2022-08-07

"奇想の図譜 - からくり・若冲・かざり" 辻惟雄 著

「文化は遊びの形をとって生まれた、つまり、文化はその初めから遊ばれた...」
... ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」より

時系列では「奇想の系譜」から隔てて刊行された「奇想の図譜」だが、姉妹書として意図されていることが伺える。「奇想の系譜」では、近代絵画史で長らく傍系とされてきた達人たち... 岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らを主流の前衛として紹介してくれた(前記事)。江戸の時代を生きたアバンギャルド!として...
ただ、奇想キテレツ流で欠かせない葛飾北斎については末尾で軽く触れるに留まっていたが、ここでは挨拶代わりに、いきなり北斎のワニザメで度肝を抜かれる。自由自在なる趣向といえば、やはり北斎か。日本画に見る装飾やかざりの極意。すべてのものに魂が宿ると信じるアニミズム。その影響力は、現代のアニメ作品にも見てとれる。
本書は、日本の美を貫くモチーフに遊び心と飾りを配置しながら、人間は生まれながらにしてお洒落であること、飾るという美意識は本能的欲求であることが論じられる。日本は個人主義後進国と揶揄されがちだが、こと日本美術における個性では一目置かれるらしい...

「日本の装飾の魅力をなすもの、それは、いつもその装飾の与え方に現れるファンタジーと奇想である。」
... フランスの美術評論家エルネスト・シェノー

ところで、ワニザメって、どんな生き物?
おいらは、こういうウンチクに目がない。「世界大百科事典」の「ワニ」の項によると、もとは山陰地方における鱶(ふか)の方言で、中国南部に棲む「鰐」に日本語のワニをあてたのは、古代日本における中央文人の誤りだったという。だとすれば、ワニとサメの重ね言葉ということになり、凶暴さと獰猛さのコラボで強烈なイメージを与える。
しかし、架空の動物だ。人間が架空の存在に思いを寄せるのは、精神そのものが仮想的な存在だからであろうか。得体の知れないもの同士で引き合うものがあるのだろうか。臆病であるが故に、怖いもの見たさという衝動が抑えられず、悪魔的なイメージを駆り立てるのやもしれん。
鑑賞者が飽きっぽいなら、作者も負けじと刺激を求めてやまない。そして今、ジュラ紀の映画などでは、ますます強烈な怪物を生み出す。いずれ人類は、仮想的な存在に飽き足らず、遺伝子技術によって本当に恐ろしいものを作り出すであろう...

1. 「をこ絵」と「絵難房」
「今昔物語集」の巻二十八には、比叡山無動寺の義清阿闍梨という僧の説話があるそうな。変わった人柄ゆえ世人には受け入れられず、ただ「をこ絵(嗚呼絵)」の名手として知られていたという。「をこ」とは、笑いをさそう馬鹿げた行為を意味し、義清は「をこ者」として描かれているとか。風刺や滑稽を描いた戯画の先駆者であろうか。柳田國男は、こんなことを指摘したという。「をこ」とは、思慮の足りない愚行のみを意味するのではなく、むしろ逆に、並より鋭い人物が、わざと「をこ」を演じる部分もある... と。
狂言や歌舞伎にしても、風刺や滑稽が芸術の域に達した結果であり、それは、正気よりも狂気の方に人間の本質が内包されているからであろう。芸術ってやつが、自然物ではなく、人為的産物であるがゆえに、達人たちは悪魔的な要素を描かずにはいられない。こうした絵画の傾向は、12世紀頃に出現したらしい。「鳥獣人物戯画」などは、人間どもをおちょくった感がいい。水木しげるを思わせるような動物の擬人化は、まさに現代漫画の先駆け。
また、時代を同じくして、「絵難房」と呼ばれる人物がいたそうな。どんな絵にも難癖をつけては批判することから、そう呼ばれるのだけど、こちらも、まさに現代的キャラクター。本書は、リアリズム評論家として紹介してくれる。新たな試みには批判がつきもの、抑圧には反抗がつきもの、これが人間社会の力学というものだが、いずれも自由精神の体現であり、芸術精神の根源的なもの。12世紀頃、平安から鎌倉にかけての時代に、近代芸術の先駆的意義を探ろうとする本書の試みは、実に興味深い...

2. 白隠慧鶴の禅画
白隠の絵は、「禅画」と呼ばれるそうな。但し、禅画という呼び名はもっと古くからあり、狭い意味で、白隠や仙厓ら江戸時代の禅僧の余技としての意味らしい。本書は、この禅画に、巧みなアマチュア的趣向を紹介してくれる。
禅の精神を伝える題材として、よく用いられるものに、寒山拾得や布袋がある。寒山拾得は小説にもなり、布袋は七福神の一人。こうした題材を率直でユーモアに伝える絵画論は、部分的には、一見しまりなく下手くそに見えながら、全体像では、技巧を超えた徳のようなものを滲ませる。あえて技工を捨てる素人観。それは、熟練工にしかできない芸当であろう。純真な精神を解放するには、高度な知識を捨てねばならぬことがある。神聖な精神が滑稽を演じるようにプロがアマチュアを演じて魅せるのは、厳格化された専門知識に対する、彼らなりの反抗であろうか...

3. 写楽別人説
江戸時代末期の浮世絵師「東洲斎写楽」という人物は、いまだ正体が掴めないらしい。やはり本命は、斎藤十郎兵衛説か。だが、一度はこれの否定説が有力視されたり、写楽北斎同一人説が飛び出したり、はたまた、外国人説が飛び出したり、様々な新説、珍説が後を絶たない。時期によって作風が変われば、独りの人物のしわざかも疑わしい。
現在では、斎藤十郎兵衛説に再び戻って落ち着いたようだけど、歴史なんてものは、新たな古文書の発見でどんでん返しを喰らう。しかし、真に歴史を動かしてきた人物というものは、歴史に名を残してこなかったのやもしれん。ましてや、政治的に目をつけられるほどの奇抜な創造力を持った人物ともなれば... なんらかの形で正体を隠し、世間を欺かなければ、自由精神が体現できない時代ともなれば... そして、現代も...

4. 風流の総括
風流という言葉には、なんとなく惹かれるものがある。風流に、粋に、生きたいものだと。日本的風流といえば、わび、さび、といった質素な感覚があるが、本書が題材とする装飾や飾りは、むしろ逆の立場。しかし、明るい装飾が存在するからこそ、質素な優雅さが際立つ。辻惟雄は、風流という言葉を、陽と陰の両面から、こう総括する...

「風流はきわめて多義である。風狂、好色もまた風流である。みやび、みさお、幽玄、風雅、すきなど、風流に関連する言葉は多い。風流の共通項をあげるなら、松田修氏のいわれるように虚構性ということしかないだろう。私の自己流な分類によれば、風流は陰と陽との両面にわたっている。陰の風流とは、隠遁趣味に結びついた高踏的風流、『かざり』との関連でいえば、あまり飾り立てない風流である。『わび』『さび』はおそらくこれらの風流に結びつくだろう。それに対し、陽の風流とは、賑やかに飾り立てるハレの風流である。いまたどってきたのは、大体この陽の風流の系譜であり、それは『かざり』と『奇』に焦点をしぼった風流の部分象かもしれないが、風流の本質がそこに含まれていることは確かだと思う。口はばったいことを申せば、『わび』『さび』や『ひえかれる』美意識は、この『陽の風流』のはなやかな装飾世界を前提として成り立ったものである。」

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