2021-05-09

"責任と判断" Hannah Arendt 著

「凡庸な悪」をめぐる物語。それは、「凡庸な善」と背中わせにあったとさ...

小惑星の名になったハンナ・アーレントは、ヒトラー時代を生き抜いたユダヤ系女性。彼女が提示する悪は、邪悪でない人々が画一化し、全体主義的な傾向を強めていく中で浮かび上がる悪である。
どんなに良い事でも、同じ事をする人が多過ぎると、なにかと問題になる。それが人間社会というものか...
どんなに良い人でも、同じ考えの人が集まり過ぎると悪魔に変貌する。それが集団社会というものか...
人間ってやつは、自分自身を見つめることを忘れちまうと、人間性までも見失うらしい。そんな大衆社会にあって、個人の責任はどこまで問われるだろうか、個人の判断はどこまで当てになるだろうか。これがハンナの問い掛けである...
尚、中山元訳版(筑摩書房)を手に取る。


やはり、大衆は臭い!そこには、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。正義を振りかざす人ほど言葉を強め、中庸な人ほど言葉を弱める異様な言語空間。言葉ってやつが、人を攻撃的にさせるのか。アイヒマンのような怪物が実は凡庸であったと指摘し、人間が潜在的に持つ悪魔性について言及すれば、非難に晒される。語ってもいないことを攻撃する輩がいれば、語ってもいないことを擁護する輩まで論戦に加わり、まるで SNS 上で繰り広げられる誹謗中傷の連鎖。現代社会の抱える病理が、こんなところに...


人は誰もが、自分の属すカテゴリに対して敏感に反応する。それは、自己存在を強烈に意識させるからで、いわば本能的な反応。所属するグループが他のグループを優越できれば、これほど心地よい居場所はない。
しかし、だ。残虐な迫害行為がなされ、それを目の当たりにし、それでも心地よくいられるだろうか。悪魔の所業は、どんな心理状態で容認されたのか。歴史学者グイド・クノップは、アイヒマンやメンゲレなどの恐るべき事務的処理を指摘していたが、ハンナは、官僚主義が生み出す非人間性を指摘する。
おそらくヒトラーは、巨大官僚機構こそが、人々が思考することを放棄させ、機械的に、事務的に、つまりは、最も忠実な実行部隊に仕立て上げることを熟知していたのだろう。独裁者である自分自身を神格化できればそれに越したことはないが、こっちの方が手っ取り早いことを。民衆の心を操るプロパガンダ効果も含めて。大衆社会という形態は、この時代に基礎づくりがなされたとも言えそうか...


1. 官僚主義がもたらす「義務」という脅迫観念!
義務ってやつは、ある時は出世の道具に、またある時は強迫観念に、意志を持たない人ほどハマりそうな。これと瓜二つの観念に「常識」とやらがあり、どちらも疑問を持つことを忘れさせる。
義務の恐ろしさは「責任」という観念にいとも簡単に転嫁されるところにある。あらゆる行為が自発的でなされるならば、義務やら、責任やら、そんなものを意識せずに済むはずだが、自発性は個人の問題である。集団の中では協調性がより重要視され、自発性と協調性はしばしば反目する。そのために、統治者は、意志をしっかりと持ち、自発的に行動する人が煙たくもなり、逆に自発的な人は、所属するグループが息苦しくもなる。
そして、ボランティア的な社会活動でさえ誰かの命令でやらされてしまい、誰かの指示がないと仕事も見つけられない。換言すれば、官僚主義は「義務」や「責任」といった用語で支えられている。いや、縛られていると言った方がいい。これらの用語をどう解釈するかは別にして...
但し、官僚主義は公務員の専売特許ではない。組織あるところに、なんらかの形ではびこる。命令する側にとって、イエスマンほど都合のいいヤツはいない。命令だから、規則だから、法律だから、と言い訳できれば、思考せずに済む。非人間性ってやつは、思考することの面倒臭さからくるのだろうか。形式や儀式に固執し始めたら、その前兆かもしれない。
いずれにせよ、扇動者にとって、思考しない連中が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない...
「こうした官僚機構で支配するのは、法でも人間でもなく、非人格的な役所やコンピュータです。まったく人間の手から逃れた制度による支配は、これまで経験されてきた独裁政治のもっとも法外な専制よりも、人間の自由と最低限の礼儀に対する脅威となりかねないものです。」


2. 良心や定言命法ってやつは、当てになるか?
道徳を根底から支えるものに、良心ってやつがある。良心は、責任や義務にも深く関与する。良心はきわめて主観的な領域にあり、主観的であるからには個人的な資質に関わる。道徳が個人的な問題だとすれば、集団社会においては悲観論にならざるをえない。ソクラテスの黄金律だけでは不十分。何か別のものが必要ってことだ。
ハンナは、古代ギリシアから培われてきた道徳法則に、「カントの定言命法」を加えて補完を試みる。仮言命法は、ある目的を実現するために提示される命令で、道徳的な意味はあまりない。対して、定言命法は、目的を考慮せずとも提示される命令で、義務の意味合いが強い。ただし、目的を考慮せず... というのが問題で、無条件で思考を放棄してしまっては本末転倒。常に、自己の中にある良心に耳をすます、といったところか。
しかしながら、自らに照らして吟味する性格のもので、主観的な領域は脱しえない。となれば、あとは共通認識に期待するぐらいか。善と悪の基準は人それぞれ。それでも、人間なら誰もが苦痛を感じ、喜びを感じるような意識がある。それが、普遍性ってやつか。普遍性に従った判断力は、共同体の中で期待できる最後の砦となりうるだろうか。それは、基本的人権とも深く関わる問題である。
とはいえ、良心に期待するのも心もとない。良心の限界、理性の限界、道徳の限界を心得てこそ、節度の心理が働く。自分の理性に自信を持ち、自分の道徳認識に自信満々になれるということは、すでに自己の中で理性が暴走を始めたと見るべきであろう...
「客観的な原則の表象は、これが意志を強制するかぎりで、理性の命令と呼ばれ、この命令の形式は命法と呼ばれる。」


3. ヒトラーの教皇
ロルフ・ホーホフートの戯曲「神の代理人」は、ユダヤ人虐殺を黙視したローマ教皇ピウス12世の戦争責任を告発し、多くの論争を呼んだ。人道的な立場から、なにゆえナチスを批判しなかったのか、あるいは、できなかったのか、という議論は現在でも燻る。ヨーロッパにおけるローマ教皇の精神的権威は大きく、ローマ皇帝でさえ教皇に頭を下げてきた歴史がある。当時のドイツにも多くのカトリック教徒がおり、その影響力は大きかったはず。なのに... そして、ピウス12世は「ヒトラーの教皇」と呼ばれた。
しかしながら、21世紀の今では、逆の見方が優勢であろうか。実際、表向きナチスと親交をもちながら、多くのユダヤ人を救ったという逸話が数多く残され、映画やドラマにもなっている。人種的な、イデオロギー的な立場をカモフラージュしなければ、そうした行為もできない。そのために、戦後、不本意な告発がなされ、無知な大衆の餌食にされた事例も少なくない。
では、ピウス12世の場合はどうであろう。ナショナルジオグラフィックでも特集をやっていたが、バチカンの敷地には多くにユダヤ人が匿われたそうな。ユダヤ教の礼拝中にドイツ軍が近づけば、アヴェ・マリアを歌ってカトリックを装う。教皇が沈黙していたから、静かに匿うことができたとも言える。
ピウス12世はヒトラー暗殺計画にも関与していたという説もある。ヒトラーもローマ教皇を目の上のたんこぶと見ていた節があり、教皇の誘拐計画を企てたが、実行部隊がわざと時間をかけて防いだといった話も。
また、当時のヨーロッパには二つ悪魔がいて、互いに警戒しあっていた。一つは、ヒトラーの国家社会主義、二つは、スターリンのボリシェヴィキ。バチカンにとっては、後者の方が危険であろうか。ドイツにも多くのカトリック教徒がいたし、ヒトラーはユダヤ人だけでなく共産主義も目の敵にしていた。ただ、地理的にはヒトラーの方が目障りで、西ヨーロッパのほとんどの領土を支配していた。
こうした情勢の中で、堂々とヒトラー批判を展開すれば、バチカンは残虐な報復攻撃を受けたことだろう。ハイドリヒ暗殺でリディツェ村が抹殺されたように。正論は、しばしば悪魔の口実にされる。戦後の当事者の証言にしても、あまり当てにならない。自分を正当化しようと必死なのだから。
そして、ドイツの大衆はヒトラーにすべての責任を負わせ、敵国の大衆は一介の市民にまで責任を負わせようとする。戦争責任を問うことは難しい。その範囲を問うことは、さらに難しい。クラウゼヴィッツ風に言えば、戦争は政治の一手段であり、その責任は政治指導者が負うべきであろうが、その指導者が選挙で選ばれた人物なら、国民にまったく責任がないとも言えまい。我が国にも、戦時中に平和論を唱えようものなら、非国民と罵倒された時代があったが...


4. 善行の逆説
カントは、毎日、同じ時間にケーニヒスベルクの街路を散歩したという話は聞いたことがあるが、散歩中に乞食に施しをする習慣があったという逸話はあまり知られていない。いつも新しい硬貨を用意し、使い古しのみずぼらしい硬貨を与えるのでは、乞食を侮辱すると考えたとか。乞食たちが群がり、カントは散歩の時間を変えなければならなかったが、その理由を告げるのを恥じて、肉屋の店員に乱暴されたからという話をでっちあげたという。本当の理由は、施しをする習慣が道徳的な格律にふさわしくなかったということらしい。すなわち、「施しをねだる人には誰にでも与えよ」という格律から...
善をなす誘惑はどこにでも転がっているが、悪をなすには手間がかかるし、知識もいる。道徳を学ぶには、悪をも学ばなければ...
すると、善行の逆説が薄っすらと浮かび上がる。ナザレの御仁は、善を行う者は、その行為を他者からだけでなく、自分自身からも隠せ... というようなことを告げた。右の手のすることを左の手に知らせてはならない!という言葉が、それだ。善を行えば、それを人にアピールしたくなるものだが、それこそ独善者というわけである。真の善人は、善人ぶることはないだろう。真の悪人こそ善人ぶるだろう。無私性を問えば、自ら孤独へ導くことに。そして、孤独のうちに十字架を背負ったのだろうか...


5. 孤独と孤立、そして孤絶...
人間ほど孤独を恐れる動物はあるまい。寂しがり屋な性癖がそうさせるのかは知らんが、誰かと繋がっていないと心配でしょうがない。
そこで、ハンナは、孤独と孤立の違いを指摘し、「孤絶」という概念を持ち出す。思考は、孤独の状態を前提とし、自己との対話によって可能になる。孤立は、自己との対話すらできず、思考することもできない状態。孤独は自己の中にあるが、孤立は自己の中にも、人里離れた山奥にもなく、むしろ集団の中にあるというわけか。そして、最も深刻な状態が孤絶ってやつで、それは騒々しい大衆の中にあるってか...
エジソンは、こんな言葉を残した... 最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる... と。
ハンナは主張する。善を為す者は、それが善行であることを他者に誇ってはならないだけでなく、自らも意識してはならないと。行為を為す者は、単独で神と向き合っていなければならないと。
とはいえ、これを実践するには、よほどの修行がいる。下手すると自己にも無関心になりそうな。自己に無関心な自己とは、どういう状態であろうか。それはそれで危険な香りがする。いずれにせよ、最も危険な状態は、自己に問い掛けることを忘れ、自己を見失うことであろう...

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