2022-07-17

"差異と欲望 ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む" 石井洋二郎 著

生涯に一度は読んでみたい...
そう思いつつ、ToDo リストに何十年も居座ってるヤツらがいる。大作ってやつは、分かりやすさに群がる風潮にあっては、近寄りがたい存在に成り下がる。そんな時、天の邪鬼な性分が救ってくれる。気まぐれは偉大だ。難解さを理解への渇望に変えちまうんだから。まずは知識の下地が欲しい。前置きとなる歴史背景が欲しい。ピュアな情熱に触れるには、前戯を丹念に...
ピエール・ブルデューの著作「ディスタンクシオン」も、そうした一冊である。解説書の類いが多く出回るのは難解な証拠であるが、それだけではあるまい。解説書や翻訳書が原作の本質を暴けば、それが原本にフィードバックされ、重厚な改版に生まれ変わる事例も少なくない。これが、知の世界というものか。知識や教養は、私有、独占できるものではないし、共有こそが本来の姿なのであろう。共有すれば、悪意に晒すことにもなるのだけど...

フランス語の "distinction" を辞書で引くと、動詞 "distinguer" の名詞形で、区別、弁別、識別といった意味が出てくる。これの過去分詞 "distingué" が形容詞として用いられると、上品な、気品のある、といった意味になるらしい。したがって、「ディスタンクシオン」とは、「差別化」「卓越した品位」の両方の意味を含んだ用語だという。
人間は、比較においてのみ自己を自覚し、他を認識できる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の宿命。経験を積めば、自己を時間軸にマッピングしながら、自己と自己とを比較することもできよう。となれば、人間は絶えず差異の確認作業に追われて生きているとも言える。その場合、過去の自己は、すでに自己ではないかもしれんが...
差異は欲望を生み、欲望はさらなる差異を生み、そこにアイデンティティとやらを結びつける。それが単なる差別意識に終わるか、そこに卓越性なるものを見い出すかは、かなりの隔たりがあり、その隔たりを乗り越えるために、自由や自律といった洗練した欲望がともなう。「ディスタンクシオン」という言葉に込めたブルデューの思いに、人間の本質を垣間見る思い...

「人間は、他人と異なっていることにも、他人と同じであることにも、ともに耐えられない存在である。他人と異なっていれば、他人と同じになろうとする。他人と同じであれば、他人と異なろうとする。要するに人間は、相反する二つの欲望に引き裂かれた存在である。他人と同一化したいという欲望と、他人と差異化したいという欲望と...」

著者の石井洋二郎氏は、「ディスタンクシオン」の翻訳者として知られる。翻訳者が最も理解した立場とは言い切れないが、最もピュアな情熱をもって触れているということは言えそうか。本書は、この難物に立ち向かう術(すべ)として、「資本概念の拡大」「社会空間とライフスタイルの結びつき」「ハビトゥスとプラティックの概念」という三つのアプローチからヒントを与えてくれる。

「資本概念の拡大」とは、何を持って資本とするか、それは解釈の問題でもある。資本ってやつは、なにも金銭だけで測れるものではない。自己実現や自己啓発といった動機は独善的な自問を繰り返しながら、どんな情報も、どんな経験も、自己資本として捉えることができる。文化資本に、社会資本に、環境資本に... 精神的土壌を整える糧として...
経済学的には、資本は投資と結びついて合理的となる、いわば両輪。なんでも貪欲に自己投資しちまうのが、哲学する!ということかもしれん...

「社会空間とライフスタイルの結びつき」については、支配階級、中間階級、庶民階級といった分類に始まり、経済的格差や身分的差別に人種差別的意識、選好空間の分散やライフスタイルの多様化といった側面から人間認識の根源を追う。
フランス社会では、支配者階級と労働者階級で明らかな区別があり、ブルジョワやプロレタリアといった用語も輝きを放つが、日本社会ではどうであろう。階級なき社会などと形容されることもあり、プチブルや小ブルジョアといった用語の方がしっくりいくであろうか。戦時中の一億総玉砕の意識は、戦後に一億総中流の意識へ移行し、集団意識の強さは変わらないようである。経済的格差や身分的差別はヨーロッパ社会に比べると小さそうだが、その分、集団的な排他意識が強そうな。村社会、いや、村八分社会と言われる所以である。ライフスタイルは多様化しているものの、それを影で否定し、陰湿な攻撃を仕掛ける集団性が蔓延り、顔の見えぬ仮想空間となれば、誹謗中傷の嵐が渦巻く...

「中学校から大学にいたるまで、ほとんど露骨と言ってもいいような学校同士のランク付けがなされている。学校とは個々の生徒を差別化する制度であると同時に、みずから集団的に差別化される対象でもあるからだ。そして個人の偏差値と学校の偏差値のあいだには、きわめて緊密な共犯関係が成立する。」

「ハビトゥスとプラティック」は、両輪をなす概念だという。
"habitus" という用語は、habitude(習慣)からも想像できるように、後天的に獲得されたもろもろの性向であり、思考や行動様式そのもの。わざわざ「ハビトゥス」という言い方を持ち出して習慣と微妙に区別した理由は、「強力な生成母胎」というニュアンスを強調するためだとか。それは、ほとんど無意識化されたルーティンのような感覚であろうか。人間の本性は、無意識の領域に広大な部分があるということであろうか。
そこで、"pratique" という用語が補足してくれる。このフランス語の単語には、大抵「実践」という訳語が当てられるらしいが、英語の "practice" と重なり、意欲的な行動をイメージさせる。ただ、フランス語の文脈では、マルクス = サルトル的なイメージで用いられることが多いという。ここでは、「慣習行動」という用語を当て、無意識の領域をも含んだもっと広い意味を与えている。
となると、慣習行動はいかに惰性化を免れ、主体なき実践となりうるか?と問わずにはいられない。慣習は恐ろしい。実に恐ろしい。日々の繰り返しが、いつのまにか義務のような感覚に囚われ、疑問すら感じなくなる。それだけで行動規範と化し、自分自身の行動パターンを縛っちまう。常識ってやつも、この類い。
だがその反面、規範ってやつは、逆らいたいという意識をどこかに忍ばせ、突然爆発するパワーを誘発させることがある。それが、自由意志ってやつかは知らんが、アリストテレスは、こんな言葉を遺してくれた。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為ではなく、習慣である。」と...

... こうして眺めていると、「ディスタンクシオン」という用語に、卓越した差別化といったものをイメージしてしまう。人間は、本質的に差別好きな動物である。ならば、差別するという性癖を率直に受け止め、これを卓越したものに化学変化させるにはどうするか、などと問えば、なんと酷な要請であろう。卓越性とは、それ自体が他との区別であり、優越意識でもある。
その意識がネット社会に晒されると、たちどころに大衆化し、弁別機能を失う。差異を意識するあまりに、それに属すグループが異様なまでに似通ってしまうのである。
卓越性がさらなる卓越性を求めれば、大衆というグループに属すことを極端に嫌うようになる。自己が存在を意識するということは、わたしはあなたではない!ということを強烈に意識することだ。それは、自由意志によって裏付けられるのであろうが、自由意志ってやつは必ずしも意識的に働いているとは限るまい。むしろ無意識の領域に本性が隠されているのやもしれん。無意識の領域にまで卓越性を求めるとは、なんと酷な!意識の領域ですら、みすぼらしいというのに。哲学者という人種が、金銭や名誉なんぞではけして満たされない、最も貪欲な存在に見えてくる...

「社会がその健全なダイナミズムを維持することができるとすれば、それはただ、私たちがみずからの欲望を励起しながら、ざわめく差異の群れを次々に差別化のプロセスへと送り出し、社会というテクストを絶えず新たに織りなおすことによってのみである。いかなる絶対化からも自由な場所で、あらゆる停滞と硬直に抗しつつ、みずからを熾烈な差別化 = 卓越化の運動にさらすこと。差異のフェティシズムを周到に回避しながら、しかし執拗なまでに差異を生産しつづけること。『ディスタンクシオン』とは結局のところ、社会に生命を与える最も根源的な集合的欲望の別名にほかならない。」

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