2020-06-14

"現象学と人間性の危機" E. Husserl & A. Tymieniecka 著

「現象学」といっても、捉え方は様々。それだけ抽象度が高いということだろう。哲学用語とは、そうしたもの。真理ってやつには、様々な解釈を与える余地がある。真理ってやつには、いつまでも自由でいて欲しい。そもそも、真理なんてものが本当に存在するかも知らんし、人間が退屈病を紛らわせるために編み出した概念やもしれん...
この用語を文字通りに捉えれば、見たまんまといった皮相的な見解に陥り、物事の本質を捉えるという主旨に反する。だからといって深読みすれば、今度は客観性を見失う。人間が思考するということは、そこに主観性が介在することを意味する。主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には思考を整理して感性と知性を均衡させる役割がある。この両面を凌駕することは至難の業。だから面白い!
「哲学にはただ、普遍的で批判的な態度をとることの出来る能力がありさえすればよい...」

尚、本書には、エトムント・フッサール著「西欧的人間性の危機と哲学」と、その助手アンナ=テレサ・ティミエニエツカ著「現象学と現代西欧思潮」の二つの論文が掲載される。

客観性によって担保される学問といえば、数学であろう。どんな学問分野であれ、客観性を重視する立場であることに違いはないが、客観性の水準となると数学は他を寄せつけない。そのために、しばしば無味乾燥な学問と揶揄される。
フッサールが生きた時代は、現代数学の父と呼ばれるヒルベルトが 23 もの未解決問題を提示した時期と重なる。それは、あらゆる物理現象は科学で説明できると豪語された時代。ヘーゲルは、すでに精神現象を弁証法的に捉えていたが、さらに科学や数学で裏付けられれば強固な理論となる。フッサールは、より科学的に、より数学的に基礎づけようとしたようである。
しかしながら、科学界は、あらゆる物質の根本をなす量子系の中に不確定な特性があることを認め、数学界は、自然数の理論の中に不完全な性質があることを証明してしまった。これに呼応するかのように、フッサールは人間性の危機を唱えているように映る。彼は、現象学をもって、近代科学から人間性を救おうとしたのであろうか...
「精神科学の研究者は自然主義に目をくらまされて、普遍的で純粋な精神科学の問いを立てて、精神の無制約的普遍性に従い、種々の原理や法則を追求する純粋精神の本質論を問うということを、全く放棄してしまった...」

とはいえ、一つの学問分野に、人類を救え!などとふっかけるのもどうであろう。フッサールは、学問の超党派でも目論んだのであろうか。科学を中心に据えながら。
確かに、科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察の哲学がある。まずは観ること。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する立場であり、21世紀の科学者とて、その野望は捨てきれない。現象を正しく観ることの難しさを、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。現象は、正しく観察しなければ、適格な判断ができない。それは、宇宙がその住人に課した永遠のテーマにも思える。それで、単なる物質を知的生命体へと進化させようというのか。神の思惑は、まったく読めん...
「現象学は、現象の構造の直接的な分析にひたすら専念することによって、説明上の仮説を立てることを不用にし、多くの分野で古い方法が自称していた以上に、複雑なことを解明したのである。(略)現象学的アプローチは自己解明的であり、従って、直接的な洞察による明証性によって、仮説因果的アプローチは除去されるのである。」

尚、本書には、現象学の理念めいたものも語られるが、著作「超越論的方法論の理念」で詳しく扱っているので、次回触れるとしよう...

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