2016-08-28

"サミング・アップ" W. Somerset Maugham 著

これで三冊目!サマセット・モームに嵌ってもうた... 尚、再び行方昭夫訳(岩波文庫版)を手に取る。

「月と六ペンス」と「人間の絆」で、事実と虚構が調和した半伝記と半回想録に魅せられた。ゴーギャンを題材に選べば、伝記として独り歩きをはじめ、架空な人格を暴露すれば、作家の知人で迷惑する人もいる。小説とは、自惚れと虚栄心の渦巻く世界。既成事実でなんでも正当化しようとする衝動は、いわば人間の性癖。人間の自己中心癖は途方もなく大きい。
しかしながら、この性癖をユーモアと解すると、まるで別の世界が見えてくる。そして、こう問わずにはいられない。現実と夢の違いとは何か?と。記憶を曖昧にしてくれるということが、いかに心地よいものか。その区別がつかなくなることが、幸せの第一歩!そして、モームの達した帰結が... 人間の存在は無意味!人生に意味などない!... としたところでなんの不都合はなく、むしろ生きる活力とすることができる。これぞ皮肉屋の真骨頂というものか。経験を十分に積み、老齢になってもなお、人生に意味を見い出せなければ生きては行けないとすれば、それは辛かろう...

「私はまた、自分の先入観に影響されぬように用心してきたつもりである。私は生来ひとを信用しない。他人は私に好意的なことよりも悪意のあることをすると思う傾向がある。これはユーモアの感覚を持つ者が支払わねばならぬ代償である。ユーモアの感覚を持つ者は人間性の矛盾を発見するのを好み、他人がきれい事を言っても、信用せず、その裏に不純な動機があるだろうと探すのだ。外見と中身の違いを面白がり、違いが見付からないときには、でっち上げようとする傾向さえある。ユーモア感覚を発揮する余地がないというので、真・美・善に目を閉ざしがちである。ユーモア感覚のある者はインチキを見つける鋭敏な目を持ち、聖人などの存在は容易には認めない。
だが、人間を偏った目で見るのが、ユーモア感覚を持つために支払わねばならぬ高い代償であるとしても、価値ある埋め合わせもあるのだ。他人を笑っていれば、腹を立てないで済む。ユーモアは寛容を教えるから、ユーモア感覚があれば、ひとを非難するよりも、ニヤリとしたり、時に溜息をついたりしながら、肩をすくめるのを好む。説教するのは嫌いで、理解するだけで充分だと思う。理解するのは、憐れみ、赦すことであるのは確かだ。」

THE SUMMING UP... とは、「要約したもの」といった意味。モームは散歩するかのように、思いつくままに題材を抽出しては意見を綴っていく。人生でも要約しようってか。なるほど、「人生のしめくくり」というわけか。散文とは散歩の一種で、人生とは散歩であったか...
彼は、自己の再発見と、考え方の一貫性を見つけようとするが、なかなかうまくいかない。一貫性ってやつは、想像力を欠いた人間の最後の拠り所である... とは誰の言葉であったか。矛盾によって一貫性を崩壊させるよりも、矛盾をも調和の中に取り込んでしまう方がずっと幸せであろう...
ところで、人生の締めくくりに思いを馳せて書く資格とは、何歳ぐらいを言うのであろうか。五十になる前に、このようなものは書くべきではない... と、ある小説家は語った。いずれ自分の死について考える時期がやってくる。寿命が延びれば、人生の締めくくりも先送り。モームは、六十を過ぎると同年輩の連中が亡くなっていく様を横目に、このような本を書かずに死んでいくことはさぞかし口惜しい、と執筆を始めた旨を告白する。
「こんなありきたりの結論に達したことを私は恥じる。効果を狙うのが好きな私なので、本書を何かはっと思わせるような逆説的な宣言で締めくくりたかった。あるいは、読者がいかにも私らしいと笑いながら認めるような皮肉を締めくくりとしたかった。どうやら私の言いたいことは、どんな人生案内書ででも読めるような、どんな説教壇からでも聞けるようなことだったらしい。ずいぶん回り道をしたあげく、誰でも既に知っていたことを発見したのである。」

1. 美徳の偏見
こんなありきたりの結論!... といって嘆くことはあるまい。言葉を知っているからといって、理解したことにはらない。概念を言葉で説明できたからといって、実感することは難しい。真、善、美などと三大美徳を持ち出したところで、真理がどこにあるかも分からず、何が善なのかも分からず、普遍性などというものが人間にとってどういうものかも分からない。にもかかわらず、人間は美徳とやらに依存せずにはいられない。正体が分からないから、実体が見えないから、狂ったように憧れるのか。
まだしも、美はましな立場にある。美的感覚は極めて主観的で、自己満足の上にあり、言葉で無理やり定義する必要もない。美は信仰に似ており、殺伐とした社会では芸術の美が辛うじて憩いの場を提供してくれる。そして、現実逃避のために芸術を盾にしながら、平凡なものは何であれ軽蔑の目を向ける。自分の落ち度が、他人の落ち度よりも、ずっと許しやすいとは奇妙である。どんなに知性を高めようとしても、どんなに理性を高めようとしても、教養ってやつは往々にして自惚れを旺盛にさせる。人間ってやつが結局は独善的な存在で、何も悟れないとすれば、分かった気になれるということが、いかに幸せであるか...
「私が思うには、千冊の書物を読んだのと、千の畑を耕したのと、どちらが高級かというと、差などない。絵について正確な解説が出来るのと、動かない車の故障箇所を発見できるのと、どちらが高級かという差はない。いずれの場合も、特別な知識が使われる。証券マンもそれなりの知識を持ち、職人もそれなりの知識を持つ。知識人が自分の知識だけが高級だと考えるのは愚かな偏見である。」

2. 批評家の批評
モームは、現代批評が無益である理由の一つは、作家が副業でやるからだ、と苦言を呈す。だが同時に、今日ほど権威ある批評家を必要とする時代はないとも言っている。
あらゆる芸術が困難な状態にあるのも確か。実際、作家か?教育者か?区別がつかない人もいれば、有識者を名乗る人もいる。まるでストレス解消のために批判の対象を求めるかのように。孤独と相性のいい芸術に没頭している人が、そうやすやすと露出狂になれるはずもないか...
「偉大な批評家は、知識が広いと同時に、幅広い作風に共感できなければならない。その共感は、自分には興味がないものだから寛容になれるというような無関心に基づくのではなく、多様性への活発な喜びに基づくべきだ。偉大な批評家は心理学者と生理学者でなくてはならない。文学の基本的な要素がどのように人間の精神と肉体に関連しているかを認識すべきだからである。彼は哲学者でなくてはならない。澄んだ心、公平さ、人間のはかなさは、哲学から学べるからである。」

3. 芸術家の自己中心主義
芸術家の自己中心主義は酷いという。生来独我論者で、世の中は自分が創造力を行使するためにのみ存在すると思っていると。
なにも芸術家だけの性癖ではなかろうが、まず、それを自覚することが作家の第一歩となる。社会的義務を背負わされたところで重荷となるだけ。そのような重荷から自己を解放するためにのみ書くのが一番。世間に評価してもらいたい、専門家に評価してもらいたい、などという思惑は無用だ。人間を曝け出さなければ小説など書けやしない。羞恥心の渦巻く世界に身を置かなければ。これは、ある種の自殺行為か...
自己と葛藤すれば、自己に敗れ、自己を抹殺にかかる危険すらある。不安と惨めさから、自己をどう救えるというのか。賢明な作家であれば、心の平静のために書くよう配慮するだろう。独善的な世界に身を置けば、最大の危険は成功ということになる。
だが、成功ってやつは、自己を破滅させようと罠を仕掛けてくる。その罠に気づけば、成功は新たな創造力を刺激するだろう。そして、芸術家は、自惚れとの闘いを強いられ、成功することがより堅固な自信をもたらす。
しかしながら、年老いてもなお、自信に縋らなければ生きては行けないとすれば、それは辛かろう...
「芸術家は誰も自分の差し出すものを信じてほしいと望むけれど、受け入れられなくても怒りはしない。しかし、神はそのように物わかりがよくない。神は自分を信じるようにとあまりにも強く望むので、自分の存在を納得するために信者を求めるのかと勘ぐってしまう。神は神を信じる者に褒美を約し、不信心者を恐ろしい罰で脅す。私としては、私が信じないからというので腹を立てるような神は信じることが出来ない。私ほどの寛容ささえ持たぬような神など信じない。ユーモア感覚も常識も持たぬような神を信じるのは不可能だ。」

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