2020-06-07

"戦争という見世物 - 日清戦争祝捷大会潜入記" 木下直之 著

「美術という見世物」(前記事)の続編、浅草の油絵茶屋から上野公園の日清戦争祝捷大会へ所を移し...
油絵茶屋の時代では、西洋かぶれしてゆく専門家や評論家を皮肉り、画一的な評価基準の下で埋もれていった職人たちの技術を掘り起こしてくれた。ここでは、なにもかもが戦争に彩られていく熱狂ぶりを見物させてくれる。平成の時代を生きる美術史家が、明治時代の写真画報を眺めながら歴史を回想していると、いつのまにか居眠りをし、目が覚めると、そこは明治27年(1894)の東京だったとさ...
なぜか?ここにタイムスリップ感はない。平和ボケの時代も、戦争に驀進する時代も、大して変わらんということか。どちらも両極端な時代、集団社会で中庸を生きることは難しいと見える...

上野公園には、美術館や博物館や動物園など多くの文化施設がある。ほとりには不忍池があり、大都会の憩いの場として「上野の森」とも呼ばれる。2009年に「アイアイのすむ森」が建設され、マダガスカル島の希少動物やワオキツネザルなども鑑賞できる。
ただ、もともと日本の文化に「公園」という概念はなかったらしく、美術館や博物館や動物園といった施設も、近代化の波に乗って到来したようである。珍しいものを集めるという純真な収集家の動機に、国家の脂ぎった思惑が絡むと、所有の概念を剥き出しにする。クラウゼヴィッツ風に言えば、戦争は極めて政治的な行動。だが、侵略となると、文化の征服、価値観の征服と化す。それは正義の旗の下で正当化され、正義もまた極めて政治的な行動と化す。
そのために戦利品を展示する公の場が設けられ、国民の誇りを鼓舞する。他国の文化品を並び立て、国内では見られない珍しい動物を収集し、それで征服感を満喫できるのかは知らんが、文明開化から受け継がれる高揚感は「勝てば官軍」思想から抜けきれないと見える。
美術館や博物館や動物園の発祥には、そうした意味も含まれていたのかもしれない。ナチスの高官たちは、ヨーロッパ中の美術品を漁りまくった。大英博物館も、暗い植民地の時代には戦利品の展示場となったが、同時に、人類の遺産を保護する役割も果たしてきた。サミュエル・ハンティントンではないが、文明とは衝突するものらしい...

さて、このタイムトラベルは、著者が「栽松碑」という石碑の存在に気づいたことに始まる。初代台湾総督となった樺山資紀海軍大将は、戦死病没者の慰霊祭を行い、彼らの功績を讃え、不忍池畔に松を植えたそうな。
しかし、肝心の松の木が見当たらない。歴史資料を探っていくうちに、いくつかの挿絵を見つける。「征清捕獲品陳列之図」には、群がる見物人の背丈を凌駕する二つの大きな錨が石碑の両側に立ち、その背景に不忍池が茫洋と広がる。著者は、戦死病没者を悼んで松を植えた場所で、捕獲品や戦利品が一般公開された様子に違和感を抱くのだった。
捕獲品の陳列は、人心を奮起させるらしい。相手国の国旗を焼くパフォーマンスは敵の象徴を破壊する行為であり、現在でもなお健在ときた。日清戦争、日露戦争と勝利を重ねていく中で、敵国から奪った戦利品が国民に戦意高揚をもたらす効果が認識され、こうした陳列所は各地に設けられていったという。その最たる場所が、聖地となる靖国神社の遊就館だったとか。
そして、国民皆兵の国家建設を進める日本が経験した最初の対外戦争が、いかに国民の心を一つにしたか、その国民がいかに敵国を蔑み笑ったか、しかも、それを新聞がいかに煽ったか、そして今、それがいかに忘れ去られてしまったか、これを問う旅へといざなう...

ここは東京市祝捷大会。「捷」は今ではあまり見かけない字だが「勝」と同義で、つまり、日清戦争の勝利を祝う集会である。明治維新以来、朝鮮と台湾の利権をめぐって清国と睨み合い、ついに衝突。東京23区が東京市だった時代、広島に大本営が置かれ、天皇は東京を離れて駐在した。平壌を陥落させ、黄海海戦で大勝利し、元寇以来の神風思想を高潮させていく。
著者は、連勝連勝で沸き立った大衆に混じって、見せ物小屋と化した上野公園を見物して回る。入り口には平壌の玄武門がハリボテで建てられ、記念碑には撃沈した敵の戦艦の錨が飾られる。川上音二郎一座による野外劇や少年剣士らによる野試合、戦地から届いた分捕品の展示、日本赤十字による野戦病院の再現など、公園各所で催しが行われた。時が経つにつれ会場は興奮のるつぼと化し、クライマックスは日暮れに行われた不忍池海戦。池を黄海に見立て、清国軍艦の模型を浮かべて焼き討ちし、気勢をあげる。締めくくりは、数万の市民が万歳三唱!
万歳三唱の伝統がいつ始まったかは知らんが、明治維新あたりからの儀礼のようで、「万歳三唱令」という偽文書がそれなりに説得力をもったのもうなずける。大本営に擦り寄る新聞が煽動する様子も、現代の報道屋にしっかりと受け継がれているようだし。それは、やがて訪れる、戦争反対を唱えようものなら非国民と罵られる時代を予感させる...
「明治の日本人が何を考えていたかを知ることは難しい。三日間の旅でもほんのひと握りの人としか言葉を交わしていない。上野の山を埋め尽くした彼らは別世界の住人だと思うこともあれば、いや現代人と変わらないと思うこともあった。これからのちに不忍池海戦が再現されるとは思わないが、何かのはずみで、東京市祝捷大会は別の姿で催されるかもしれない。栽松碑のような不忍池畔に残されたわずかな痕跡は予兆であるかもしれない。」

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