2022-07-24

"自殺論" Émile Durkheim 著

生きる権利を主張するなら、死ぬ権利を主張してもよさそうなもの。死を運命づけられた知的生命体が、どうせいつかは... という気分になるのも道理である。自分の生に終止符を打つというのは、究極の自由論という解釈もできよう。生き方を問うということは、死に方を考えているのと同じことやもしれん。
自殺という行為が人間の本能に根ざしたものかは知らんが、これを抑止する良策があるとすれば、中庸の哲学と精神の均衡こそが鍵となるであろう。自殺を狂気とするなら、狂気のないところに才気は生まれない。芸術家や哲学者に自殺者を見かけるのは偶然ではなさそうだ。狂気を謳歌するところに真の正気があるのやもしれん...
尚、宮島喬訳版(中央公論社)を手に取る。

「生の世界においては、過度におよぶものはすべてよくない。生物の能力にしても、一定限界をこえないという条件のもとで、はじめて決められた目的を果たすことができる。社会現象についても同じことである。過度に個人化がすすめば自殺が引き起こされるが、個人化が十分でないと、これまた同じ結果が生まれる。人は社会から切り離されるとき自殺をしやくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである。」

社会が多様化すれば、死生観もまた多様化していく。しかし、自ら命を絶つ権利をあからさまに認めた社会は見当たらず、むしろ大罪とする宗派が大手を振る。
近代医学は、延命治療をますます進歩させるが、そうすることによって苦悶を長引かせるだけに終わるケースも少なくない。医学生たちは、死に向かう心理よりも、肉体に対する物理的な措置の方を多く学ぶ。医師が少しでも死期を早める措置をとろうものなら、メディアはこぞって理性の検閲官を自認し、本人が求める積極的な死ですら殺人と見なし袋叩き...
寿命がのび切った社会では、尊厳死というものを考えずにはいられない。欧米社会には安楽死ビジネスなるものがあると聞く。悪魔のビジネスマンと呼ぶ者もいるが、死への誘惑はどこにでも転がっている。その衝動に負けた時、死を処方する闇のプロフェッショナルが、少しばかり自然死のお手伝いをしてくれる。もう充分に生きたからと自らを納得させて。だがそれは、いいことがあるなら、もうちょっと生きていたいという心の裏返し。人間が合理的に生きることは難しい。死と向き合えば、尚更である。
だが、死がなければ詩は生まれないだろうし、芸術心や論理的思考を育むこともできまい。そして、生に意義を求めることも...

本書は、「自己本位的自殺」「集団本位的自殺」「アノミー的自殺」の三つに分類して論じている。とはいっても、それぞれの社会的要因や社会的タイプは、三つの類型が相互に絡み合った様相を呈する。エミール・デュルケームは、自殺をこう定式化する...

「当の受難者自身によってなされた積極的・消極的行為から直接、間接に生じるいっさいの死を、自殺と名づける。しかし、この定義も完璧ではない。というのは、これでは、まったく異なる二種類の死が弁別されないからである。高い窓を地面と同じ高さにあるとおもいこんで、そこから飛び降りる幻覚者の死と、自分がなにをしているかを知りながらみずからに一撃をくわえる正気な人間の死を、いっしょくたにし、同列に扱うことはできないだろう。」

注目したいのは、統計データを元に考察しながらも、数字をそのまま鵜呑みにせず、データ収集の仕方や数字には現れない状況までも想定している点である。
「自殺論」が刊行されたのは、1897年。社会学の論文としては斬新な試みだったことだろう。今日、社会分析で当たり前のように用いられる統計データだが、その信憑性を裏付けるのは難しい。それゆえ、いかようにも解釈できるという弱点がつきまとう。巷には、デュルケーム論法の変質で溢れている。社会現象において統計的な平均人を論じることに、どれだけの意味があるかは知らんが、ベンジャミン・ディズレーリは、こんな言葉を遺した。「嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である。」と...
なにも統計が嘘をつくわけではない。論者がデータを改竄しているわけでもない。都合のよい数字を拾い、より重要な数字を無視すれば、それだけで欺瞞できる。それは、些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じれば、世論を扇動できる報道屋原理と同じ。超一流の扇動者は、けして嘘をつかないものだ。
統計データの扱いは、結局は解釈の問題ということになろうか。数字を鵜呑みにしない時点で、既に主観の眼が向けられている。客観的な眼を向けるということは健全な懐疑心を保ち続けることであり、これを実践するにはよほどの修練がいると見える。デュルケームの試みは、主観と客観の相互で限界点を模索しているかのように映る...

自殺といっても、様々な動機に様々な状況が絡み合い、一筋縄ではいかない。ゴルディオンの結び目のごとく...
まず、何をもって自殺と定義するか。生活苦や病苦を背負って命を絶つ者、世間の眼に追われて命を絶つ者、社会的義務を背負って命を絶つ者、殉教の栄誉に浸る者、餓死を自然の力として受け入れる者、自ら人間失格を悟って命を絶つ者... あるいは、消防士や警察官のように自ら犠牲となる人たちもいれば、戦争では自ら捨て石となる人たちもいる。怒りは絶望に優るとも言われるが、その怒りが自らの命に向けられることも。
例えば、自説を曲げず、追放までも頑なに拒み、公開裁判で死刑を受け入れたソクラテスはどうか。征服者に屈服せず、誇り高く自刃した小カトーはどうか。後に、ダンテによって煉獄山の門番にされて...
デュルケームは日本人についても考察し、「まったくつまらない理由のために、簡単に切腹するのは有名である。」と断じる。
西洋人には、公に自殺を求めずとも、暗黙に強いられる社会が奇妙に映ったことだろう。いわゆる、空気を読むってやつか。武士の時代、恥を偲ぶぐらいなら死を選び、生に執着しないことが美徳とされた。「潔し」という言葉は重い。実に重い。それが現在では、死んじまったらお終い!とまったくの正反対、死を論じることすら忌み嫌う。その移り気を思えば、現代の価値観にも問い掛けねばなるまい。現在でも尚、集団が暗黙に命ずるものが根深くあると...

自殺とは、自らの命を絶つことであり、積極的な行為にも映る。だが、デュルケームは、内的要因よりも、むしろ外的要因であることが、ほとんどだとしている。
アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。つまり、最高善を意図した共同体の中で生きる存在であると。悪く言えば、集団依存性からは逃れられない存在とも解せる。そして、利己主義もまた社会の所産である。
高度な文明ほど自殺者が増加するとも言われる。未開社会でも自己本位的自殺はあったようだけど、少なくとも、近代的な自殺が社会的要因によって増殖させているのは確かであろう。富裕層でも貧困層に負けず劣らず自殺する。知性や理性が自殺の呼び水になることもあり、教育も当てにならない。
自殺の抑止力では、宗教も一定の効果があろう。452年、キリスト教はアルルの教会会議で、自殺を一つの犯罪と規定し、悪魔的狂気のなせる結果であると宣言したという。すべての命が神からの賜物だとすれば、自らの命を葬ることも大罪ということになる。それでも、論理的には隙だらけ。異教徒の命はどうか。宗教戦争は犯罪行為では...
結局は、中庸の哲学と精神の均衡に縋るほかはあるまい。憂鬱ってやつは都会の病とも言われるが、田舎にも伝染する。自殺はある種の伝染病であろうか...

また、人間の無意識の領域は、意識の領域よりもはるかに広大である。自己本位的自殺とアノミー的自殺とでは、その要因において類縁性が深いという。アノミー的とは、社会規範が弛緩になったり、崩壊したりする時に生じる感情や情熱に左右されるような状態。確かに自己本位的でもあるが、本当に自分の意志がそうさせているだろうか。
例えば、著名人や影響力のある人の死が殉死を呼び込んだり、ゲーテのウェルテルの悩みが社会現象になったり。
自己本位的自殺と集団本位的自殺とでは相反し、両極にあるように見えるが、これらが結びつくと、それは誰の意志であろうか。もはや自由意志の存在すら疑わしくなり、宿命的な意志を感じずにはいらない。デュルケームも、「宿命的自殺」のような感覚を匂わせている。
しかしながら、こうした感覚は自殺に限ったことではなく、日常に渦巻いている。突き詰めれば、誰かに扇動されているのではないか、どこかに暗躍する奴らがいるのではないか、と。人間は陰謀論がお好き!というのは、集団依存症という性癖を持つ人間の本質やもしれん。つまり、人間とは目に見えぬ存在に怯えながら生きている存在、ただそれだけのことやもしれん。目に見えぬ存在が本当に存在するかは別にしても、そんな存在がないと落ち着かない、ただそれだけのことやもしれん。だから、自らの生を仮想世界に投じようと必死にもがく。死もまたある種の仮想世界、ただそれだけのことやもしれん。精神そのものが仮想的産物ってことか...

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