2016-08-21

"人間の絆(上/下)" W. Somerset Maugham 著

「絆」という言葉は、心地よく響く。だが、どんなに美しい言葉でも、肯定的に捉えるだけでは不十分である。政治屋どもに巧みに操られる「正義」しかり、宗教屋どもに催眠の術とされる「友愛」しかり、酔いどれ天の邪鬼には、こそばゆい。「きずな」から仲間の「な」を取れば、ただの「きず」。断ち切れない繋がりは、心を圧迫するばかりか、仲間意識ってやつを強迫観念にまで高める。義務という名の下で社会の生け贄に捧げるもの、それが良心ってやつか。身体や精神に障碍があったり、普通の人と違うというだけで虐げられれば、その運命を恨み、普通という言葉にどれだけの意味があるのかと自問せずにはいられない。おまけに自虐癖がしみつき、逃避先は哲学か、形而上学か。不器用な生き方しかできない人には、絆は苛酷な言葉となろう。だからといって、逃避先に義務や常識を選べば、同じことかもしれん...
一方で、孤独の試練が自立心を芽生えさせる。いずれにせよ、孤独に依存するか、集団に依存するかの違いでしかない。そして、ニヒリズムが到達した幸福観念とは...
成功も無意味、失敗も無意味とすれば、失敗を恐れる理由はなくなる。人間は、生まれて死んでいく存在でしかない。そして、生も無意味、死も無意味とすれば、死を恐れる理由もなくなる。ましてや孤独死など、自然死の一形態にすぎないではないか。自己存在を否定してもなお、心が平穏でいられるなら、真理の力は偉大となろう...
尚、「人間の絆」は、サマセット・モームの半自伝小説であり、訳者中野好夫(新潮文庫版)はこう書いている。
「少なくとも作家の名に値する作家というものは、なによりもまず自分自身のために書く強烈なエゴティストである。なまじ世道人心や良俗教育のために書かれた文学に碌なものがなく、ひたすら自我のカタルシスのために書かれた作品こそが、かえって人間を高め、浄める文学であるというのは、文学の一つの皮肉である。『人間の絆』もまた、実にそうした作品の一つであった。」

幸福の否定から到達した寂滅の幸福とは、いかなるものであろうか...
これは、絆に縛られた一人の男が、ついに絆を断ち切り、自由な人間観に目覚めていく物語である。主人公は、片足に先天性の障碍を持つために、生まれながらにして背負わされた運命という名の強い絆で結ばれる。彼は、幼き頃から自己存在の意味について問い続ける。
絶望の境地にある者が、人生を幸福の尺度で測れば、恐ろしく惨めなものとなる。もはや救いの道は、自意識の解放か。世間が勝手に描く幸福という幻影を追い払うには、数学や論理学に縋ってみるのもいい。主体に幸福を見いだせなければ、客体に見いだそうとするだけのこと。やがて信仰や義務から解放され、障碍意識から解放され、泥沼の人間関係から解放され、人生の重荷が除かれていく。
そして、なぜこれしきのことが分からなかったのか!と、およそ「絆」とは程遠い宇宙論に達するのであった...
「人生に意味などあるものか。空間を驀進している一つの太陽の衛星としてのこの地球上に、それもこの遊星の歴史の一部である一定条件の結果として、たまたま生物なるものが生れ出た。そうしてはじまった生命は、いつまた別の条件の下で、終りを告げてしまうかもわからない。人間もまた、その意義において、他の一切の生物と少しも変わりない以上、創造の頂点として生れたものなどというのでは、もちろんなく、単に環境に対する一つの物理的反応として、生じたものにすぎない。」

1. 半自伝小説
この作品は自伝小説という評判があるが、あえて半自伝と書いた。というのも、相違点が多いからである。
まず、モームは幼少期から、ひどい吃り癖があって極度の劣等感に悩んだという。一方、主人公フィリップは、生まれながらにして蝦足でびっこを引くという身体障碍者。
幼くして両親と死別し孤児であったこと、愚劣な牧師の伯父に養われる幼年期、内気で惨めな学校生活、宗教心を失っていく様、ドイツ生活での人生啓蒙、計理事務所や医学校の生活などは、モームの人生を投影している。
信仰心を失って自由精神を覚醒させると、芸術に心酔し画家を目指すが、才能の限界を知ると父親の辿った医学の道を志す。
そして、医学校を出てからの筋書きは、大きく乖離していく。フィリップは医者になるが、モームは作家に転身。
フィリップは、ミルドレッドの美貌に惹かれて財産を貢ぎ、人生を狂わせていく。けして交わってはならぬ!と分かっていても、男はみな小悪魔にイチコロよ!愛とは、何かを拠り所にすること、依存すること、そして、見返りを求めることか。利己主義の恩知らずめ!
ミルドレッドは別の男に気移りし、恋に敗れた男は虚栄心とプライドを崩壊させる。にもかかわらず、男に捨てられ舞い戻ってきた彼女を拒絶できない。無論、女に同情したわけではない。結婚前には両目を大きく開いて見よ!結婚してからは片目を閉じよ!... とは誰の言葉であったか...
やがて戦争が始まり、株の投機で全財産を失い、食べ物にも事欠く有り様。自殺の誘惑がちらつく。公衆浴場の入浴代が六ペンスとくれば、まさに「月と六ペンス」(前記事)...
愛ってやつは、実に恐ろしい。愛情で誤魔化している間は誰もが楽観主義になれるが、現実に目ざめた途端に誰もが悲観主義に陥る。愛の情念は両極端で、中庸の哲学というものがまったく通用しない。なるほど、男の悲しい性に加え、ドロドロな関係を演出しようとすれば、ミルドレッドは絶好の人物だ。ただ、小説のモデルとなった実在する女性がどこまで悪女だったのかは知らん。あながち空想でもなさそうだけど...
また、後に結婚相手となるサリーは、ミルドレッドとは対照的に妻の理想像を描いている。救いの女神に出会うと、かつて苦痛を与えた悪女さえも赦せるものらしい。ただ、実在のモーム夫人とは違うようで、夫婦仲は険悪だったという噂もある。
そして最後に、幻影の幸福を追求した結果、現実の幸福を手に入れた... というのは、おそらく本当だろう。フィリップは、自由で受容的な人生観を悟り、ついに本当の絆を獲得するのであった...

2. ペルシャ絨毯と人生無意味論
人生の絵模様をペルシャ絨毯の彩りに重ねる一幕は、圧巻!この挿話に触れられただけでも、この作品と出会ったことに感謝したい...
老詩人クロンショーは、ペルシャ絨毯を贈ってくれた。人生の意味とは何か?その答えがここにあると。ペルシャ絨毯は、精巧な模様を織り出していく時の目的が、ただその審美感を満足させようとする。人生もまた、その瞬間、瞬間を、色鮮やかに生きようとするだけのこと。そして、フィリップは「東方の王様」の話を思い出す...
東方の王様は人間の歴史を知ろうと願い、ある賢者に500巻の書を選ばせた。国事に忙しい王様は、要約するよう命じた。二十年後、賢者は50巻に絞り込んだが、王様はすでに老齢で、浩瀚な書物を読む時間がなく、もっと要約するよう命じた。さらに二十年後、1巻に盛った書物を持参したが、王様はすでに死の床に横たわっていた。最後に賢者は、人間の歴史をわずか一行にまとめて申し上げた。
「人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ。人生の意味など、そんなものは、なにもない。そして人間の一生もまた、なんの役にも立たないのだ。生れて来ようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ。」
クロンショーの死は、いずれくるフィリップ自身の死を思わせる。偉大な詩人は、妻に虐げられ、金を失い、みすぼらしい最期を遂げた。世間で忌み嫌われる孤独死ってやつだ。
芸術家の運命に、死後花開く!というものがある。死してなお、人々の記憶に残れば本望であろう。だが、その幸せを享受できるのはごく一部の天才。そもそも死んだ者に幸福の概念などあるのか。すべてを無意味と結論づけちまえば、人生もそう怖くはなくなるだろう。この思考原理は、自暴自棄とはまったく正反対で、積極的に受容する運命論としておこうか。その瞬間、瞬間を、ゆっくりと精一杯生きようという。そして、あの芸人の言葉が聞こえてくる... 生きてるだけで丸儲け!

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