法律的に子供をつくる数を制限する国は少なくない。規制を必要とせず、自主的に人口調整のきく社会があるとすれば、それは自然に適っているのではないか。世間では、高齢化社会をまるで悪魔のような言いようだが、医療技術が進歩し、健康管理が行き届けば、寿命が延びるのも道理。人間の不老不死への欲望には限りがなく、いつの時代も健康ブームは旺盛ときた。高齢化社会は新たな年齢層を創出し、青年期、熟年期、老齢期の概念も見直さなければなるまい。少子化対策に、子供をたくさん作りましょう!では、人口増殖を煽るようなもの。これに、女性の社会進出と絡めて論じる有識者もいるが、また別の問題である。
ここで、ちょいと人口密度の観点から語ってみよう。例えば、日本とドイツを比べた時、国土の広さは同じくらいだが、平野の面積はヨーロッパの方が大きい。だが、人口比では、約1億2千万に対して約8千万。ただし、体格の違いが、多少の人口比を相殺しているかもしれない。いずれにせよ、日本の少子化問題は、今までの人口増殖のツケが回ってきたと見ることはできるだろう。それは財政赤字とも密接にかかわり、さらに子供たちにツケを回そうとしている。老後の面倒をみてもらおうという大人どもの魂胆か。人間の価値観ってやつは、一旦右肩上がりに慣らされると、終生、修正がきかないのか。六十、七十、八十になってもなお肉食獣であり続けるならば、若年層が草食獣となってバランスをとるしかなさそうだ...

2. 曲がった食文化
文明の成熟度は、食文化にも現れる。農作物は安ければ売れるなんて時代ではない。高品質で安全な食材を求めるだけでなく、高級食材を求めるようになった。にもかかわらず、農業政策では、いまだに価格競争に目を奪われる。そこそこの品質が保たれるようになると、今度は見た目が気になってしょうがない。売り場では曲がったキュウリが捨てられ、子供たちは自然の本当の姿を知らずに育っていく。ついに、天然モノが馬鹿にされる時代か?
遺伝子工学が進化すれば、遺伝子移植が盛んになり、遺伝子売買の市場が生まれるだろう。学者遺伝子やら、スポーツ遺伝子やら、長寿遺伝子やらに人々が群がる。人間は差別の好きな動物なのだから。そして、遺伝子格差社会の登場を見るのか。地上には、自然的な人間が抹殺され、人工的な人間が君臨するのか。仕舞には、ロボットとの最終戦争に挑むのか。キュウリがまっすぐな分、心が曲がるのかは知らん...

3. 古代ギリシアの農業
アテナイの歴史家や哲学者たちは、農業の偉大さを語りながら、農法や農耕技術についてはほとんど語ってこなかったという。ヘシオドスにしても、農業精神について神の恩恵を語ってはいるけど。アテナイが海上支配による植民地によって栄え、農業が奴隷制に支えられていたために、農作業に対する実感が薄れていたということはあるかもしれない。ただ、スパルタ、テーベ、アテナイはそうであったにしても、大半の都市国家で商工業化は進んでいなかったらしい。
ソロンの立法からクレイステネスの制度改革に至る期間中、アテナイは強大な商業国になった。そして、全面的に商工業と海外貿易に依存し、海上支配権を失うと、たちまち衰亡していった。生産的な土地という経済基盤を欠くと、都市の復興は極めて難しくなる。ソロンは、プラトンより二百年も前に、アッティカの土地が穀物栽培に不適となっていたことに気づいていたという。彼は、傾斜地の穀物の栽培をやめ、オリーブやブドウを栽培するように強調したとか。助成金を出して、土地を救おうと。プラトンが指摘した時には、あまりにも遅きに失したということか...
末端の生産者が虐げられるのは、いつの時代も同じ。現在では、生産者よりも流通網を牛耳る者が経済循環を支配し、情報の発信源よりも情報網を牛耳る者が情報を操作し、財産を生み出す技術や能力よりも金融システムを牛耳る者が市場を支配する。これが人間社会における弱肉強食の法則であって、自然淘汰の法則とは似ても似つかない。

4. ヨーロッパの統合問題
「ヨーロッパの大半が地理的・文化的の一単位であり、その結果、必然的に政治的・経済的な一単位にならなければならないか、という問題が当然起こる。その答えは簡単なものではない。」
経済圏の統合という観点から眺めれば、文化的にも、政治的にも、宗教的にも、ヨーロッパほど適した地域はあるまい。経済の実体が一つの単位になれば、ヨーロッパが合衆国のような形態をとり、経済効率を高める。
しかし、問題はそう単純ではないことを、ギリシャ危機や移民問題が物語っている。通貨統一の試みは、単なる通商的利便性だけでなく、各国の社会制度や国家財政にまで影響を与える。ユーロ圏で二大主要国として君臨するドイツとフランスに対して、イギリスも十分に主導権を握れるほどの存在感がある。にもかかわらず、イギリスがポンドを保有し続けることは興味深い。経済破綻のリスク分散として機能しうるということである。実際ギリシャは、ユーロ圏の首脳らに歳出削減や増税を強いられている。もし日本が、どこかの経済圏に属していたら、国債の発行残高に照らして、同じように迫られるであろう。自主的に国家財政を健全化できるか?これが問われている。

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