学術研究都市のサロンでブラックコーヒーをやりながら、空間認識なんてものは、存在を意識できるなら誰しも持っているわけで、数学屋さんは、その記述の仕方をルール化しているだけじゃないの... なんて大人気ない発言をしていると、ある大学教授から、この本でも読んでみてよ!とけしかけられた。空間論の教科書的存在らしい。
おいらにとって、空間が多様体であろうが、何次元であろうがどうでもいい。興味があるのは、微分できるかどうか。それは、いかに実世界に対応づけられるかということ。もっといえば、微分可能とは、人間の認識可能!と解している。
それでいて、解析対象の物理現象に対しては、微分方程式を組み立てるまではいいが、解けないのは毎度のこと。数学屋さんにボトルを差し入れしては、気分はいつもハーフボトル!天の邪鬼な空間認識ときたら、まったく救いようがない。
だからといって、数学のド素人を議論でねじ伏せようとする数学の大先生も大人気ない。しかも、満面の笑みを浮かべて... こっちも負けじと笑い飛ばすとしよう...
ところで、空間論なるものに接すると、いつも悩まされることがある。集合論や位相論で出くわす空間のコンパクト化ってなんだ?ある種の有限界のことか。ついでに、被覆空間ってなんだ?閉空間の類いか。いつも閉塞感がつきまとう。
空間を論じるからには、それぞれ距離の概念と結びついているが、ユークリッド空間の距離とは明らかに違う。コンパクト化と言いながら、コンパクトにまとめきれない。リーマン・ロッホの定理を用いれば、複素解析曲面の分類ができることは知っているが、オイラー数でいいじゃん。おいらにとっての空間論なんて、こんなもんよ...、
そして、解析的な思考では、広大な空間を分割して貼り合わせ、局所的にユークリッド空間を割り当てて実世界に近づける。それは、微分可能な領域の貼り合わせ。これを集合の連続体として眺めれば、群論も顔を覗かせる。要するに、ある種の近似法と解している。
微分の概念にしても、永遠に近づこうとするということは、永遠にたどり着けないことを意味する。結局、人間の能力では、真理に近づくことはできても、真理にたどり着くことはできまい。だから、近似法に縋る。いつまでもユークリッド空間に幽閉されたまま。なぁーに、屁理屈屋の独り言よ...
こんな見方からでも、複素数空間を眺めると、リーマン面とやらが薄っすらと見えてくる。それは、まさに一次元複素多様体であり、直観的には二次元平面を双正則写像で貼り合わせたもの。本書も、そんなことを言ってくれるのに救われる。
すると、数学的な厳密性が保てるかどうかの境界面は、微分可能かどうかにかかっていると言えそうな。そして、アルコール濃度で分解可能な空間を貼り合わせ、リアリティを求めてバーへ足が向く...
さて、「タイヒミュラー空間論」という名には、条件反射的に圧倒される。オズヴァルト・タイヒミュラーという数学者はナチズムに熱狂した人物でもあるが、まぁ、それはおいといて、ベルンハルト・リーマンと深くかかわるというから、こいつが難解な書であることは想像に易い。
それは、種数 g によって記述される閉リーマン面をめぐる物語。タイヒミュラー空間とは、どうやら種数によって表記できるリーマン面のことを言うらしい。ということは、リーマン面には種数で表記できないものもあるってことか?と解釈すれば、タイヒミュラー空間はリーマン面よりも親しみやすく感じる。
ちなみに、種数とは、位相幾何学で物体の本質とされる穴の数で、位相幾何学者とはコーヒーカップとドーナツの違いも分からん連中... などと揶揄される、あれだ。
こうして見ると、「同じ」という概念も、なかなか手ごわい。ユークリッド幾何学において第五公準を放棄するだけで、空間の抽象度が格段と上がる。何をもって同じ空間と見なすか?その時の座標系は?変数に何をとるか?座標を局所的にとれば、変数も局所的となる。
本書には、抽象数学でお馴染みの「自己同型」だけでなく、「双正則同値」や「等角同値」といった用語が散りばめられる。微分可能な条件をやや弱めながら、等角写像から擬等角写像を考察したり。「モデュライ空間」という用語も飛び出すが、これも「同じ」という概念の親戚のようなものか。点の集合を領域で貼り合わせて同一視することを「商空間」というらしいが、タイヒミュラー空間の商空間がモデュライ空間であるという。
何をもって同じとするか... ということは、何をもって区別するか... という問題でもある。「ホモトピック」という概念も、こうした思考から生まれたのであろう。
物語の主役は、種数 g ≧ 2 の閉リーマン面...
まず、6g-6 次元で記述される「フリッケ空間」ってやつが紹介され、次いで、双曲幾何を記述するための「ポアンカレ計量」という曲率テンソルや、フリッケ空間を記述する「フェンチェル - ニールセン座標」の導入でリーマン面の空間イメージを膨らませ、これらを予備知識として、6g-6 次元の実数空間で記述される「タイヒミュラーの定理」が論じられる。
これだけでも、満腹だというのに、ここからが本ちゃんときた!「複素解析的に...」と題して...
解析的とは、どういうことか?分割的ということか?のりとはさみによる構成論か?
g ≧ 2 の閉リーマン面を解析的に眺めるには、3g-3 次元の複素数空間が鍵になる。「タイヒミュラー・モデュライ群」と呼ばれる自己同型写像からなる群を考察しながら。このプロセスを理解するには、擬等角写像と正則二次微分が鍵となりそうだ。
また、空間を論じるからには、距離の概念も欠かせない。計量できるからこその距離だが、座標系が変われば距離の風景も変わる。距離ゼロの意味ですら。タイヒミュラー距離が小林双曲距離に一致するとか、ヴェイユ - ピーターソン計量はケーラー計量であるとか... こうした考察は本当に距離を論じているのか?遠くのものが近くに感じたり、近くのものが遠くに感じたり、まるで人間関係に見る距離感...
それにしても、こいつぁ、本当に入門書なのか?外観できるのはありがたいが、厳密に理解するのは、おいらの能力では到底無理!
ただ、数学ってやつは厳密に理解しようとすると、これほど難解な学問もないが、分かった気になる分には、それほど難しくはない。だから、数学の落ちこぼれなのである。おいらの知識は、たいていこんなもんよ。
地球が公転し、自転していることだって、地球が丸いってことすら自分で確かめた知識ではない。学校で習ったから、そう信じているだけで、そう信じていないと馬鹿にされるだけのこと。確実に知っていることといえば、コーヒーカップは食べられないが、ドーナツは食べられるってことぐらい。
なにごとも、分かった気になれるってことが一番の幸せであろう。そこに挫折感を浴びせようものなら、M な性分が救いになる。もはや、ユークリッド空間に存在する自我を満喫するのみ...
それにしても、数学の大先生のボランティア精神には敬服する。授業料も払ってないド素人相手に、ハーフボトルで釣られるなんて...
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