かのニュートンは、仮説を嫌ったと伝えられる。科学者の立場であれば、仮説の公表をためらうのも頷ける。
しかし、だ。仮説ぬきで思考することは可能であろうか。前提ぬきで、推論ぬきで、そして、解釈ぬきで、それは可能であろうか。ポアンカレ予想を提示したアンリ・ポアンカレは、仮説の重要な役割を堂々と論じて魅せる。直観の偉大さのようなものを...
尚、 河野伊三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。
ユークリッド原論には、五つの公準が記される。それは、これ以上証明のやりようがない純粋な命題であり、言うなれば直観によって成立したもので、カントが唱えたア・プリオリな認識に通ずるものがある。
数学者たちは、公準を基軸にしながら、あらゆる論理の組み立てを演繹によって企ててきた。公準の存在を認めるということは、論理的思考の限界、つまりは人間の能力の限界を認めることになる。
それだけに、公準には常に懐疑の目が向けられてきた。天動説を仮定しなければ、地動説への展望は開けなかったであろう。ニュートン力学を仮定しなければ、相対性理論も、量子力学も編み出されることはなかったであろう。マクスウェルは、エーテル仮説を信じて、電磁場を記述する偉大な方程式を導き出した。この方程式で、エーテルの存在が否定されたわけではない。存在しなくても成り立つってことだ。第五公準が覆されて非ユークリッド幾何学の可能性を認めたのも、健全な懐疑心が働いたからであろう...
あらゆる思考法において、演繹だけに固執せず、帰納によって補完することも怠るわけにはいくまい。
それにしても、古典を読むのは楽しい。いまさらだけど... 科学は日進月歩、獲得した知識もすぐに古びてしまうが、それでも楽しい。いまさらだけど... アリストテレスも、ガリレオも、ニュートンも... 彼らの記述が色褪せないのは、それが人間の思考原理を物語ってくれるからであろう...
幾何学的な認識は、そのまま精神空間に投影される。しかも、この空間はユークリッド幾何学とすこぶる相性がいい。カントは、空間と時間をア・プリオリな認識とした。つまり、これ以上説明のやりようがない純粋な認識に位置づけたのである。
しかし、だ。その空間認識がユークリッド幾何学だというのは、本当だろうか。確かに、物心ついた時から、精神ってやつはユークリッド幾何学に看取られているような気がする。だがそれは、先天的な認識などではなく、自我が目覚める前の、まだ無意識のうちにある経験が、そのような感覚を獲得させたということはないだろうか。
仮に、自我の目覚める前に空間認識めいたものがあるとすれば、それはどんな幾何学であろう。人間の認識領域は、無意識の占める部分があまりに広大で、自我を覗き見するだけでも、よほどの修行がいる。しっかりと意識できるということは、すでに経験的であり、もはや純粋な認識ではない、ということになりはしないか。非ユークリッド幾何学の出現は、それを示唆している... などと解するのは、ただの考え過ぎであろうか...
1. 定義と規定の役割
そもそも、幾何学は、どうやって規定されるのであろう。ユークリッド幾何学は五つの公準で規定され、非ユークリッド幾何学は五つ目の公準から解き放たれ時に規定された。幾何学とは、単なる規定や制約、あるいは、単なる定義ということか。体系とは、そうしたものなのだろう。
学問するからには用語の定義が必要で、これを前提にしなければ、思考を展開していくこともままならない。
数学の定理は、最も単純な加法や乗法の規定によって組み立てられてきた。つまり、結合性、交換性、分配性、等価性といった数学的関係性の洞察によって。実に単調なやり方ではあるが、これこそがまさに最も高度な推論原理といえよう。数学は、数や体系の抽象化はもとより、その関係性においても抽象化の道を辿ってきた。その最たるものが群論である。
物理学の基本対象に、物質の構造と力学がある。力学は、物質の関係性を洞察するもので、まさに数学的推論に適合する。これを人間学に持ち込めば、人間の関係性においても数学的な洞察が可能となろう。
ところで、あらゆる命題が論理形式で引き出されるとしたら、大規模な同語反復に陥りそうなものだが、実際はそうはならない。人類は、うまいこと矛盾を回避する術を会得してきた。それが、定義や規定という術か。それは、人間のご都合主義か。
演算を得意とするコンピュータにしても、矛盾を回避する手段を与えなければ、システムが暴走してしまう。実際、実数演算は近似で誤魔化しているし、もし浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。
哲学という学問にしても、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけ、といえばそうかもしれん。だが、人間の思考能力で、それ以上に何ができよう。真理への道は、これら単調な道を突き進むほかはあるまい...
2.力とエネルギーの規定
力について考え始めたら、哲学をやることになる。関係あるところに、なんらかの力学が働くのだから。政治の力、金の力、愛の力などと...
そもそも、力とはなんであろう。古来、力の表記では、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどの用語が乱立してきた。それだけ得体の知れない存在ということか。
アインシュタインは、あの有名な公式で、質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーで記述できるようになった。
では、エネルギーとはなんであろう。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和で記述される。運動する物体がエネルギーを持つことは、感覚的にも分かるが、位置がエネルギーを持つとはどういうことか。物体が存在するということは、空間のどこかに位置するわけだが、それは相対的な位置関係でしかない。
しかも、地球の重力を基準に計測され、運動エネルギーも、ある単位系を規定して記述される。つまり、力学的エネルギーの総体は、関係性において規定しているに過ぎないってことか。
光速にしても、粒子性と波動性の二重性に見舞われ、量子の世界では存在確率で記述される。となれば、エネルギーもまた、記述の規定に従っただけのことで、得体の知れないままってことか。
得体の知れない存在について考え始めたら、やはり哲学をやることになる。物理学という学問もまた、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけなのか。学問とは、そうしたものかもしれん。専門用語を編みだすだけの。だから、用語を知らないヤツをバカにせずにはいられないってかぁ...
「科学が到達し得るのは、素朴な独断論者が考えているような物自体ではなくて、ただ物と物との関係だけである。この関係意外には認識し得る実在はない。」
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