いつの時代にも、科学には解釈の問題がつきまとう。いや、科学でさえも...
ある物理現象に遭遇すれば、それに疑問を持ち、原因を探り、解釈を加えずにはいられない。そして、解釈の余地がなくなるまで精査し尽くすと、また新たな解釈を求めてさまよう。疑問が解釈を呼び、解釈が疑問を呼ぶ。こうして科学は進歩してきた。仮説嫌いのニュートンだって、そうやって思考してきたはず。思考のレベルは、疑問のレベルに比例するであろう...
物理現象の最も基本的な疑問は、二つに集約できよう。一つは、物質を構成する素材はどこまで微小かということ。二つは、物質の間で作用する力の正体は何かということ。前者は、古代の四元素から周期表を経て素粒子物理学に議論が受け継がれ、後者は、重力、電磁気力、核力のメカニズムを担う強い力、放射性崩壊のメカニズムを担う弱い力の四つの統一理論を夢見ては、論争を繰り返す。解釈というからには、主観の域を脱し得ない。疑問が持てなければ思考停止に陥るが、不毛な問答を繰り返すのでは同じこと。宇宙が一つの物理法則ですべて説明がつくとすれば、そこに住む知的生命体は退屈病を患うであろうし、そもそも知的生命体に進化することはなかったであろう...
「自然は人間より前からあるし、人間は自然科学より前から存在していた。」
... カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー
これは、量子力学をめぐる解釈の物語である。量子力学は、相対性理論と並ぶ現代物理学の根幹をなす存在で、その研究では二つのアプローチがある。行列力学と波動力学が、それだ。前者は、ハイゼンベルクの不確定性原理で威光を放ち、後者は、シュレーディンガーの波動方程式で幅を利かせる。
量子の性質には、粒子と波動の二重性がある。光や電子には、光電効果のような粒子を放出させる現象もあれば、回折や干渉のような波を思わせる現象もある。となれば道は二つ。粒子性から迫るか、波動性から迫るか。
注目すべきは、まったく異なる二つの発想が、数学的には等価だということ。しかしながら、その解釈となると、二つの巨星にとどまらず、多様な説が飛び交う。コペンハーゲン派の解釈が主流かどうかは知らんが、ハイゼンベルグの立場はそういう位置づけになろうか。
主観で議論するからには、デカルトの存在論やカントの直観論とも交わる。ボーアの解釈では「相補性」が語られ、粒と波が互いに存在を補い合っていると捉える。いや、不確かな存在は、解釈で補うってか。粒のようで粒でない... 波のようで波でない... ベンベン!
それで、シュレーディンガーの猫が生死にかかわらず、どんな状態にあるかは知らんが、なんとなく存在してそうな気がする。チェシャ猫のように薄ら笑いを浮かべて...
仮に、量子が波だとすると、それを伝える媒質が存在するはず。音波が空気を伝わるように。マクスウェルは、エーテルという架空の媒質の存在を信じて、電磁場を記述する方程式を編み出したが、媒質の必要性は否定された。それは、エーテルの存在が否定されたわけではなく、存在しなくても構わないってことだ。光速は媒質に影響を受け、真空中で最大になるというから、これを基準にすれば、存在しないに等しいというわけである。なので、古典論で絶対真空と呼ばれる宇宙空間に、何も存在しないとは言い切れまい。それが、ダークマターってやつかは知らんが...
物理学における解釈の問題は、観測の問題でもある。不確定性原理は告げる。量子の観測では、厳密な位置と運動量を同時に決定することができない... と。しかも、これら二つの不確かさの積は、プランク定数を粒子の質量で割ったものよりも小さくはならない... と。
存在するが、存在の仕方までは理論的に決定づけられないとしたら、その存在はいかようにも解釈できる。人間にとって、存在なんてものはそんなものかもしれん。そもそも、魂や精神の存在が不確かさに覆われている。デカルトが定式化した「我」も、カントが唱えた「悟性」も、道徳屋が説く「理性」も、政治屋が焦がれる「正義」も、博愛主義者が崇める「愛」も...
いずれにせよ、人間は、リアリティの中でしか生きられない。デカルトの思惟も、カントのアプリオリも、リアリティな認識に裏付けられている。哲学は、リアリティとの葛藤から発展してきた。
ただ、リアリティは、リアルとは違う。現実とはちと違う。現実っぽい... と言うべきか。現実と正反対であることすらある。だから、目の前の幻想や夢に惑わされる。現実社会では、確率関数が幅を利かせ、近似や誤差の概念が大手を振り、自己存在までも確からしさの度合いに呑まれる。
だから、自分探しの旅は、いつの時代もお盛んときた。人間のできることといえば、現実を前にして思惟することぐらい。デカルトの言葉は、まんざらでもなさそうだ。
アインシュタインのあの有名な方程式は、質量あるところにエネルギーが存在することを告げている。エネルギーあるところに、なんらかの存在が規程できるとすれば、霊感ってやつも観測できるやもしれん...
古来、自然哲学の歴史は、存在をめぐる論争の歴史であった。それは、物質的な原因を問い、理に適った解釈を求め、一つの原理に帰着させること。哲学は言語による定義を要請する。数学が公理を要請するように。だが、厳密な言語は息苦しい。解釈の余地は、その息苦しさを和らげてくれる。不確定性原理は、その役割を担おうってか...
言語は偉大である。コミュニケーションや思考の手段だけでなく、リアリティまでも現実のものにしちまう。量子力学は、その新たな言語を担おうってか...
解釈は批判される運命にあり、批判する行為もまた解釈によってなされる。どちらの解釈がより合理的か、その優位性を競うのが人間社会。科学でさえ、健全な懐疑心を持ち続けるには、よほどの修行がいると見える。思考実験がパラドックスを育み、思想へといざなう。思想とは、解釈の問題か。人類は、原子自体について語る言語を、いまだ獲得できていない。ならば、なんでもあり...
尚、河野伊三郎、富山小太郎訳版(みすず書房)を手に取る。
0 コメント:
コメントを投稿