なにゆえ、このような書に向かわせるのか。童心に返りたいという潜在意識がそうさせるのか。いまさら感を覚えつつも、ジョセフ・シルヴァーマン先生が誘ってくる。小説や演劇を楽しむように数の理論を鑑賞してみては... と。
数学の定理が鑑賞に耐えうるかは、ひとえに美にかかっている。それは、ルーベンスの歴史画やモーツァルトの交響曲を探求したくなるような、衝動を駆り立てる誘惑の美だ。美とは、主観性から発する情念であって、そこにどんな美を感じるかは千差万別。何も感じることができなければ苛立ちを隠せず、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。オイラーに触れて何も感じることができなければ、幸福の一部を放棄しているようなものか...
しかしながら、客観性を信条とする数学とは、相容れぬ特性である。五感のすべてをニュートラルな状態にし、その美を純粋に感じ取ることができるとすれば、もしかしたら主観性を客観性へ昇華させるのやもしれん...
「数学について公平に考えれば、それは真実性のみに位置づけられるものではなく、なかでも美... 冷たく厳しい美... それは骸骨のように我々自身の生来の弱さには何も訴えるものはなく、絵画や音楽のような着飾ったところもない。しかし、崇高なる純粋さ、そして厳格なる完全性を実現した唯一の芸術である。」
... バートランド・ラッセル
この本は、元々はブラウン大学のジェフ・ホフスタインによって創始された Math 42 クラスのための教科書だそうな。Math 42 とは、自然科学系以外の学生を引きつけようと構想されたクラスだとか。なるほど、高校の初等数学ぐらいの知識があれば読めそうである。基本的な読み方としてはコンピュータ不要論を唱え、安心感を与えてくれる。
「最大公約数を調べるために GCD[M,N] とタイプして答えを得てしまうことは、テレビをつけることで電子工学を学ぼうとするようなもの...」
とはいえ、完全不要論を唱えているわけではない。ここに紹介されるアルゴリズム群にはプログラミングの知識がちと欲しい。実際、数値演算言語 Octave あたりで遊べるし。良い例題に、ユークリッドの互除法、RSA 暗号、平方剰余の相互法則、平方数の和の形式、素数判定法、楕円曲線の有理点などを挙げてくれる。
数論とは、数の理論を問うもの。ここで主役を演じるのは自然数だ。負の数を意識せずに済めばあらゆる負債はチャラ、これぞプラス思考!なんと自然だろう。だが、人間は負債の先送りがお好き。人生という苦難を冷静に率直に受け入れれば、悲観的にならざるをえない。だから自然数に焦がれるのか。
数学だって想像上の数に縋っているではないか。虚数とは、人間が編み出した虚しい数。真理を覗くには、よほどの想像力を要するらしい。
そして、ガウス整数にまで議論が及ぶと、面白いことが次々と起こり、人間がニヒリズムに縋る姿も自然に見えてくる。
自然数の世界は、実に風変わりな生物相で溢れている。ピタゴラスの数がいたり、メルセンヌ神父の数がいたり、パスカルの三角形がいたり、フィボナッチの兔がいたり... ディオファントスな関係を迫れば、フェルマーの方程式がいて、ペルの方程式がいて、オイラーの関数がいて、楕円曲線までいやがる。ただ、平方数の素数はいないようだし、奇数の完全数がいるかは知らんよ...
物質の性質を探るプロセスに原子構造を辿るというやり方があるが、数の本質を探るのにも似たところがある。ここでは性質の側面から、素数や平方数といった数が、あるいは関係の側面から、互いに素、因数分解、既約といった概念が重要な役割を果たす。素数は、これ以上分解できないという視点から、平方数は必ず合成数になるので、成分を明るみにするという視点から、それぞれ意義を与えている。
それにしては、既約ピタゴラスの定理は素っ気ない。元々は素っ気ない関係が複雑に絡んだ状態こそ、人間社会というものか。その絡み具合といったら悪魔じみている。互いに素な関係を求めてすっきりさせようといのが哲学というものか。
プラトン風のイデアなる精神の原型を追い求めては、原始根は存在するか?と問い、存在の確実性を探る。完全数ってどうよ。友愛数ってどうよ。三角数って完全な三角関係ってか。完全数がどんなふうに完全かを考察すれば、創造者の完全性に思いを馳せ、友愛数がどんなふうに友愛かを考察すれば、宗教が唱える友愛に疑念を抱かずにはいられない。なるほど、哲学とは、悪魔の素因数分解であったか。
こうして酔いどれ天の邪鬼は、「数学は哲学である!」との持論を検証するのであった...
1. 割り切れない関係
本書が求める数の関係では、合同式が主役を演じている。つまり、演算法ではモジュロ演算が主役だ。こいつの抽象レベルときたら四則演算をコンパクトに凌駕し、数の本質を見抜くのに最適な道具となる。何を法とするかは、研究者がどんな戦略をとるかで決められ、この柔軟性が数と戯れる自由を知らしめている。おまけに、素数 p を法とする時に一段と輝きを放ち、モジュロ性が暗号技術への道を切り開く。要するに、人間が認識しうる演算という企ては、循環性の概念によってすべて説明がつくということである。
ん?ということは...
人間社会で四則演算の方がはるかに有用だということは、本質を見る必要がないということか。いや、あえて見るのを避けているのか。整除性という概念が、人間精神を平穏なものにしてくれる。だが、その定理が証明不可能となると、たちまちカルト化する。知らぬが仏というが、こと人間社会においては本当らしい。真理において、割った余りを考察するやり方が有効だというなら、人生において、割り切れない思いがつきまとうのは至極当然か...
2. 素数の中の異物
「2 は最高に奇な素数だ!」
素数の中には異物が混ざっている。素数は無限に存在すると告げているにもかかわらず、こいつだけが偶数ときた。偶数の世界には、なにか引き込まれるものがある。偶数どうしでは、和も、差も、積も、商も、偶数の世界に閉じられる。だが、奇数どうしで足すと、偶数になるとはこれいかに?奇数と偶数を掛けると必ず偶数に引き込まれるのはなぜ?数の世界では、対を求めるのが自然だというのか?
人間社会では、2 で割り切れる数が揉め事を回避する方向に働く。分け前や財産分与など。偶数に奇数が絡むと、なにかと揉めることが多く、離婚問題では三角関係がさらに複雑化させる。性行為によって誕生する種が、遺伝子の掛け算の結果か、足し算の結果かは知らんが、偶数になる確率を高めているのは確かなようだ。はたして偶数どうしの関係で、偶数の世界を超えられるだろうか?
偶数の世界に引き込まれるのが嫌なら、素数で割って、余った数を平等に扱ってみてはどうだろう。モジュロ性の真の意味が、平等性にあるのかは知らんが、2 を法としたモジュロ性では 0 と 1 にしか登場機会を与えない。この特性が情報理論の礎となり、デジタル社会の正体を明るみにしている。素数が法(=法律)として君臨すると、なにかと便利なことが起こるのは確かなようだ...
3. ディオファントス近似の摩訶不思議!
コンピュータには見過ごせない弱点がある。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。べき乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ないということを。システムエラーの回避に欠かせない前提があることを。
しかしながら、近似の概念に頼っているのはコンピュータの世界だけではない。純粋物として崇められる素数の世界ですら、その存在のしかたを問う素数定理となると、近似が幅を利かせている。
人間社会で必要なのは、完全な真理ではなく、真理っぽく見えることだ。人間は真の存在を知りたいのではなく、存在感を噛み締めたいだけ。本当の自由なんて、この世にありはしない。そんなことは百も承知しつつも、自由意志の存在は信じている。耐えられないのは盲目ではなく、盲目感なのである。
おっと!話を戻そう...
簡単な近似法では、連分数の概念がなかなか実用的だ。どんな数でも、整数部分を引きはがして残りを分数にひっくり返すと、連分数を作ることができる。このような再帰的なやり方はプログラミングとすこぶる相性がいい。本書は、連分数展開を漸化式として見せてくれる。
ところで、ディオファントス方程式はなかなか手強い!ここでは、整数や有理数で考えることをやめて、素数 p を法とする解を見つけるという戦略を用いている。
そして、楕円曲線上の点の個数 Np に考察が及ぶと面白いことが起こる。すなわち、楕円曲線方程式の解の数において...
Np が p より小さいことは直感的に分かるが、p を追っていくと... なんと!なんと!
Np は、p に等しくなるというのである。
ap = p - Np
ap を「p 欠乏」と呼ぶそうで、実際は「フロベニウス写像」のトレースになるという。
さらに、フェルマーの最終定理を素数 p とモジュラ性の観点から物語ってくれる。
尚、フェルマーの最終定理は、ディオファントス方程式における n ≧ 3 のパターン。
An + Bn = Cn
n = pm の時、
(Am)p + (Bm)p = (Cm)p
なるほど、モジュラ性の抽象レベルには限りがないと見える。どうやら宇宙は循環性に支配されているらしい。そりゃ、夜の社交場に繰り返し通うのも自然であろう。これが自由意志の正体であったか...
2018-04-22
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