2016-08-14

"月と六ペンス" W. Somerset Maugham 著

これは小説なのか?小説ならば、主人公の動機や行為の理由、突然変化する気持ちの経緯などの説明義務があっていいはず。だが、あえて不可解という言葉で片付け、こんな一文が鏤められる。
「当時の僕は、未経験で人間の理解が浅くて、そんなふうにしか解釈できなかった。」
傍観者の一人称小説とすることで、主人公についての理解が満足のいくものではない、と素直に言い訳できる。決して意見を変えないのは馬鹿と死人だけというが、一人の人間が首尾一貫して生涯を全うするなんてことは不可能であろう。同じ人格の中に、到底調和できない情念が共存しているのだから。不可解を不可解のまま、矛盾を矛盾のまま描くから、リアリズムを演出し、人間味あふれた人物像が描ける。人間不可解論とは、こういうものを言うのかもしれん...
尚、数ある翻訳版の中から行方昭夫訳(岩波文庫版)を手にとる。

本書は、ポール・ゴーギャンをモデルにした創作小説である。彼の伝記では、数々の正統派物語があるにもかかわらず、「月と六ペンス」を思い浮かべる人も多いようである。
サマセット・モーム自身は通俗作家を名乗っていたというが、彼は皮肉屋か?はたまた照れ屋か?芸術の魔力に憑かれた男のロマンに女性蔑視のエゴイズムを重ね、冷笑的に描いて魅せる。
尚、モームは妻との関係が険悪だったそうな。数々の女性蔑視の台詞は、憂さ晴らしのために非常識な主人公に代弁させたのかは知らんが、フェミニストの攻撃に曝されたことだろう。
芸術家は世間に羞恥を曝け出し、自分自身を生け贄に捧げながら作品に思いを込める。性的本能が自虐にさせるのか?いや、M性がそうさせるのだろう。
主人公は、ゴーギャンの生きた痕跡に、モームの自我を組み込んだような人物である。二人の人物像が重なれば、もはや精神分裂症は避けられない。その証拠に、登場人物がことごとく支離滅裂な言動をぶちまける。人間ってやつは、誰もが精神分裂症を抱えているとでも言いたいのか?精神病を患わない人間は、もはや精神がないとでも言いたいのか?そうかもしれん。その本性を誤魔化し、自分自身を欺くために、常識やら地位やらに縋るというわけか...

ところで近年、「低欲望社会」という用語をよく耳にする。金銭欲や物質欲といった尺度から眺めれば、そうかもしれない。金銭欲、物質欲、名声欲といった欲望に一貫性を保つことができれば、生きるための拠り所にすることはできるだろう。
しかし、高度成長時代に当たり前とされてきた賃金増加は、既に息切れしている。そんな状況にあって、知識欲までも低迷していると言えるだろうか?新たな価値観を別の方面で模索し、欲望が多様化しているだけではないのか?人間が欲望を、そう簡単に放棄できるとは考えにくい。凡人は小欲なり、聖人は大欲なり... とは誰の言葉であったか。金になる仕事が減っても、金にならない仕事はいくらでも見い出せる。
例えば、ボランティアで技術を開発するフリー経済の場に身を置く人々がいる。最低限の生活費が確保できれば、他のことに生き甲斐を求めるのである。インターネットにしても、今でこそ勝ち組などと称して金儲けをしている連中が幅を利かせているが、もとももとはボランティア的な研究者の集まりから生まれたものだ。一時期フリーミアムというビジネスモデルが流行したが、現在のフリー経済はもっと多様化しているように映る。貨幣経済から知識経済への移行とでも言おうか。
すべての依存から解放されたいという思いには、欲望そのものからも解放されたいという矛盾がつきまとう。証券マンだったゴーギャンがすべてを捨て、画家になって遠く離れたタヒチに身を委ねたのは、現実逃避の結果でもあろう。フリー経済へ身を委ねるのも、ある種の現実逃避と言えば、そうかもしれん。しかしながら、現実逃避してもなお生きて行けるのが、天才という人種である...

1. 「月と六ペンス」とは、まさに、月とスッポン!
タイムズの文芸付録に出たモーム著「人間の絆」についての書評には、こんな文句があったそうな。
「多くの他の若者と同じく、主人公のフィリップは月に憧れるのに夢中であったので、足もとにある六ペンスを見なかった。」
「月と六ペンス」という風変わりなタイトルは、ここから借用したものらしい。つまり、夢と現実を対置しているわけだ。夢を体現する人物として描かれるのは、主人公ストリックランド。ごく平凡な中産階級の証券マンは、四十にして突然家族や仕事を捨て、画家の道に身を投じ、タヒチで生涯を終える。物語は、社交界の評判や富に執着する人々と対比しながら夢と現実の狭間で展開され、そこに現実を生きる人々への痛烈な皮肉がこめられる。人間ってやつは、夢に縋ろうが、現実に縋ろうが、結局は何かを拠り所にしなければ生きては行けないというわけか...
「偉大さといっても、運に恵まれた政治家とか、成功した軍人のことではない。その種の偉大さは地位に付随するものであって、人間の価値とは無関係であり、事情が変われば、偉大でもなんでもなくなってしまう。退職した途端に、名宰相が屁理屈ばかりこねる尊大な男になりさがるとか、退役した将軍が都市の平凡な名士にすぎなくなるといったことは、誰もがよく見聞するところである。そこへゆくと、チャールズ・ストリックランドの偉大さは本物だった。」
ところで、夢と現実の違いとは、なんであろう。夢ってやつは、どんなにありえないストーリーであっても、見ている間は妙にリアリティを感じるものだ。一方、現実は、過去に追いやってしまえば、なんと馬鹿げたことかと笑いの種になるか、あるいは忘却の遥か彼方。それで、何が違うんだっけ?今、目の前で起こっている出来事が、夢か現実かは知らんよ...

2. ゴーギャンとの類似点と相違点
本書は、ゴーギャンとの類似点を多く見つけることができるが、相違点も多い。実際、ゴーギャン夫人が「月と六ペンス」を予見なしに読んで、自分の夫がモデルなどとは少しも思わなかったそうな。それはそれで、ちと鈍いような気もするが...

類似点は...
平凡な家庭の家長として証券関係の仕事に従事し、画家へ転向したこと。非社交的で社会常識を無視したこと。タヒチで現地人の妻を持ち、そこで死んだこと。死ぬ前に最高傑作を完成させたこと。後は、絵の手法や主題など...

相違点は...
ゴーギャンはフランス人で、主人公ストリックランドはイギリス人。物語では妻と完全に絶縁するが、ゴーギャンは家族をタヒチへ呼び寄せようとしたという。ストリックランドは絵画論を語らなかったが、ゴーギャンは自作についても他の画家の作品についても多弁に論じるなど、もう少し人間味があったようである。
また、友人のストルーヴ夫妻との関係がワイドショー風に展開される。ストリックランドは肉欲のために夫人に手を出し、彼のニヒリズムのために服毒自殺に追い込むが、ゴーギャンは友人の妻を誘惑したことはあっても深刻なものではなかったようである。
晩年のストリックランドはハンセン病を患わせて盲目となり、それでもなお壁面いっぱいに最後の傑作を残し、タヒチの妻に命じて焼却させる...

最後の傑作について、遺体を看取ったクートラ医師は、絵画知識がまったくないにもかかわらず、宇宙論的な感想をもらす。官能的な美しさは、むしろ恐怖を掻き立て、宇宙は無限で、時は永遠だという強烈な印象を与える絵であったと。それは、ゴーギャンの代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか」から、ヒントを得たものらしい。ほとんどの人間は物質主義者であり、この絵の前では物笑いの種にされるような...
「自然の隠れたる深淵にまで侵入し、美しくもあり、かつ恐ろしくもある秘密を発見した男の作品だ。人間が知るには罪深すぎる秘密を知った男の作品だ。どこか原始的で慄然たるものがあった。人間が描いたものとは思えなかった。彼は以前うわさに聞いた黒魔術を思い出していた。美しく、かつ淫らでもあった。やれやれ、まさに天才だ!」

3. 人間不可解論
ストリックランドは、安定した生活が保証されているにもかかわらず、突然すべてを捨てた。退屈病がそうさせるのか?マンネリという名の拷問がそうさせるのか?世間は言う。労働の尊さを知れ!と。彼も自問したに違いない。証券取引所で金儲けすることが真の労働なのか?と。
ストリックランド夫人の考えは、四十の男が突然蒸発するのは女ができたに違いない、ということ。知性が低ければ抽象的な議論を嫌悪し、人生とは何か?などと自問することもないと蔑む。結局、社交界の地位や富の尺度でしか価値が語れない世界にうんざりしたのだろう。こうした行動に不自然さを感じない。むしろ不可解なのは周囲の連中である。
三流画家ダーク・ストルーヴは、友人としてパリで貧乏生活を続けるストリックランドを援助し、重病を患うと自分の家に引き取る。妻ブランチを寝取られたにもかかわらず、ストリックランドを崇め続けるとはどういうわけだ?
妻ブランチは、もっと不可解!ストリックランドはエゴイストで世間の評判が悪く、ブランチも思いっきり嫌っていた。夫ダークが重病のストリックランドを引き取ると打ち明けた時も、絶対いや!と拒否。だが、体を丁寧に洗ってやったり、愛想笑みを浮かべたり、嫌った素振りを一切見せない。
やがてストリックランドの肉体に惹かれ、二人で家を出る。ストルーヴ夫妻が倦怠期にあったのかは知らん。ついに献身的な世話は報われず服毒自殺する。恋心ってやつが、見事に利己心を覆い隠してしまう。孤独愛好家には、自虐願望の性癖があるらしい。
その一方で、タヒチで結婚した妻アタは、超人的な愛の持ち主。神の寛容さでもなければ、これだけのエゴイストを包み込むことはできないだろう。
さて、ストリックランドの方はというと、まったく罪悪感がなく、見事なほどに男のエゴイズムを貫く。夜の社交場で、こんな台詞を吐くと袋叩きにされるだろう。とはいえ、小さな声で... 惚れ惚れする!
「俺は愛など要らぬ。そんな暇はない。愛は人間の弱点だ。俺は男だから、女が欲しいこともあるさ。だが欲望が満たされれば、他のことに向かう。性欲は克服できんが、そいつを憎んでもいるのだ。精神を虜にするからだ。あらゆる欲望から解放され、邪魔なしで仕事に没頭できるときを、いつだって待ち望んでいる。女は恋以外に何もできないから、滑稽なほど恋を重視するのだ。そして、恋こそ人生のすべてだなどと男にも思い込ませようとする。恋など人生の瑣末な部分にすぎん。情欲なら分かる。正常で健康的なものさ。だがな、恋は病だ。女は快楽の道具だ。伴侶だの、仲間だの、連れ合いだのという主張には我慢ならんよ。」

4. 良心という名のスパイ
世間に支持されたいという人間の願望はとても強い。世間の批判を恐れる気持ちも同じく強い。そこに良心ってやつが、心の隙間に入り込み、個人の幸せよりも社会の利益を優先させるという寸法よ。実は最も手に負えないのが、肥大化した良心なのかもしれん...
「およそ良心というものは、社会が自らを維持する目的でつくった規則が守られているかどうかを監視するために、個人の内部に置いている番人である。個人が法律を破らぬよう監視するために、個人の心の中に配置された警官だとも言えよう。自我なる要塞に潜むスパイなのだ。」

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