娯楽数学の真髄をもう一冊...
いまだにマーティン・ガードナーの世界に魅せられるのは、童心に返りたいという意識がどこかにあるからであろうか。酔いどれ天の邪鬼にだって、若き日を懐かしみ、若さを羨むことがある。だがもし、若返ることができ、もう一度世間を渡り歩いて来なければならないとすれば、やはり煩わしいものがある。戻りたいのは過去ではない。記憶と知識をそのままに肉体だけを若返らせ、脳内活動を活性化させたいだけ。なんと都合のいいことを。なぁーに、脳内チップにデータをダウンロードすればいいだけのこと。若いうちに。いや、もう手遅れか。いやいや、構造主義風に言えば、人間の身体もまたサイボーグだ。はたして、それは人間なのか?人間とは、どういう存在なのか?精神の持ち主のことを言うのか?だが、科学はいまだ精神の正体を明確に説明できないでいる。精神の正体も知らぬ者が精神を崇めても... などと問えば、循環論に陥る。
まさに、パラドックスの世界は循環論法と自己言及論に毒されている。自己言及で最も単純なものは、「この文は嘘である」といった形式。この文章を信じるにしても、信じないにしても、悪魔との取引を強いられる。ただ、悪魔をも味方につけなければ、世間を渡り歩いて行くことは難しい。
哲学には、形而上学という大層な代物がある。メタ的な観点から物事をさらに上位から眺める立場を要請するのである。精神ってやつが、形而の上位に存在するのか、はたまた下等な存在なのかは知らんが...
言語学は、自然言語を語るための最適な言語は何か?という慢性的な課題を抱えている。日本語を構造的に説明するために、日本語で語っては矛盾が生じる。だからといって、外国語で日本語を語っても、自然言語というものが社会風土にどっぷりと浸かって変化してきただけに、その本質的な性質に踏み込むことは難しい。
プログラミング言語では、ある言語システムを記述するための上位言語に何を選ぶべきか?という議論をよく見かける。そして、メタ言語もメタメタになるという寸法よ。
数学は、論理の不完全性を証明した。少なくとも人間が構築する論理は。となれば、パラドックスは、忌み嫌うよりむしろ歓迎すべきだろう。その役割は、論理暴走のチェック機構として、ひいては、自分自身の在り方を問う機構として。
レイモンド・スマリヤンは、「この本の題はなにか?」と題する論理パズルの本を書き、その二年後、「この本に題はいらない」と題する本を書いたそうな。バーナード・ショーはこう言ったとか。
「ただ一つの黄金の法則は、黄金の法則がないことだ。」
パラドックスを後押しする概念に、時間の一方向性がある。それは、人間の認識能力の限界を示している。エドウィン・A・アボットは著作「フラットランド」の中で、二次元平面の世界に幽閉された住民たちを滑稽に描いて魅せた。まさに人間の欲望は、時間の矢という次元に幽閉されている。次元ってやつは、幾何学構造の支柱を成す、いわば自然界の構造を支配する存在であって、この基本原理に一方向性しかない!なんてことがありうるのだろうか?数学の美には必ず対称性を見出すことができる。なのに、時間という存在だけは、どうも異物感を拭えない。
純粋数学の定理は、次元によって乱されることはあまりないが、応用数学の定理の多くは時間の関数で定義される。時間ってやつは、認識の産物でしかないのか。
パラドックスは、正しいと思うような前提に対して、およそ想像もつかない結論が導かれた時に生じる。それは感覚や感情からくるもので、逆理や背理の類いは大抵この心理的な罠に落ちる。
では、正しいと思うような前提とは、どこから生じるのか?認識の揺れは経験から生じ、まさに誤謬は余計な知識から発する。人間は、経験や知識を常識に昇華させては精神の防波堤を築く。ここに心の拠り所を求めるのだ。常識を否定すれば、過去の知識を否定することに繋がり、ひいては今まで生きてきた自己をも否定しかねない。その結果、考えることを放棄して思考停止状態に陥る。これが幸せの正体か。
脂ぎった大人になればなるほど、柔軟な思考を持ち続けることが難しく、よほどの修行を要する。子供のように矛盾を素直に受け入れ、かつ自己否定に陥ってもなお愉快でいられるとしたら、真理の力は偉大となろう。なるほど、ゆかいなパラドックス!とは、この道であったか...
1. 無限の悪魔
ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽したのは、そこに悪魔が住み着いているとでも考えたからか。単位正方形の対角線の長さが、定規のメモリをいくら細かくしても正確に測れないというのは、数を崇める宗派にとって由々しき問題である。そして十九世紀、数の理論が集合論に及ぶと、悪魔を目覚めさせた。
有限集合では... 元の集合が真部分集合と一対一で対応する... なんてことはありえない。全体は必ず部分よりも大きいとするのが、部分集合の中でも真の部分集合とされる所以である。
ところが、無限集合では違う。こんな定義すらあるぐらい。
「真部分集合との間に一対一の対応がつくような集合のことを無限集合と呼ぶ。」
数学者は無限には濃度があると主張する。アレフ(ℵ)がそれだ。自然数の集合の濃度は、アレフゼロ。偶数の集合も、奇数の集合も、アレフゼロ。つまり、こうなる。
ℵ0 + ℵ0 = ℵ0 ???
対角線論法は、まさに写像のパラドックスを示している。実数全体の集合が無限直線上の数と一対一で対応する... ここまではいい。
しかし、だ。これが平面上のすべての点、さらに三次元空間上の、さらにさらに四次元空間上の、n次元空間上の... となると、写像の概念そのものを疑わずにはいられない。
そして、無限濃度はさらに抽象レベルを昇華させ、カントール集合論に対して、非カントール集合論に分派した。ユークリッド幾何学が、第五公準の矛盾をついて非ユークリッド幾何学と分派したように。
こうしてみると、パラドックスこそが数学の歴史に見えてくる。それは、悪魔との取引の歴史だ!というのは言い過ぎであろうか...
2. 統計の嘘と平等視の原理
いまや、初歩的な統計の知識を具えていないと、生きるのが難しい時代。保険、福利厚生、公衆衛生、広告、報道など多岐に渡って、数理統計なしでは運用が成り立たない。とはいえ、統計情報ってやつは、扱いを一つ間違うとまったく別の結論を導く。
マスコミがよく報じるものに「平均的な家庭」、「平均的な生活」、「平均所得」といったものがある。だが、平均ってやつは偏り方を示さないので、格差を闇に葬ってしまうばかりか、平均的な... という奇妙な価値観を押し付けてしまう。世論調査などは、質問の仕方でいかようにも操作できる。
本書は、平均値、中央値、最頻値という三つの尺度を持ち出し、民主主義の公平性を皮肉る。やはり統計は嘘をつくものらしい。
人間ってやつは、確率が低そうに見えるものを偶然と呼び、そこに因果関係を結び付けずにはいられない。決定論や運命論がそれだ。
例えば、統計のパラドックスに、有名な誕生日のネタがある。出鱈目に選んだ 23 人の中で、誕生日が一緒なのは 50% よりやや高く、40 人ともなれば 90% に跳ね上がる。そして、女性を口説くネタにするわけだ。運命の赤い糸は、いかようにも結ぶことができるし、いかようにも切ることができるという寸法よ。
また、偉大な数学者は長男が大半だそうな。というより、どんな社会でも、最も数の多いのが長男か長女となる。一人っ子なら、そのまんま。二人兄弟で、男と女なら、どちらも長男と長女。同性でも確率 1/2。そして、次男、三男、四男... の順に確率は減っていく。
著名な人物と同じ誕生日だとか、同じ出身地といった類いは、しばしば特別な偶然だと思い込ませる。
人間ってやつは、常に特別な存在でありたいと願っているようだ。いや、都合が悪くなると、すばやく大多数の中に紛れ込む。統計ってやつは、都合よく解釈できる代物というわけだ。ベンジャミン・ディズレーリは、うまいことを言った... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と。アドルフ・アイヒマンにかかれば、悲劇までも統計にしちまう... 一人の死は悲劇だが、百万の死は統計に過ぎない... と。
さらに、統計の捉え方で興味深いものに、ケインズが呼んだ「平等視の原理」というものを紹介してくれる。不確定な事象に対して、真か偽かの根拠が見つからないような場合、等しい確率で見積もりやすい、という根拠不十分な原理である。例えば、核戦争の起こる確率は?と問えば、有識者たちは五分五分と答える。不合理な確率が、不合理な結論を導き、不合理な行動を煽る。これが人間社会というものか。論理的矛盾をついた悪名高き歴史を持ってきた原理というわけである。
人間ってやつは、具体的な数値を見せられると、客観性に満ちていると思い込む傾向があるが、実は、数値そのものに主観性が満ち満ちている。裏付けってやつの威力は強力だ。いや、裏付けがありそうに装うことが...
3. 信者の賭け
宗教を信じるか信じないかを問いかける皮肉めいた問題に、あの有名な「パスカルの賭け」がある。ブレーズ・パスカルは、キリスト教の信仰が得かどうかを問うた。教会を信じなかった場合、教会が誤っていれば何も失わず、教会が正しければ地獄で限りない苦痛に直面するだろう。教会を信じた場合、教会が誤っていれば何も得をせず、教会が正しければ天国で永遠に幸福を得るだろう。したがって、教会が正しい方に賭ける方が有利だってさ。
キリスト教に限らず、あらゆる宗教は、信じることによって救われると教える。ならば、すべての宗教を信じればどうだろう。所詮、人間がこしらえたもの。宗教も、神という概念も。一つの宗派に固執したところで矛盾からは逃れられないのだから、すべての宗派を受け入れ、矛盾を歓迎してみてはどうだろう。それは、すべての宗教を信じないのと同じことのようにも映る。そして、無神論者や無宗教者の方が、高貴な宗派に見えてくる...
ところで、霊感商法は騙される側にも問題があると、よく言われる。とはいっても、だ。人間ってやつは、何かに縋らなければ生きてはゆけない存在。文化庁の統計によれば、日本の宗教法人の数は18万を超える(平成28年度)。未登録数を合わせれば、20万を超えるそうだ。そして、信者の数はというと、少なく見積もって、延べ1億8千万人、潜在的に2億人くらいになりそう。人口をはるかに超えるとは、これいかに?宗教なんて信用ならない!なんて言いながら、厄年になれば厄払いはするし、家を建てる時には地鎮祭をやるし、葬式仏教は大盛況ときた。人が死ねば墓が必要になり、墓地が高いとなれば納骨堂と契約を結び、自動的に宗派の会員となり、信者の数に加えられる。なるほど、「信者」と書いて「儲かる」ってか...
4. サイクロイドの誘惑
「自転車の車輪の上部は下部より速く動いているのを、ご存知ですか?」
実は知っているけど、改めて問われると、なんとなく感動してしまう。車輪の縁のある任意の点に着目して、どういう軌道を描くかを作図すれば、サイクロイド曲線になることは義務教育時代に証明済み。サイクロイド曲線は、車輪の頂点に向かって加速し、頂点に到達すると今度は地面に向かって減速する。しかも、地面との接点で瞬間的に静止してやがる。円の中心が単純な等速運動をしているにもかかわらず、外円では想像もつかない運動が生じているだけでなく、静止が関与しているところに、なんとなく感動してしまうのである。
静止には、不思議な力が宿る。人間は心拍停止を忌み嫌うが、心臓の運動にもどこかに瞬間的な静止状態があるはず。だから、永遠の静止に真の安らぎが求めるのか?いや、これも悪魔の仕業か?パラドックスってやつは、無限によって悪魔を目覚めさせ、統計によって嘘まみれにし、ついに永遠の静止へ導こうってか...
2018-04-15
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