2018-08-05

"音楽における偉大さ" Alfred Einstein 著

もし、大バッハがいなかったら... 歴史は誰かにその代役を与えたであろう。バッハもまた誰かの代役を演じただけなのかもしれん。偉大さとは、偶然の出会いの積み重ね。もし、この出会いがなかったら... もし、この人物が生まれてこなかったら... つい、そんな安っぽい運命論を想像してしまう。ゲーデルは晩年、こんなことをつぶやいた... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と。この発言はおそらく正しい。真理の概念は必然的であり、概念の方が歴史の道を散歩している。人間とは、それを見つけ出すだけの存在であろうか...

本書は、"a controversial book" と呼ばれたそうな。褒めてくれそうな人には褒められ、非難を浴びせそうな人には非難されそうな。誰が偉大で誰が偉大でないか... そんな議論はほとんど主観的、いや独断的、好みや影響された人物を贔屓してしまう。
百年もすれば歴史の評価も変わる。バッハが登場すると、シュッツの輝きは弱まり、文献学に名を残すのみ。偉大さとは、実にはかない!尤も彼らは、自分が偉大だと思って生きたわけではあるまい。純粋に音楽の真理を探求した結果であろう。
ここに語られる、時代に逆らった者と時代とともに歩んだ者、早く生まれ過ぎた者と遅く生まれ過ぎた者、彼らは互いに影響しあい、互いに影響されて生きた。偉大さとは、まさに相乗効果が生み出した産物といえよう。人類の遺産を見つけ出す手助けをしてくれるアルフレート・アインシュタインという文才に出会えたことは、凡庸な音楽好きには大きな喜びである...

バッハやヘンデルにしても、モーツアルトやベートヴェンにしても、ヴァーグナーやブラームスにしても、ショパンやシューベルトにしても、ベルリオーズやヴェルディにしても... 彼らはもはや人間ではない。人間精神を徹底的に研究し、完全に人間を真似ることのできた半神半人だ。音譜は物理周波数を与えるだけの数学的な記号に過ぎないが、この手段をもって普遍的な言語体系を構築している。言語ってやつが、精神活動を通してしか実存し得ないことを、見事に体現している。
音響芸術は、言語芸術に対して翻訳が無用な分、優位にあるように思える。声楽曲では、多少なりと翻訳が必要なものの。芸術作品ってやつは、崇高な地位にあればあるほど解釈が難しい。これに人工言語による翻訳の苦難が加わると、翻訳者の技術力によって作品の景色ががらりと変わる。詩は散文よりも、叙事詩は長編小説よりも、音調的である分、より永遠的になる。こと音楽においては形式なしでは無に等しく、偉大な作曲家たちは方言を語ったわけではなく、最も純粋な言語、すなわち最も純粋な形式を語ったということになろうか。それを普遍性と呼んでも、それほど大袈裟ではあるまい。
おまけに、この記念碑的な連中ときたら、驚異的な多産性を魅せつける。シンフォニーの群れ... コンチェルトの群れ... オペラの群れ... ピアノ曲の群れ... それぞれが一つの物語を語り、これらの群れが集まって一つの宇宙を創造する。ケッヘル番号や BWV のおびただしい数。モーツアルトやシューベルトのような早世の人物ですら膨大な群れを所蔵している。真理への執念がそうさせるのか。大量生産は偉大さから遠ざかりそうなものだけど...
天才たちの生涯を通しての内的強制は、超自然的で悪魔じみており、デモーニッシュといった言葉ではとても表現しきれない。ヴァーグナーを多血質と呼んだり、ショパンを憂鬱質と呼んだりするのは、それほど間違ってはいないだろう。どんなに人間性を非難されようとも、どんなに人格を貶されようとも、作品の方が音楽家から幽体離脱をはかり、独り歩きをはじめる。もはや、この音楽家は、イタリア的とか、フランス的とか、ドイツ的とか、そうした帰属意識に根ざした議論は無用だ。彼らは、普遍性の世界に身を委ね、超国民性を発揮する。西洋の形式でありながら、東洋の文化にも訴えるものが大きい。思いっきり信仰的でありながら、宗教という枠組みをはるかに超越している。凡人は自己が征服できなければ、他人を征服にかかるが、天才は自己の征服に忙しく、他人にかまっている暇などないと見える。ましてや世間にかまっている暇など。普遍性とは、多様性に存分に寛大で、よほど心地よいものと見える。
そして、かつてのバッハ嫌いは、いまやバッハの虜に... かつてのモーツアルト好きは、いまやモーツアルト狂になっちまったとさ...

1. 完全性なるもの
芸術に完全性なるものが存在するのだろうか。天才たちには完成形なるものが見えるのだろうか。あるいは、彼らもまた妥協の世界を生きているのだろうか。凡人と同じく自己満足の世界を生きているのだろうか。対位法は、すでに完成しているのだろうか。少なくとも、彼らは作品群の中に一つの宇宙を描く。完全な宇宙というものが存在するのかは知らん。もし存在するとして、どれほどの意義を持つのかも知らん。人間は不完全な人生を送る運命を背負う。人生の BGM となる未完成曲を心の中で奏で、我が人生、未完なり!と叫びながら...
永遠に無知であることが、それを自覚できることが、人生を退屈させないで済む。宗教だって、永遠に盲目でいることが幸せだと言っているではないか。シューベルトの遺産「未完成交響曲」が完成しなかったことは、そこに大きな意義が唱えられていそうだ。人類の叡智とは、偉大な未完成を相続する幸せを世代に渡って謳歌するってことだろうか...
「一芸術家の偉大さは、一つの内的世界の建設であり、この内的世界を外的世界に媒介する能力である。両者は不可分なものであって、そのいずれも他のものなしには考えられない。最も強烈な感情と最も生き生きした想像力も、それが公表されなければ、人類にとって無価値である。最も偉大な形式的才能も、それが一つの宇宙を形成することのできる創造力に仕えるのでなければ、無価値である。」

2. 永持ちな万能性
偉大さの条件とされるものに、独創性ってやつがある。世間は、オリジナル性を声高に主張しては、コピーものを俗悪のごとく言う。
では、独創性とはなんであろう。人間という存在に、まったくゼロから何かを創造する力があるというのか。
本書には「永持ち」という言葉がちりばめられる。永持ちする偉大さと、その偉大さに出くわす幸福は、適切な時期にやってくるものらしい。
しかも、偉大な相続遺産なしには不可能なようだ。ルネサンス期の万能人たちは、偉大な作品を徹底的に模倣し続けた。ラファエロにしても、シェイクスピアにしても、偉大な遺産に魅せられ、それを継承しながら独創性を発揮するに至り、ゲーテは独創的な作家で終わらず、芸術的な大家となった。彼らの模倣は、猿真似とはまったく異質で、世間で言われるコピーものとは異次元にある。何事も早すぎても、遅すぎても、うまくいかない。自己の中で何かが覚醒させるまで、じっと待つしかない。真理のエネルギーが蓄積して自然に爆発するのを。その覚醒される瞬間を見逃さぬよう、常に準備を怠るな!独創性の源泉は継続性にあり!というわけか。
とはいえ、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は、そのような幸福な出会いに気づかないばかりか、報われることを期待しすぎるものだから意志も永持ちしない...
「真実の偉大さには万能性が不可欠である。それは二重の意味における万能性であって、すべての、あるいは少なくとも多くの音楽諸分野の支配の意味においての万能性か、あるいはある分野の専門家としても新しい世界像を提出し、以後働き続け生み続けるような内面生活の持続的な豊富化を提出するという意味における万能性か、いずれかである。」

「かくして生けるものは
 結果から生ずる結果によって新しい力を得る。
 なぜなら、心、この恒常なるもの
 それのみが、人間を持久するものにするのだ。」
... ゲーテ

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