2017-04-09

"省察" René Descartes 著

デカルト哲学の第一原理は、「方法序説」のあの有名な命題でほぼ言い尽くされている... 我思う、ゆえに我あり... と。「省察」では、より精緻な表現が用いられる... 私は実体である... と。この原理を根本から支える主張に心身分離論がある。精神は肉体とともに腐敗していく存在ではなく、独立した崇高な存在であり、それ故、死はけして恐れるものではないと。
しかし、こうした思考は、なにもデカルトに始まったことではない。そもそも哲学の課題には、大きく二つあるだろう。一つは、真理とはいかなるものか、いかに真の知識を得るか。もう一つは、現実世界をいかに生きるか、いかに生きるべきか。要するに、哲学の根本原理は、知識と道徳の融和にある。知識を蓄えるだけでは知性に達し得ない。道徳を学ぶだけでは理性は得られない。ここには、精神の不死を唱えたソクラテス精神「よく生きる」が脈々と受け継がれている...

デカルトの思考法は、きわめて数学的である。ユークリッドが「原論」の中で公理と公準の形で、これ以上証明のしようがない純粋な命題の存在を明らかにしたように、神の実存性とその無限性を、人間の直観の偉大さによって示そうとする。
デカルトの形而上学は、自然学と結びついて地球の構造や磁力、水や大気や熱などを論じ、機械論的宇宙論の様相を呈す。動物をも機械とみなせば、人間はどうであろう。身体が機械的であっても、精神は別物だというのか。理性的言語の使用は、精神の持ち主にだけ与えられた高貴な能力だというのか。デカルトは、情報伝達だけの言語ならば動物にもあるが、哲学を構築することのできる言語となれば人間だけの才だと主張している。
では、その崇高な言語を操る精神の存在をどう説明できるというのか?人間は思惟する存在であり、この思惟するという崇高な性質を説明するためには... そもそも崇高なのかも分からんが... 人間を超越した存在を仮定しなければならない、というわけである。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、自らの有限性を証明しようとすれば、その対極にある無限性を持ち出さなければ説明できない、といった具合に。そして、神の存在証明を目論むと、詭弁論にならざるをえない。
「神を存在するものとしてでなければ考えることができないのは、山を谷なしに考えることができないのと同じであるが、しかし、山を谷とともに考えるからといって、そこからただちに、ある山が世界のうちに存在する、という帰結ができてこないことも確かである。」

百歩譲って神が存在するとしよう。それでも、神は人に考えを強制しないが、人間は人に考えを強制しようと止まない。それは聖書の解釈をめぐって顕著だ。不完全で有限な存在が見識が狭いのは道理であり、人間の想像する神が、これまた不完全であることも道理である。無知者は無知を自覚できない、あるいは、すべての誤謬は無知に発する、といった無知の原理は、プラトンによると既にソクラテスによって提示されている。知らぬが仏と言うが、鈍感でなければ幸福にはなれない。
したがって、精神を研ぎ澄ます自然哲学者が、神の存在を認識できたとしても、幸福者にはなれないだろう。そもそも彼らの目的は、幸福ではないのかもしれない。
では、真理を探求する目的とは何か?人間の創造は宇宙法則の延長上にあり、あらゆる存在意識はおそらくそこに発している。すべての存在を論理的に説明しようとすれば、一旦存在を疑ってみることになり、自己存在をも疑ってかかることになろう。
しかしながら、自己存在と自己否定は精神の内で共存が極めて難しい。思惟した結果が自己否定に辿り着こうものなら、自己を欺かずにはいられず、さらに愛が絡むと、もう手に負えない。純粋な愛情劇がドロドロの愛憎劇へ変貌するのに、大して手間はかからないのだ。自己否定を承知してもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。その境地こそが、彼らにとっての幸福というものであろうか。少なくとも自然哲学者の唱える神は、宗教家の唱える神とはまったく異質のように映る...

ところで、精神には、二つのことがある。一つは思惟すること。いま一つは、肉体と結びついて、物体を主導したり、物質に隷属したりすること。形而上学では思惟することに主眼を置くが、精神の実体は、能動的であると同時に受動的であり、情念の関与は避けられない。人間の精神は、客観性よりも主観性に支配されることが圧倒的に多い。主体や主観は、肉欲や物欲とすこぶる相性がよく、なによりも自己存在の根源的意識となっている。そもそも思惟するという行為が、極めて主観的である。デカルトをもってしても、形而上学の次元では心身分離論を唱えても、現実世界の次元では心身合一論を唱えざるを得ないか。実際、彼は「情念論」も書しており、スピノザ哲学にも通ずるものを感じる。
「省察」には文字通り反省の意味も含まれるが、意地悪く言えば、モナドロジーへの鞍替えか?いや、心身分離論と心身合一論の矛盾はデカルト哲学の弱点ではあろうが、むしろ自然哲学が抱える矛盾と捉えるべきであろう。
人間には性癖がある。認めたものが感情論に支配されていることに薄々気づきながら、絶対に認めようとはしない。社会常識とされることも、しばしば狂気じみている。そんな性癖でもなければ、戦争のような人間が人間を抹殺にかかるという現象を、とても説明できそうにない。正義という動機がいかに脆弱なものであるか。それは歴史が散々示してきたというのに、いまだに社会全体が正義の言葉に踊らされる。人の欠点がはっきり見えるということは、自分自身にも似たような欠点があることを意味する。自分自身の本性と向き合わずして、何が哲学よ!
デカルトの唱える方法論は、自ら「普遍的な懐疑の効用」と呼び、先入観から解放させてくれるという。それは、蓋然論者の独断や懐疑論者の不可知論を退けることが前提される。無思慮と軽率さに見舞われる盲信に対して、熟慮した懐疑心で対抗するしかないというわけである。誤謬の原因は、有限な悟性の明晰判明な認識を超えて自由意志を働かせることにあるという。これを避けるために、意志を悟性と同じく有限界に押しとどめよ!と。有限界にとどまる人間が無限界の存在を語ろうとすると、恐ろしい虚無感に襲われる。はたして、健全な懐疑心と啓発された利己心が、自立と自律をもたらし、自己精神の存在を確実に発見させてくれるだろうか...

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