「主題とモノに突き動かされれば、人は、あとで自分が何を言ったのか思い返せないほどの激情と力強さをもって語るものである。」
... ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン「回想録」より
口頭で残せば、制約から解き放たれる。発言が検証されなければ、口の動きに任せて語ることができる。魂の奥底に潜む無意識の領域を覗こうとすれば、思考は手探りで進み、横道に逸れることもしばしば。春風に誘われて散歩するがごとく。もちろんボイスレコーダの持ち込みは禁止だ。
本書は、文化人類学者レヴィ=ストロースが高等研究院とコレージュ・ド・フランスで32年に渡って行った講義集である。そこには思考のスケッチが集められ、彼の著作群の道案内人となってくれる。「人類と歴史」、「悲しき熱帯」、「構造人類学」、「今日のトーテミスム」、「野生の思考」、「神話論理」、「親族の基本構造」、「はるかなる視線」、「遠近の回想」などの...
講義ですべてを語り尽くすことは不可能だ。せめて思考の道筋を辿ることのできる素材を残したい... あとは聴衆の理解力に委ねたい... との声が聞こえてきそうな。
「私の即興癖ゆえに、予想されなかった問題や謎がしょっちゅう立ち上がり、主題を追求する前に、それをまず解決するよう強いられることもあったが、あとで出てくる結果は同じであった...」
講義が行われた二つの研究機関は、フランス共和制の理念に沿って誕生した。学問精神は自由精神とすこぶる相性がいい。そこに、政治的思惑や経済的実益など無用だ。仮説やアイデアを存分に試すのに、王道も邪道もない。もし定式化に失敗したとしても、それが無意味ということにもならない。思考の過程が大切なのだから。天才とは、無意味を意味あるものに、無意識を意識あるものに、そして無駄を存分に謳歌できる人のことを言うのであろうか。なるほど、この酔いどれが、無意味、無意識、無駄を恐れるのも道理である...
ところで、文化の源泉とはなんであろう。文化は、民族や地域などの集団社会から育まれる。群れる習性がそうさせるのか?
では、人間はなぜ群れようとするのか?自己確認のための手段か?相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体は、他人との対比においてのみ自己を確認できる。その意識には排他的心理が働く。自分は特別なのだと...
おそらく、仲間意識や敵対心を人間の意識から根絶することはできないだろう。人間は、自分自身がなんであるかを求めてやまない。自己の居場所を求めてやまない。そこに答えが見つからなければ、信じるだけだ。救ってくれない宗教なんぞに居場所は与えられない。だから、無条件で信じこませようと必死だ。人がなんらかの罪を意識しているとすれば、まずもって罪人を救済しなければなるまい。さすがに宗教は、目のつけどころが鋭い。存在を確認する術がない事象ほど、存在中心主義を旺盛にさせるのであろうか。人間中心主義、民族中心主義、西欧中心主義、自己中心主義... すべては他との対比において出現してきた。人間社会は相も変わらず迷信や慣習に深く依存し、存在が脅かされない程度に科学的事実を認める用意がある。宗教に依存すれば、宗教観を否定する存在は絶対に認められない。存在にとって不都合なものには寛容ではいられないのだ。すべての存在原理は、自己存在、ひいては自己愛に発している。これが人間の性癖というものか...
いまだ人類は、精神の正体を知らない。正体を知らなければ、確実な存在証明ができない。もはや存在の証を過去の栄光に縋るしかない。忌々しい過去は抹殺にかかる。
しかしながら、人類学には、文化なり、人々なり、その対象や記憶が消滅していくという困難がつきまとう。純粋に自然と向き合ってきた先住民は減少する一方で、近現代人はますます文明の波に呑まれていく。過去が次々と忘却に追いやられる分、未来が過去に呑み込まれていけば、それが希望となるだろうか。人類は、存在の原点を失おうとしているのだろうか...
1. 言語学と人類学
レヴィ=ストロースは、言語学が示している道こそが人類学の取るべき道であると説く。そして、その構造概念は多くの場合、共時態と通時態を組み合わせた二つの次元からなるという。これは統計学的な観点からの発言のようだが、平均値と呼ぶには弱い、一般化と呼ぶのもいまいち、普遍性と呼ぶにはちと大袈裟な気もする。いずれにせよ、この分野は抽象化よりも多様化の方が相性が良さそうである。言語は、論理性だけでは説明ができない、慣習と深く結びついた側面を持ち、こんな時はこういう風に言うものだ!とった暗黙の法則に支えられている。
「ソシュールによれば、世界中のあらゆる言語は、言語が有縁性と恣意性に割り当てている場所にしたがって秩序づけることができる。一方には文法的言語があり、もう一方には語彙的言語があるが、その間にはさまざまな媒介の形式が組み入れられている。」
2. 多様性と不平等
こと人間社会に関して、例外のない法則はないだろう。人間個体に奇形があるように、人間社会にも奇形がある。時には、例外の方が多数派だったりする。権利の定義は、はたして多様性と普遍性のどちらを基軸にすべきであろうか。これは、自由と平等の共存に匹敵する難題である。
人間社会では、進化は二つの形態をとるという。一つは、長時間に渡る量的進化で、もう一つは、細かな観察が要求される多様化であると。地球資源に依存することでは、古代人も現代人も同じ。だが、文明が高度化するほど、根源的に依存している自然物の存在を覆い隠し、間接的に依存している人工物の存在を大きく見せる。集団に依存し、機械に依存し、仮想空間に依存し... ますます依存症を強めれば、自立性や自律性を失わせるのか。先住民の言語や文化は保護政策の対象とされるものの、彼らは既にアイデンティティを見出すことが難しいようである。それどころか先住民という概念すら曖昧になってしまい、貧困層と混同される。多様性という用語は、しばしば不平等と解釈されるようである。異色で理解の難しい風習に出会っては、未開人や野蛮人などとレッテルを貼る。俗進化論と結びつけば、猿の文化というわけだ。
一方で、どんなに善意をもって、文化や民族の特徴、男女の役割などを構造的に唱えても、宗教家やフェミニストの攻撃に曝される。人類学用語は、下手すると差別用語に仕立て上げられるのだ。レヴィ=ストロースが、ルソーの「不平等起源論」に執心するのも分かるような気がする。
3. 間接的表象と交換原理
神話の表すレトリックやモチーフには、何が意図されているのだろうか?わざと主題をぼかし、暗喩の類いを多用する裏に、いかなる精神メカニズムが隠されているのだろうか?間接的表象は、神話だけでなく、トーテミズムや仮面信仰、あるいは儀式や慣例にも現れる。人は何かに願いを込める時、仮想的な対象を欲する。実体に縋ることができなければ、自由に存在を定義できるのだから。偶像化とは、ご都合主義の現れか。儀式や慣例を常識とするのは、そこに心の拠り所でも求めているのか。
精神的な表象は論理性だけでは説明できない。言語は、そうした曖昧な領域までも内包している。言語を論理的な記号でしか解釈できなければ、神話に隠された論理を解読することもできないだろう。神を思い描くのは、叱ってくれる存在を欲する M性の現れであろうか?神の代理人を称するのは、S性の現れであろうか?人間にこのような性癖を与えた神もまた、チラリズムがお好きなようだ...
現在でも、物事を面白おかしく説明するために喩え話が用いられ、プレゼンテーション技法でもよく用いられる。分かりやすい言葉ばかりに触れていると、文学性を乏しくさせ、文章の奥行きが読めなくなる。やはり、心をくすぐるのは間接的な表現の方であろうか。いや、洗脳するには直接的な表現の方がいい。皮相的な表現に対してヒステリックにさせる性癖こそ、扇動者の望むところだ。無条件で信じこませるには、感情を直接操る方が合理的である。
じっくりと読書する暇もない現代人は、分かりやすいものに飛びつく性向がある。そこで、分りやすくもあり、間接的な表象でもあるハイブリッド型の社会が、仮想化社会であろうか?仮想化もまた、間接的表象であり、ある種の偶像化と言えよう。貨幣経済が価値指標を明確にし、名誉や肩書が存在を保証してくれれば、欲望の所在が分りやすくなる。溢れる情報に混乱させられれば、流行に身を委ねるだけで、心に落ち着きを取り戻せる。精神に何かを語りかけたければ、仮想化した存在に訴えるのも有効のようだ。
欲望の代替を求め、実体の代替を求め、そこに交換の原理が生まれる。おまけに、負債は常に交換の対象とされ、その中に妻や夫が含まれるケースも珍しくない。互いの保険金や性関係において。人間にはスワップ好きの性癖がありそうか...
「トーテム的表象が目的としているのは、社会的現実のあらゆる側面の一方から他方への可換性を保証すること、そして言語の面においては、自然と社会の次元における有意味な側面を同じ単語で表現し、片方からもう一方への絶え間ない移行を可能にすることである。」
4. 双系出自体系と平等関係
共系(双系)、すなわち、父母系の対等な認識に基づく出自体系は、例外としての親族構造ではなく、頻出するというから、なかなか興味深い。伝統的な親族関係では、妻の貰い手と贈り手の間において不平等な関係が生じる。政治的地位を獲得したり、武力的安全性を確保するために、女性が利用されてきた。そこで、集団的な対等関係を担保するために、女性と女性を交換しあうことになる。ただ、父系制か母系制かによって、交叉イトコ婚や平行イトコ婚などの意味も違ってきそうである。人間社会には、平等関係を求める資質を持っていながら、膨大な統計パターンから、結局は不平等関係に落ち着く性質でもあるのだろうか?多くの物理現象が、均等ではなく、カオスへ向かうように。圧倒的に父系制が多い事実も、数学的に説明できるのだろうか?
「共系体系と単系出自による社会との間の差異は、おおまかに言って、節足動物と脊椎動物との違いになぞらえることができよう。単系出自の場合、社会の骨格は内在的なものであり、それは人格的な地位の共時的かつ通時的な網の目からなり、そのなかで個人の地位は、ほかのあらゆる地位と固く結び付けられる。共系の場合、その骨格は外在的なものであり、それは領土的な地位の網の目からなり、つまり土地占有の体系だと言える。こうした領土的な地位は、個人にとっては外部のものであり、彼らは、このような外的な制約によって定められる範囲内で、一定の自由度をもって自己の身分を定めることができる。」
5. お家制度
世界の様々な地域には、家族、氏族、リネージなどでは説明のつかない社会集団があるという。家制度ってやつだ。ギルドにも似たような形態で、封建制を支えてきた制度でもある。これは、血縁による世襲というだけでは説明できない。家柄の格付けが政治的、経済的地位を保証する一方で、お家断絶や家督相続で問題となる。集団責任の意識も強い。伝統芸道では、家元が絶対者として君臨する。こうした権威的意識は、ある種の結束力をもたらすが、もともとは信仰的な意識から発しているのかもしれない。やがて、系統的、カースト的な意識が常識化され、封建社会の基盤となっていく。慣習とは恐ろしいものである。
現在ですら、夫婦別姓を認めることに拒否反応を示すのは、どこかに「お家」というものに執着があるのだろうか?血の絆から実益の絆へ。いずれの絆も、幻想といえばそうかもしれん...
「家制度を有するすべての社会では、対立しあう二つの原理の間で緊張や、またしばしば紛争が発生する。つまり本質的に相互に排他的な原理が並び立っているわけである。たとえば出自と居住、外婚と内婚、ここでもやはり正確に応用することのできる中世風の述語を用いれば、人種の権利と選択の権利が、それである。」
6. 儀礼メカニズムとゲーム理論
本書は、神話の論理を説明するために、神話の言説をある種のメタ言語として扱っている。一方で、儀礼のメカニズムを説明するために、「パラ言語」というものを提案している。神話も儀礼も意味作用を持っているが、程度の違いがある。というより、意識か無意識かの違いであろうか。儀礼の価値には、祭具や身振りのうちに含まれる形式的な意味合いが強い。現在でも、儀礼そのものが慣習に呑み込まれるケースをよく見かける。様式から外れると、非常識やら、無礼者やら、とお叱りを受けるわけだ。そして、意味を尋ねると、説明できないのである。
また、神話モデルの分析では、言語学との対話が最も良いやり方で、儀礼モデルの分析では、ゲーム理論を用いるのが良いとしている点は、なかなか興味深い。まずゲームを、無数の試合展開を可能にする規則の総体として定義し、次に、二つのチーム間でバランスが生じるような特別な試合展開を想像し、その試合展開の中から最も合理的なシナリオを選択しようとする... といった考察である。確率論的でありながら、量子進化論的とも言えようか。ゲームの目的は勝利することだが、チーム内には分離作用が生じる。うまく試合運びができれば、合理的な役割分担が生じ、うまくいかなければ、分裂の火種となる。
儀礼もまた人と人を結びつけたり、反目の種となったりする。ここで言う合理性が自然法則に適っっているかは知らんが、人間社会において区別と差別は紙一重のようである。人の好き嫌いも気まぐれといえば、そうかもしれない。親子や兄弟、あるいは神の前で誓った二人が、最も根深い憎悪を抱くのも道理であろうか...
2016-08-07
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿