人間とはなんであるか... 数千年に渡って自然哲学者たちは、この難題に立ち向かってきたが、いまだ答えが見つからない。プラトンは、人間は羽根のない二本脚の動物である!と定義した。ディオゲネスは羽根をむしり取った鶏を携えて、これがプラトンの言う人間だ!と応じた。魂を持つ存在だとしても不十分だし、ましてや崇めるほどの存在でもあるまい。魂がなんであるかも説明できないのだから。いや、説明できないから、崇めることぐらいしかできないのかもしれん...
数学者ノーバート・ウィーナーは、高度なコミュニケーション能力を有する存在であると定義を試み、通信工学を中心に据えた学問分野を提唱した。そう、サイバネティックスってやつだ。人間の本質に迫るには、数学や統計力学に生理学や心理学をも巻き込んだ学際的研究が必要だというわけである。彼は、文芸家と科学者の目的が一致しているにもかかわらず、二つの宗派に分裂している様を嘆く。それは第二次大戦前後の話だが、21世紀の今日でも理系と文系で区別され、知識の縦割り風潮は健在だ。
人間には縄張り意識という性癖がある。かつて学問は総合的な知識の世界とされ、科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間というものを問うた。その流れは、いつの間にか自然物に対して人工物で区別され、人間社会だけの合理性を問うようになった。人口が爆発的に増殖すれば、最も依存している自然との関わり方が見えなくなるのか。もちろん個人であらゆる学問を究めることは不可能だし、何か一つの専門を選択せざるをえない。しかしながら、他の学問分野についてなんらかの理解がなければ、自分の専門にも暗くなるだろう。真理を探求する場に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。間違いなく夜の社交場では、セクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ!
原題 "The Human Use of Human Beings... Cybernetics and Society" には、一つの使命が託される。それは、「人間の人間的な使い方にある」ということ。ウィーナーの発想が、ライプニッツのモナドロジーや予定調和説、シャノンの情報理論、マクスウェルやギブズの統計力学、あるいは記号論理学や計算機科学などの複合的な立場から発し、サイバネティックスという学問が、本質的に通信理論の統計的研究であることが伺える。論議の骨格に「状態の感知、記憶、フィードバック」の三つの要素を据え、通信モデルを脊髄動物の構造、シナプス系の情報経路、酸素を運搬する血液で構築して見せる。認知のために神経系と栄養分を運ぶ経路こそが、情報の本質というわけである。中でもフィードバックを重視し、これが主観的に働くか、客観的に働くかは別にして、情報を適格に解釈できさえすれば補正機能が働く。いわば、反省や学習の機能である。
「主観的には感情として記録されるような種類の現象は、神経活動の無用な随伴現象にすぎないものではなく、学習及び他の類似の過程における或る本質的な段階を制御するものであるかもしれないことを認識することは重要である。」
1. 人間と機械、代替品はどっち?
人類のこしらえた機械文明は、自動化へと邁進してきた。機械の存在意義は人間行為の代替から発しており、非力な人力に対しては莫大なエネルギーを発生させ、鈍い頭脳に対しては驚異的な計算力を提供し、機械化は利便性の代名詞とされてきた。それは通信システムとて例外ではなく、いまや意思の交換まで代替してくれる。すると改めて、人間とはなんであるか?が問われる。代替品の存在意義から、元の存在意義を顧みるのである。なるほど、人間とは、機械が故障した時の代替品か。そのうちオートマトンと人間の区別もなくなりそうだ。
人体そのものが電気的な機械仕掛けだし、そこに意志があると主張したところで、その原因は説明できそうにない。実際、感情を持ってなさそうな人間がわんさといるし。社会全体にとっては、人間精神が進化しなくても、その分、機械が進化すれば同じことか。
人間が機械の奴隷になるとは、なんとも物騒な社会!なぁーに心配はいらない。今だって人間は人間の奴隷であり続ける。すべての人間が人間以外の奴隷となれば、夢にまで見た平等社会が実現できるではないか...
2. 有機体の本性とは?
ウィーナーは、コミュニケーションを営む有機体としての人間を考察する。人はコミュニケーションを完全に遮断して孤立すれば、精神を破綻させる。それは、ボルツマンの唱えた熱的死を意味するのか?熱力学の第二法則は、閉じた系においてエントロピーが減少する確率はゼロだと主張している。では、系が閉じていなければどうだろう。宇宙は本当に閉じているのか?膨張したり収縮したり見えるのは人間認識の産物とうことはないのか。社会という外的要因の中で、熱病的な集団的狂気に気づかなければ同じことかもしれん...
有機体ってやつは、周囲になんらかの影響を与えようとやまない。なるほど人間は、一人では生きてはいけない。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、自己存在を確認するためには他の存在を必要とする。
では、高度なコミュニケーション能力が本当に人間社会を高度化させているだろうか?確かに、いじめや誹謗中傷の類いは陰湿かつ巧妙化し、排他原理は高度化しているようだ。なんらかの関係を求めずにはいられないとすれば、友好や差別も、博愛や偏愛も、正義感や敵対心も、依存症の類いか。
孤独愛好家ですら完全に社会から離脱することまでは望まず、集団から適当に距離を置きながら、遠近法で自己を見つめる。自尊心もまた自己愛に飲み込まれ、自惚れと自己陶酔の内に沈潜していく。人間社会は、嫉妬心に満ちた愛憎劇で渦巻いている。そして、その帰結は... 人間の本性は、寂しがり屋というだけのことか...
「生きているということは外界からの影響と外界に対する働きかけの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中で我々は過渡的段階にあるにすぎない。世界で生起している事態に対して、比喩的な意味で生きているということは、知識とその自由な交換の連続的発展の中に参加していることを意味する。」
3. 情報と知識、そして言語
ウィーナーは、人間を最も特徴づけるものに、言語機能を取り上げる。言語によって社会ルールが規定され、通信手続きではプロトコルがその役割を果たす。だが、言語の柔軟性がセマンティックを不安定にさせ、語義の曖昧さが様々な解釈を生み、混乱の元となっている。実際、客観的であるはずの専門用語ですら、その解釈を巡って、あちこちで論争を見かける。
では、言語の合理性とはなんでろう。情報合理性は精神合理性と合致しているだろうか?情報量の観点から、通信システムではコンパクトで単純な通信文が好まれる。これが情報合理性である。文芸作品が非効率に比喩的な文章を用いるのは、魂に訴えようとするものがあるからである。これが精神合理性である。こうした言語の合理性の問題は機械論において大きな障害となる。それは、人間と機械の境界を暗示しているようでもある。
「情報(知識)というものは蓄積の問題ではなく過程の問題である。最大の安全保障を持っている国とは、情報と科学に関することがらが国家に対し課せられた要求に適当に対処できる状態にある国のことであり、我々が外界を観察し、外界に対する行動を有効にする連続的過程の一つの段階として、情報が重要なものであることが十分認識されている国のことである。」
4. 自動化の是非
人間社会の幸福を確率論に照らせば、最大多数の最大幸福といった功利主義的な思考も覗かせる。確かに、全体的な平和や幸福には経済的合理性というものがある。それは、少数派の犠牲によって成り立つものなのか?ここに、大数の法則が暗躍しているかは知らない。
ウィーナーはマルサス流人口論にも言及し、人口調節の深刻な問題に対して、自動式工場のようなオートメーション技術が重要な役割を演じるとして、問題を補完しようと試みる。それは、現代の問題である高齢化社会を補う存在となりうるか?と問い掛けているようでもある。ただし、自動化崇拝が偉大な文明を抹殺しかねないとも指摘している。産業革命以来の悲劇とならぬよう希望すると。
自然に適合しない技術は危険であろう。今日、あらゆる分野において利便性の追求から自動化システムが進化しつつある。面倒くさがり屋の性分が人間自身を自然の産物から遠ざけようとしているのか。あるいは、人間が本来やるべき仕事を見つけようと、雑用を減らそうとしているのか...
「科学的発見の本質は、我々の便宜とは全く無関係に作られた一個の存在を我々自身の便宜のために解釈することにある。従って、世界の中で秘密とやっかいな符号体系によって護られている最後のものは自然の法則である。」
2016-12-11
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