「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」
翻訳者頭木弘樹が「絶望名人」と呼称する文豪カフカ。彼の日記や手紙には、自虐の言葉で埋め尽くされているという。
名言といえば、この世には実に多くのポジティブな言葉が溢れている。確かに、ポジティブな言葉には人を励ます力がある。
しかし、そんな言葉だけで人生を彩るには心許ない。ネガティブな本音の言葉に癒やされることもある。元気で明るいだけの言葉は、どこか嘘っぽい。本当に辛い時に、頑張れ!と声をかけられても、それはむしろ拷問である。絶望している時には、やはり絶望の言葉が必要だ!
カフカの人生は、なにもかも失敗の連続。現代風に言えば、負け組ということになろうが、そんな表現では足りない。虚弱体質に、食が細く、不眠症。自信家で逞しい父親に対するコンプレックスのために、自らを歪めていく。学校では劣等生のレッテルを貼られ、教師や同級生から馬鹿にされてきた。人付き合いが苦手で、サラリーマンの仕事がイヤでイヤでたまらない。ひたすら書くことに救いを求めて小説家を自称するも、すべての作品が未完に終わり、生計を立てることもできない。結婚願望は人一倍強いものの、生涯独身を通す。一人の女性に憧れて求婚し、二度婚約するも、自ら二度破棄。結婚し、子供をつくって遺伝子を残すことへの罪悪感。自分にそんな資格があるのかと、ひたすら問い続け...
「誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。」
頑張りたくても頑張れない。働きたくても働けない。すべて自ら招いた心の病であることを告白する。すべて自分が悪い。究極の自己否定節。究極の自己破滅型人間。
しかしながら、こうした心理状態は多かれ少なかれ誰でも経験しているし、まさに現代人が抱える病がそれだ。ニートやひきこもりの心理学を体現するような、まさに現代病の先駆者とでも言おうか...
それでも、自殺には至っていない。自殺願望を匂わせつつも。いや、自己の破滅を謳歌しているような気配すらある。骨折や病気になったことを喜び、社会的地位から追い落とされることを快感とし、究極の M か...
「ずいぶん遠くまで歩きました... それでも孤独さが足りない... それでもさびしが足りない...」
カフカの言葉は、悲惨ではあるけれど、どこか余裕を感じないではない。自分が不幸なのは自分自身のせいだと自覚できるということは、自己を冷静に見つめている証拠。なんとなくニヤけてしまいそうな真実を浮き彫りにし、もはや、ポジティブやネガティブなどと区別することもバカバカしい...
巨匠ゲーテは、真実を実り多きものとしたが、文豪カフカは、真実につまずかされる。これでもか、これでもか... と。人間には、他人の不幸を見て慰められるという情けない一面がある。あの人よりはまし!... と。カフカの場合、人間が本能的に持っている滑稽な側面をあえて曝け出しているようにも映る。そんな余裕があったとも思えんが...
重いのは責任ではなく自分自身... 死なないためにだけ生きる虚しさ... 自殺したい気持ちを払いのけるためだけに費やしてきた人生...などとネガティブ思考のオンパレード。その行間からポジティブ思考への強い憧れが滲み出る。自分を信じるだけで、自分を磨こうとはしない。あえて自分にハンデを与え、失敗した時に自尊心を傷つけないようにするってか。才能があると信じて才能を伸ばす努力をしないのは、失敗した時に努力しなかったからだと言い訳できるってか。論理的に理由を説明しようとするのは、他人を納得させることができれば、自分をも納得させられるってか。
人は目の前の真実から目を背け、自分に言い訳をしながら生きている。それだけ、真実を見るには勇気がいるってことだ。自ら心の病を受け入れ、それを曝け出せるような人は、そうはいない。その意味で、自分の弱さを素直に認めて正面から向き合ったカフカは、真の勇者だったのやもしれん。
生前カフカは、ついに小説家として成功するこはなかった。病床では、未完の原稿をすべて焼却するよう友人マックス・ブロートに遺言する。しかし、ブロートはカフカの作品を世間に紹介した。まさか、あの世でこの友人を恨んではいまい。ブロートは、カフカへの手紙にこう書いたという。
「君は君の不幸の中で幸福なのだ。」
1 コメント:
よく考えるのですが,自己嫌悪のパラドックス的なものが存在すると思います.自分のことが嫌いであればあるほど,自分に批判的であればあるほど,自分に対する自分のopinionすら,妥当性のない,聞くに値しないものとして写ってくる.自分のことは嫌いだが,でもそれを言っているのは愚かな自分であるからこそ,その言葉に重みはない.自分は愛に値する人間ではないと思っているから,自分の苦しみを嘆かわしく思う気持ちが薄れ,そんな低俗な自分でも愛さなくてはいけないという呵責から解放される.僕は自愛なんてものは信じていないので,これはある意味で自己受容の境地なのではないかとさえ疑っている.
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