2022-08-14

"非常民の民俗文化 - 生活民俗と差別昔話" 赤松啓介 著

人間は、表と裏のある動物である。建前と本音を使い分ける動物である。
アリストテレスは言った、人間はポリス的な動物である... と。ポリス的とは、単に社会的という意味ではない。精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味が含まれている。
しかしながら、善を知れば、悪をも知ることになる。最高善を求めれば、その対極にある悪魔的な意識をも相手取ることになる。善悪ってやつは、表裏一体で迫ってくる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わぜていない知的生命体の宿命であろう。
そして、人間社会にも表と裏がある。陽な側面と陰な側面とが。いつの時代も、力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。堂々と正義を掲げる輩の陰に、権利の主張もできず、ひたすら耐え抜く人々が。これが人間力学というものか。本書は、陰の側面から人間社会を直視する、いわば、本音の社会学とでもしておこうか...

「これは一人の男の、敗北と挫折の記録である。いまから金儲けしようとか、立身出世したいという希望をもっているような人間が読んで、ためになるような本では断じてないだろう。また労働運動、反差別運動、平和運動など、いわゆる社会運動のなかで、あるいは加わって、民衆を指導し、指揮しようという大志をもつ連中も、読まない方がよい。社会変革を達成するために、民衆、あるいは市民を鼓舞激励する手法などは、なに一つ発見できないからである。むしろ、民衆とは、、市民とは、こんなつまらないものであるかと、失望するだろう。いや、そう見せかけて、実は、民衆の、あるいは市民の、かくされた大きな潜在力を暗示し、その発掘を示唆しているのだ、などと買いかぶるのはやめてもらいたい...」

民俗学の用語に、柳田國男が提唱した「常民」という概念がある。本書は、これに疑問を投げかけ、「非常民」の側面から人間社会というものを物語ってくれる。柳田民俗学を陽とするなら、赤松民俗学は陰ということになろうか。
そして、人間の本質は陰の部分にこそ露わになる。人が正直に生きることは難しく、自己までも欺瞞してかかる。しかも、無意識に。無意識の領域は意識の領域よりも遥かに広大で、これを相手取るにはよほどの修行がいる。
古来、哲学者たちは問い掛けてきた、人間は生まれつき善か、それとも悪か、と。悪とするぐらいが控え目でよかろう。それで謙虚になれる。いや、本当に悪魔になりきるやもしれん。自分の理性に自信を持てば、理性が暴走を始める。理性ってやつは、脆弱である。実に脆弱である。しかし人間社会は、これに縋るほかはない。ならば、自問する力こそが問われよう...

いまや学問は、大学や研究機関だけで営まれる時代ではない。優れた研究者がアカデミズムの外にも溢れ、魂のこもった仕事をしている多くに在野の研究者を見かける。そして、彼らは反主流派に位置づけられる。著者の赤松啓介も独学で取り組んだ一人。
確かに、人間社会には必要悪というものがある。例えば、人類最古の商売とされる売春が、売春防止法なんぞでなくなると信じるお人好しは、そうはいまい。いじめのない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。差別のない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。村八分社会や階層社会なんてものは、日本社会のあらゆるところに蔓延る。その証拠に、世間には勝ち組と負け組で区別することのお好きな輩に溢れ、自分自信を勝ち組の側にいると信じて安心を買おうと必死だ。
おまけに、理性屋どもは、人間社会に蔓延る悪癖にこぞって目くじらを立てる。おそらく、彼らは清廉潔白なのだろう。清廉潔白な人間?それは本当に人間なのだろうか。人間の皮をかぶった悪魔にも見えてくる。正義依存症や道徳依存症といったものは、アルコール依存症や麻薬依存症と何が違うのだろう。幻想を追いかける点で同類項にも見えてくる。天の邪鬼の眼には...

「柳田民俗学には、日本人は太古の昔から優秀な民族で、これからも繁栄して行くという空疎な前提がある。だから差別や階層、性、犯罪、革命などという醜悪なことは、日本の民俗や精神生活にはあり得ないと信じようと苦心していた。したがって、そうした視角からより民俗や精神文化、経済社会、生活環境を見ることができなかったので、その調査も、研究も、表面を撫でさすっただけのキレイゴトに終わっている...」

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