2020-06-21

"超越論的方法論の理念 第六デカルト的省察" E. Husserl & E. Fink 著

哲学の書に触れれば、「超越論」という用語を見かける。認識論に発する語のようだ。哲学とは、認識論の構築にほかならず、認識論なくして哲学は成り立たない。カントは、如何にして先天的な認識が可能であるかを問い、認識能力の果てにアプリオリという概念を見い出した。時間と空間の二つだけが、これに属す真に純粋な認識としたのである。それは、自己存在と直結するもので、その原因を追求しようものなら人間の能力を超越することになる。ニーチェが唱えた永劫回帰もまた、超人的な能力を要請してくる。
こうして哲学者たちは、超越的な方法を模索しながら、理性の原理をどう導くか、といったことを問うてきた。認識能力の限界に挑めば、言語能力の限界にぶち当たり、あらゆる哲学用語が迷走を始める。彼らは、いったい何を超越しようというのか。自己を克服し、自我を超越すれば、それで人間性を救えるというのか。そもそも苦悩とは、自己を認識し、自我を目覚めさせることに発する。無我ほど心地よい境地はあるまいに...

ここでの超越論は、フッサールの名を目にすれば、それが現象学におけるものであることは想像に易い。70歳のエトムント・フッサールは晩年の力を振り絞り、今一度、改訂出版に挑んだという。46歳年下のオイゲン・フィンクを共著者に従えて...
フッサールのデカルト的省察は、「第一省察」から改訂を重ね、フィンクの「第六省察」で完成を見たのかは知らんが、フィンクは単なる伝言役などではなく、批判的な問題提起も加えている。
ちなみに、フッサールは、ハイデガーに「君と私が現象学なのだ」としばしば語ったそうな。ハイデガーもまた彼の弟子となるが、のちに仮借ない批判を展開した。アリストテレスが師プラトンに反論したように。哲学者という人種は、何よりも真理を友とするらしい...

さて、現象といえば、観察能力を問うことになるが、物事を正しく観ることの難しさは科学が教えている。ニュートンは大作「プリンキピア」の中で「我、仮説を立てず」と宣言したが、人間の思考過程において仮説を排除することは可能であろうか。客観とは、主観の試行錯誤の末に見えてくるもの。仮説とは、その試行錯誤そのもの。主観を存分に解放しなければ、純粋な思考は見えてこない。脂ぎった思考を削ぎ落とし、その先に見えてくるものとは。徹底的に自己を追求し、究極の自我を探し求め、その先に見えてくるものとは...
そして、ついに裏返ってしまう。利己主義とは真逆の自己主義、しかも、利他主義や愛他主義とも違う何か、それが純粋客観というやつか...

本書には、馴染みのない二つの用語がちりばめられる。
まず、「エポケー」ってなんだ?古代ギリシアの懐疑論者たちが、独断的判断を批判する語として用いたらしい。存在するという現象は、自己の主観がその存在を信じているだけのことであって、まずは判断するな!と。
次に、「現象学的還元」ってなんだ?論理的に分析し、その裏付けがあって初めてその存在を認めよ!と。分析するということは、既にその存在を仮定している。それは仮の存在認識であって、いわば、仮説である。
そして、こいつらが、省察とどう結びつくというのか。省察とは、経験に対する態度であり、つまりは自己分析。自己、すなわち自我ってやつは、反省の果てに見えてくるものというわけか。
そして、ついに裏返ってしまう。主観の客観化、すなわち、自我の客観化とは、省察を超越した境地を言うのであろうか。この酔いどれ天の邪鬼には、現象学がまるで主体を放棄した幽体離脱論に見えてくるのであった...

「現象学的還元は... きわめて動的な構造をもつ反省的エポケーにおいて形成される、すなわち、徹底した自己省察をつうじて変容しつつ、人間は自己自身と世界内での自己の自然的に人間的な存在とを超越論的観視者を生み出すことによってのりこえるのであり、そして、この超越論的観視者自身は世界信憑(Weltglauben)に関与せずに、つまり世界を経験する人間的自我の存在定立に関与せずに、むしろ世界信憑を注視し、しかも世界信憑的な生の世界性格、すなわち人間世の背後にまで問い通り、次ぎにこの生を人間統覚によって覆い隠された超越論的構成的な世界経験へと還元する。」

なんじゃ、こりゃ!狂ったかフッサール...
「世界信憑」ってなんだ?純粋客観の類いか。あるいは、究極の幽体離脱か。哲学ってやつは、触れれば触れるほど頭が混乱してくる。バラバラな草稿の群れ...ここに、一貫性はあるのか?
しかしながら、この言葉の渦は、心地よい混乱である。真理ってやつは、分かりにくいぐらいでいい。すこし混乱して、なが~く混乱して... 退屈病患者の処方箋にいい。真理を覗くことによって自己否定に陥り、それでもなお、愉快でいられるとしたら、真理の力は偉大となろう。
フッサールによると、「哲学する」とは「現象学する」ということらしい。精神の正体ですらまともに説明できないのに、自己把握なんてとんでもない。結局、人間なんてものは、都合よく言語を編み出し、自由気ままに言葉遊びをする、ただそれだけのことやもしれん。言語という手段をもって、自我を肥大化させるだけの。
そして、ついに裏返ってしまう。ネガティブ思考からポジティブ思考へ。だから、もっと混乱させて。おいら、M だし...
「現象学的営為は観念論でも実在論でもなければ、その他なんらかの立場をとる教説でもなく、あらゆる人間的教説よりも崇高な絶対者の自己把握なのである。」

0 コメント:

コメントを投稿